エンジニアのAN
2008年3月。
この年の3月は暖かい日が多く、まるで春が早く来たようだった。
水仙や、桜のような花が咲きだし、テムズ川沿いはすでに華やかになりつつあった。
朝日、青空、夕日に照らされ、日に何度も色を変えるテムズ川を見ながら、わたしの気分も浮かれてくるはずだったが......
エンジンが故障した。
速かった川の流れも落ち着き、いよいよ水を補給したり、トイレを汲み取りに行くことができる。
わたしは朝からはりきってバスルームやキッチンの掃除をした。
水を汲む前に、ボートのタンクに残っている水で、できる限り掃除や洗い物をしておきたかった。
ダイアモンドが、久しぶりに陸を離れた。
ボート仲間たちは、わたしたちのボートの場所を他の人に取られないように見張ってると言って、わたしたちを見送ってくれた。
旦那は、久々の移動で浮かれている。わたしもやはり、ボートの旅はちょっとした小旅行気分で楽しい。
そんな幸せな気分も15分ほどで崩れ去ってしまった。
急にエンジンが止まってしまったのだ。
旦那が慌ててエンジンをかけ直すが、かかりそうで、かからない。
ダイアモンドは、テムズ川のど真ん中に浮いたままで、ゆっくりと横向きになっていく。
わたしも旦那も焦った。
大きい船が来たら、よけることもできない!
旦那はすぐにWに電話すると、Wは彼のボートですぐにやって来た。
そして、ダイアモンドを牽引してコミュニティのある場所に戻った。
え!?戻るの?
水も補充せずトイレも汲み取らないで戻るというのか!?
確かに15分先はわたしたちの停滞場所、2時間先は供給場所、牽引でどちらに行くかと言われたら、前者だ。
その時、シャワーはまだ壊れたままだった。
エンジンの修理も誰かに頼んだら、直るまで何ヶ月かかるか分からない。
わたしは朝から掃除で、結構な量の水を使ってしまっていた。
トイレもほとんど使ってはいけない状態だ。
最悪......
これからどうなるのだろうと、わたしは真剣に悩んだ。
それに比べて、旦那はのんきなものだった。
ANにエンジンの修理を頼んで了解を得たら、本気で安心しているようだった。
わたしは何かあるたびに、いつも先のことまで予測して対策を考えるので、いい時もあるが、取り越し苦労も多い。
旦那は困った事態が発生するまで心配しないで、のんびりとしているので、時々、なんてお得な性格だろうと思ってしまう。
ANは素晴らしいエンジアだが、怠け者で、やると言ってから行動するまで非常に長いので、Wが文句を言っていたのを、わたしはしっかり覚えている。
ジムの契約がまだ残っているので、シャワーの修理はまだいいとしても、エンジンは早急に直してもらいたい。
「もう、お金払ってもいいから、なんとかしてよ」と思いながら銀行の明細書を見るが、ムリだ。
やっぱり払うお金なんてない......
わたしの心配をよそに、ANは翌日の夕方、旦那が仕事から戻るとすぐに修理を始めると言った。
さて、エンジンはすぐに直るのか?
エンジンが壊れた翌日、わたしが帰宅すると、「ANがエンジンを見に来た」と、旦那が言ったので、わたしは驚いた。
いつもなかなか重い腰を上げない彼なので、すぐに来てくれるとは思ってもみなかった。
「それでエンジンは直ったの?」と聞くと、直っていないという。
旦那が言うには、ANはエンジンを見ただけなのだと言う。
は?
見ただけなの?
そうなのだ。
エンジンを直すと言ってやってきて、まずビールの缶を開け、よいしょ、と川辺に腰掛けてどうでもいい話を始め、旦那がいつ作業を始めてくれるのかと思っていると、また次のビールの缶を開け、「よし、エンジンでも見るか」と言ってエンジン室の中を覗いて、「暗くなってきたから、何も見えない。明日また来る」と言って、帰って行ったのだそうだ。
は?
一体何しに来たんだろう......?
ANのボートは、正月明けまでわたしたちがいた、テレタビーランドに止めてあり、ボートで来ると10分、15分ほどだが、彼はわざわざこれだけのために余計なガソリンを使ってここまで来て、帰って行ったのだ。
わけがわからない。
ANは何度か同じことを繰り返してから、やっとエンジンを直してくれたが、他でお金をもらって仕事をする時は、ちゃんと仕事を予定通りにしているのか心配になる。
ANは、天才的なエンジニアだ。
車だろうがボートだろうが、作業を始めたら簡単に直してしまう。
壊れて使い物にならなくなった発電機を二つ合わせて、まともな発電機を組み立ててしまうほどだ。
ダイアモンドを直すときも、エンジンのかかりそうで、かからない音を聞いただけで、故障の原因が分かったらしい。
エンジニアなら誰でもいいだろうと思うが、彼を信頼して、わざわざ海外まで彼を連れて行って仕事をしてもらう客もいるほどだ。
経験豊富で、しっかりとした技術を持っていながら、彼はいつもホームレスのような身なりで、ギリギリの生活をしている。
なぜだろう?
答えは簡単だ。
彼はマイペースすぎるほどのマイペースで、究極の面倒臭がりやなのだ。
わたしが始めて彼と会ったときはびっくりした。
ALは小さな釣り用ボートに犬、しかも大型のシェパード犬二匹、猫二匹と一緒に暮らしていたのだ。
50代後半で、白髪混じりの油っぽい長髪でガリガリに痩せていて、服は動物の匂いと毛だらけ。
誰だって「始めまして」と挨拶されたら、ちょっと戸惑ってしまう。
ALはバカ騒ぎなどしない。
いつも静かに仲間たちが騒ぐのを、ビール缶片手に陰で見守っている。
真剣な顔で何を考えてるのだろうかと思えば、急に笑顔でわたしに話しかけてきたりする。
しかもなぜか「ダーリン」とわたしを呼ぶ。
もしかしたらわたしの名前を覚えていないのだろうか......
わたしと旦那がケンカした翌日、卵をケースごと差し入れてくれたのはALだった。
わたしが困っているときは、快く助けてくれる。
すごくすごくいい人なのだ。
ある日、ALとゆっくり話す機会があった。
「久しぶりに頭を洗ったから、髪がサラサラだろう」と嬉しそうにALは言った。
翌日娘さんに会うので、シャワーを浴びたのだと言う。
彼には離婚した奥さんがいて、20代の娘が二人いる。
嬉しそうにケータイの写真を見せてくれた。とても美人な姉妹だった。
彼の母親も近くに住んでいるという。大きな家で、庭でくつろいでいる彼の母親の写真は、ALが育ちのいい家庭で育ったのでは、と思わせるようなものだった。
それなのに彼は、小さなボートでペットたちに囲まれて生きることを選んだのだ。
エンジンの油で真っ黒に染まってしまった彼の手を見ながら、ホームレスみたいに見えるただのおじさんも、色んなことを抱えて生きているのだと思った。
ALが、ビール缶片手に歩いている。
通りすがりの人たちが彼を大きくよけて歩いていく。
わたしはしっかりとALの隣にくっついて歩いた。
「オレと歩いてるのを友達なんかが見つけたら、誰も話しかけてこなくなるんじゃないか?」
ALが冗談っぽく言うので、わたしは笑った。
大丈夫。
それでもわたしはALの隣にくっついて歩くから。
ALの、白髪混じりの洗いたてのワンレングスがなびいて、「後ろから見ると女二人が歩いているように見えるだろうなあ」と思って、思わず笑いそうになった。




