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わたしは最後のひとつである苗を手にして、ソッと掘り起こした土の中に入れた。苗の周りの土と、植え替えた周りの土とを馴染ませる。―…うん。これでよし。前世のわたしの母親の趣味が園芸だったおかげもあってか、幼少の頃から花植えだの家庭菜園だのを手伝っていたので土仕事は割と得意なほうだ。無心になれるし、何より花や野菜も成長を見るのが楽しみなので、そのための作業ならば苦でもない。
やり遂げたぞ!ふぅ、とわたしは土がついた腕で額を流れる汗をぬぐった。
そしてそこでようやく、自分がアステリオと一緒にいること思いだした。…まずい。ちょっといじるだけのつもりが、途中から作業に夢中になりすぎて、そっちのけで植え替え作業を行ってしまったじゃないか!何をしているんだ…。
「あ…あのね、アステリオ、わたしが言いたかったのは…」
本来の目的はこれではないのだ!慌てて振り返ろうとすると、そんなわたしの隣にストンと彼がしゃがみこんだ。そして植え替えたばかりのまだ小さな花の苗に優しく触れる。その手つきはとても優しくて、いたわっているようにも見えて、彼は本当に心優しい少年なのだなぁと素直に思った。植物に優しい人に悪い人はいないわよ!と、前世で母がよく言っていた言葉を思い出してなるほど確かに…と1人で納得してしまった。すると、彼はチラリとわたしのほうを見た。まっすぐで綺麗な左目が、遠慮がちにわたしを見ている。
「…失礼致します。」
しばらくの沈黙の後、不意に彼の手がわたしのほうに伸びた。白くて上質なハンカチがわたしの頬を撫でる。ふわっと、いい香りがした。洗いたての心地よい石鹸のような優しい香りだ。突然のことに驚いていると、アステリオが目を伏せながら口を開いた。
「不躾に申し訳ありません…。ですがその、お顔に土がついておりましたので…」
「えっ、本当!?さっきこすった時についちゃったのかしら…。全然気付かなかったわ。ありがとうアステリオ」
額の汗をぬぐった時に、袖についていた土がついてしまったのだろう。それにしてもなんて気の利く子だ。ごく自然にお礼を言うと、彼はまたびっくりした顔をした。…この顔をわたしはここ何日かで数十回は見ている気がする。逆に言うと、やっぱりそれだけお礼を言われ慣れていないのだと思う。そうさせてしまったのは他の誰でもないシャルロット、なのだけれど。
でも感謝の言葉はとても大切なものだと思うのだ。わたしが前世で大好きだった言葉も「ありがとう」と「定時退社」だったし。言ったほうも言われたほうも、どっちもいい気持ちになれる言葉。それってもう魔法の言葉なんじゃないかなって思う。
そういえばまだ攻略はしていなかったけど、ゲームの中のアステリオは暗い目をしてこう主人公に吐露した時があった。「俺は何のために生きているんだろうと思う時がある」と。召使はおろか下僕のように扱われ、感謝の言葉など生涯言われたこともない。いつもひどく蔑んだ目を向けられていた彼は、そう思わずにはいられなかったのだろう。
目の前の彼を見ながらも、わたしの脳内では必死にマージナル・ラヴァーズでの出来事を考えていた。
確か、アステリオルートのシャルロットは、主人公と自分の「所有物」であるはずのアステリオが恋仲になっていることに腹を立てていた。あわよくば目障りな主人公を殺してしまおうと考えていたらしい。主人公のことを嫌っている他の取り巻きたちと一緒に彼女を陥れ、迷宮に連れ出しそこで魔物に襲わせようとした。だが、そこに駆け付けたのがアステリオ。彼は主人公を助け、シャルロットは暴走する魔物に食われて死ぬのだ。大事なことなのでもう一度言っておこう。わたしは魔物に食いちぎられて死ぬ。そりゃもう、ぐちゃっと。……ああああ、もう自業自得とは言え悲惨すぎる!!!そんな未来は想像したくない。ネットに出回っていた「#死に方が無残なシャルロット」は、こういう死に方が多いからだったのだ。
