さよならテムズ川
カナルに移動するまでもう何日もなかった。
わたしは変に慎重派なので、カナル情報を密かに仕入れたりした。
聞くところによると、ロンドンのカナルでは、ボート生活者を狙った犯罪が多いという。
ボートの中に人がいるのに、窓やドアを叩き割って侵入され、脅かされている間に貴重品や電化製品を持って行かれてしまった女性がいると聞いたときは、とても怖くなった。
10代の子供たちが面白半分でボートに石などを投げて窓ガラスを割ったり、ちょっとした盗難などはよくあるのだという。
怖い目にあうのも嫌だが、やっと手に入れた発電機や貴重なケータイなどが盗まれたり、窓ガラスを割られたら、今でもギリギリの生活がもっと苦しくなる。
なにか問題が起きたら、助けてくれる仲間はもういないのだ。
安心できるコミュニティもないし、1、2週間の滞在で、またどこかに移動しなければいけない。
規定の停滞場所に止めれるスペースがなかったら、場所によっては遠くまでまた移動しないと、場所がなかったりするのだ。
わたしは心配になり、旦那にそのことを言った。
旦那は 「そんなこと気にしていたら、やりたいこともできないし、そんな話があったとしても、カナルに長いこと住んでいる人達はたくさんいるんだから、そこまで危険なところじゃないだろう」と、軽く流された。
それでもやはり心配なので、一緒にカナルに行くことになっているTとJに言ってみると、二人は「自分たちも一緒にいるんだから、何かあったら助け合おう」と言ってくれた。
二人がいるのは心強かった。
実際わたし、顔も英語もそのまま外国人丸出しなので、新しい環境に行くのをためらうことがあった。
世界各国どこに行っても、小さいことから大きいことまで差別する人達はいるのだ。
もうそろそろ慣れてもいいころなのに、嫌な思いをするのが面倒だった。
あんなに行きたかったカナル。
いざ行くとなると、なんだか足踏み状態になってしまう。
好き放題やってうるさいと思ったことさえあるボート仲間たちが、とても恋しくなってきた。
コミュニティから離れても、仲間たちはいつもやって来る。
わたしが仕事から戻ると、嬉しそうにハローと声をかけてくれる。
わたしに安心感を与えてくれる人たち。
この人たちに出会ったというだけで、これから先に何かがあったとしても強い気持ちでいれる気がする。
これだけでもういいではないか。
わたしは心配するのをやめた。
どこに行っても自信を持ってやって行ける。
テムズ川での生活を残りわずかにして、わたしは今あるものに感謝した。
2008年4月。
旦那の誕生日の前日、わたしたちはテムズ川に浮かぶ小さな小島で、最後の夜を過ごした。
一緒にカナルへ向かうTとJのボートを含め、ほぼ全員の仲間たちのボートがそこに集まって、旦那の誕生会とわたしたちのお別れ会を含めたパーティーを、かなり盛大にした。
ボート仲間たちの他にも、なんだかよく分からない人たちまで現れ、狭い小島がフェスティバルみたいになった。
旦那とTは翌朝からボートを操縦するので早めに切り上げたが、パーティーは明け方まで続いていた。
翌朝、早くから二隻のボートにエンジンがかかった。
テムズ川からカナルに出る大きな水門は、前持って予約して水門係りに開けてもらわなければいけないので、予約時間に間に合うように、出発は朝の7時を予定していたのだ。
エンジンの音がすると同時に、仲間たちは半分眠たそうな目をしながら、わたしたちを見送ってくれた。
全員とハグをして別れの言葉を交わし、わたしは最後にAと、子供が産まれたら一番で見に来ると約束してハグをした。
旦那はWと「ブラザー!」と言いながら、肩を組み合っていた。
旦那とすごく仲が良くなったSは、とてもさみしそうだった。
旦那もWと離れるより、Sと離れることの方が名残惜しく感じたと、後で言っていた。
ロンドンからこの場所までは、車で30分。
バスと電車を乗り継いで1時間程度なのに、それはまるで遠い国に移住しに行くかのような、ドラマチックな旅立ちだった。
TとJのボートが先に島を離れ、わたしたちのダイアモンドがそれに続いた。
旦那とわたしが「本当に今までありがとう!」と手を振ると、仲間たちは皆一斉に手を振った。
わたしたちが見えなくなるまで、皆ずっと手を振り続けていた。
約1年と4ヶ月。
信じられないくらいに色んなことがあった。
新しくボート生活を始めたわたしと旦那を快く迎えてくれた仲間たち。
大きな家族のようだった。
その仲間たちが見えなくなり、降っていた手を下ろして、わたしは前を向くと、大きな水門が見えた。
ここを通ったら、しばらくしてカナルに出る。
新しい生活が始まる。
カナルではどんな出会いがあり、どんなことがあるのだろう。
わたしは期待より不安の方が大きかった。
旦那は清々しい顔をしている。
彼は新しいことをするのが大好きなので、本当は今にも踊り出したいくらいに浮かれていた。
「バイバイ、テムズ川」わたしが言うと、旦那は「またいつか」と言って敬礼した。




