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Aの子育て

ちょうど一年前に離れたテムズ川にまた戻って来た。

コミュニティーのメンバーは変わっていなくて、何隻かの新しいボートと仲間が増えていた。


旦那がどんなふうにしてまたコミュニティーの中にボートを止める場所を確保したか知らないが、わたしが仕事から戻ると一年前の時のようにコミュニティーの中のボートとボートの間にわたしたちのボート、「ダイアモンド」が収まっていた。


わたしはさっそく仲間たちと挨拶を交わした。

彼らは一年前と変わらず、皆ビールを片手にたむろしていた。


旦那もすでに酔っ払っているようで、カナルにいた時は、それでも少しは小綺麗で、服装に気を使っていたのに、1日にしてジャケットやジーンズが泥かオイルかなにかで黒ずんでいた。


どうやったらこんなふうになるのだろうか......?


Wがビールの缶を開けてわたしに差し出し、言った。

「おめでとうー!妊娠したんだってな!」


あ、ありがとう.....,

でも、ビールはいらないよ......


「おいっ、子供ができると大変だぞ。毎日ギャンギャン泣くし、物は増えるし、寝れないし居場所はないし。人生最悪だ。幸運を祈る!」

と、Wは旦那に言った。


相変わらず自己中なWだった。


ちょうどその時、Wのボートから赤ちゃんがギャンギャンと泣く声がした。

そうだ、Aに久しぶりに会いに行かなければ。

AとWの娘はもう10ケ月半ぐらいになっていた。

あと2カ月ほどでもう1歳になるのか。早いものだ。


Wのボートに行くと、AがMAちゃんを寝かしつけようとしていた。

わたしが中に入ると、Aは久々の再会とわたしの妊娠を喜んでくれた。

わたしたちのやり取りにMAちゃんはなぜか泣き止んだ。

産まれたばかりの頃は未熟児で小さかったのに、彼女は1歳前とは思えないほどに大きく成長していて、赤ちゃんらしく丸っこくて、緑の目がガラスみたいに輝き、金髪のサラサラの薄毛で天使のように可愛いかった。


Aは「彼女が毎晩なかなか寝てくれなくて、まだ2、3時間おきに起きて泣くの」と言って、疲れているようだった。


ボートの中にはたくさんの赤ちゃん用品やら、おもちゃなどが山積みになっていて、狭い室内が更に狭く感じ、ソファー兼用のベットの上以外の居場所はなかった。

ベットはダブルサイズで、そこで親子3人で寝ているのだという。( そして犬も時々布団に潜り込んでくる )


WもAもどちらかと言うと大きめサイズなので、小さい赤ちゃんがよく押しつぶされずに今まで暮らしてきたなあと、わたしは感心した。


Aは出来合いのシングルパックになっているミルクを使っていた。

それを温めるでもなく、直接哺乳瓶に入れてMAちゃんにあげていた。

毎日のことなので、いちいち温める用のガスや電力を使っていたら、日々持たないのだと言う。

粉ミルクは、ボートに湿気が多いから使えないので、携帯用の出来合いミルクを買うしかない。

なので、お金がかかると言い、MAちゃんをお風呂に入れるために、自分は週に一度しかシャワーを浴びることができないと言った。


その年の冬はテムズ川ですら氷が浮くぐらい寒くて、川の流れが早かったので、ボートを動かして水を汲んだりすることができなくて本当に大変で、薪ストーブのススで黒ずんでいくMAちゃんのベビー服を見るのが辛かったと、Aは涙目になった。


うーん、これから子供を持つわたしには、かなり現実的で考えさせる内容ばかりだ。


それに加えてWは遊んでばかりで、仕事も気が向いたときしかしないし、Aのサポートは一度もしないのに、家事など自分の世話は押し付けるし、スペースがないと言ってMAちゃんのおもちゃを、外に全部投げ捨てたこともあったのだと言う。


Wも子供ができて少し落ち着いたと思いきや、全然変わっていないので、わたしはAに同情はしても驚きはしなかった。


それよりも、変なことですごく驚いた。

AがMAちゃんがお腹が空いた時のために買い置きしておいたスナックを、Wがいつも全部食べてしまうのだと言う。

Aは自分の娘のお菓子を食べてしまうWが酷くて信じられない父親だと言ったが、見ると、大人や大きい子供が普通に食べる「カール」に似たパフ系の味の濃いスナック菓子だった。

1人用サイズだが、1歳前の子供に与えるには明らかにカロリーも塩分も高い。

これを普通に与えているAに驚いた。

MAちゃんがとても好きで、1人用を全部食べきるのだと言う。


ええっ!いいの?

わたし、子供を育てたことがないからわからないが、おやつにこんなものを与えちゃいけない気がする。


しかも、離乳食は全て瓶詰めのインスタント類を使っていて、温めもせずに食べさせるのだと言う。


ボートの充電がなくなると冷蔵庫の温度も低くなったり、冷凍庫もろくに使えないので、離乳食を作って保存できないし、環境からいってインスタントで済ます方が衛生的にも安心できるのだろう。

水やガス、電化製品が思うように使えなかったら、小さい子供を抱えて細かい調理や洗い物を毎日こなすのは大変だ。

しかも、ミルクも離乳食も高くつくし、ちょっと高い乳児用のスナックまで買っていたらお金が続かない。

子供を空腹にさせるよりは安いスナックを与えている方がマシなのだろう。完全に悪循環だ。


その夜、わたしはなんだかショックで眠れなかった。

この環境で彼女はなぜ、それでもWといて、ボートで子育てを続けているのだろうかと思った。

彼女はイギリス人だし、田舎に帰れば母親もいるではないか。

子供のことを考えたら、こうして暮らしていていいはずがない。


まだWが、彼女をもっと助けて一緒に乗り越えてくれるのなら話は別だが、ほぼ全部、彼女が1人で背負っているのだ。


しかも、MAちゃんは10ヶ月にもなるのにハイハイすらしていない。

ただ座っているだけだという。

「ボートの中が狭すぎて、動き回ることができないの」とAは心配していた。


自分と娘が窮屈な環境で暮らしているのに、それでもWといるのには、彼女なりに何か理由があるのだろう。

Aの心の奥底を何も知らないわたしには、彼女に何も言うことはできなかった。


わたしにも子供が産まれて、確かに生活はガラリと変わるだろう。

Aとあまり変わらない状況で狭いボートの中で洗濯機も冷凍庫も、便利なものは何一つない環境で子育てをしていくのだ。


大変なのは分かっていた。

でも、始まってみないと分からない。


子供が産まれて旦那、もしくはわたしが、もしかして豹変してしまうのかもしれないし、大変でも助け合ってなんとかやっていけるかもしれない。


何にせよ、これから授かる命をどんなことをしても守っていかなければいけないのだと思った。


Aもそうやって生きていることだけは心から理解できた。


久しぶりに戻って来たテムズ川、複雑な気持ちでわたしは、仲間たちが騒ぐ声を聞きながら、ベットの中で眠れない夜を過ごした。

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