まぁこれを回避するためには学園に行かなければ主人公と出会うこともなくなるので一番いいのだが、16歳になれば入学することは決められているので駄々をこねても仕方がない。仮に行かないと言ったとしても理由が「学園に行けばわたしは死んでしまうからよ」だなんて馬鹿なこと言えないし。そんなこと言えば頭のおかしい奴としか認識されない。
以前のシャルロットならばやりかねないが、前世の記憶がバッチリ戻っている今のわたしには主人公をいじめる理由は何ひとつない。だから回避しようと思えば出来るのかもしれない。だが嬉しいやら悲しいやら、アステリオも王子様たちに負けず劣らずモテていた。彼の熱狂的なファンたちがわたしを巻き込んでそういう騒ぎを起こすことだって考えられる。わたしがやっていないと言っても、「公爵令嬢に言われたので仕方がなくやりました」と口を揃えられたら、不実の罪を被ることになるだろう。実際こういうことは現実世界でもあり得る話だ。大人数の嘘に、人は簡単に騙される。うん、あり得ない話ではない。
「………アステリオ、わたし決めた」
確実に来たる死亡フラグを回避するために、わたしがすべきことは現時点で2つ。まず一つ目は魔法をしっかりと習得しておくこと。アステリオと主人公が恋に落ちる可能性は大いにある。主人公のイラストめっちゃ可愛かった気がするし。恋だのなんだのは本人たちの自由だからいいとしても、わたしは自分のことを守れるだけの魔法が必要になる。自分の身は自分で守らねばなるまい!
それからアステリオと仲良くならねばならないということ。でも前世の記憶を取り戻す前のシャルロットと彼との溝は思ったよりも深い。その溝をまずは埋める必要性があるだろう。このままの関係性が続く限り「主人と下僕」のような関係だった今までからは、前に進めない気もする。―…かといって、いきなりベタベタしすぎるのもおかしいし。一歩間違えば死まっしぐらなのだ。例えるなら足場が一本のロープである状態。どんなことでも気は抜けない。
出来る限り不安要素をなくす努力をすべきだ。
悩んだ挙句、わたしはひとつの答えに辿りついた。
「わたし、明日からパウロさんやアステリオと一緒にこの中庭の植物の世話をするわ!」
いきなり仲良くなるのは無理にしても、少しずつでも距離を縮めて行こう!!!
そのために出した結論がこれだ。突飛もないわたしの宣言に、目の前の彼は今までで一番びっくりした顔をしていたと思う。
―…その後は結局、夕食の知らせに来てくれたアマンダに見つかり、2人して土だらけなことをこっぴどく怒られた。ましてやわたしなんか特に怒られた。ドレスワンピースで土いじりをするなんてと、それはそれは、たいそう怒られた。いや、だってね、わたしにも事情があってね、なんて言い訳をする暇も与えないくらいにアマンダの勢いが凄かったのだ。ううん、流石はメイド婦長だわ…。伊達に屋敷中のメイドたちを束ねているわけではない。
怒られているわたしの後ろで、アステリオも執事長のセバスに怒られていた。お嬢様の奇行を止めるのも役目だぞ、とか言われていた。というか奇行って。土いじりするくらいで奇行になるというのなら、わたしはこの先この世界でうまくやっていけるのか不安だぞ。
説教のあと、半ば強制的に風呂に入れられたわたしは小奇麗な衣装に身を包んで自室を出た。お父様とお母様にもこの件は報告がいっているに違いない。夕食の席で何か言われるんだろうなぁ。またお説教は嫌だな…。せっかくの美味しい夕食が待っているというのに、これからまた怒られることを考えるだけでゲンナリしてしまう。部屋を出るとそこにはアステリオが立っていた。彼も風呂に入れられたのか、いい香りがする。
「シャルロットお嬢様、ご夕食のお支度が出来ましたのでお迎えにあがりました」
向こうも怒られて疲れただろうに、いつもと変わらぬ調子でいるのでやはり凄い。いや、執事長に怒られるなんかよりも、よっぽど酷いシャルロットのワガママに今まで付き合わされていたのだからそりゃそうか…。わたしは苦笑い気味にアステリオの後ろを歩いた。
「あっ」
そういえば、と、わたしは小さく声をあげた。その声に気付いてアステリオが立ち止まって振り返り、不思議そうに小首をかしげた。
「?…どうかなさったのですか?」
「いいえ、ちょっと報告があるの。実はね…。アマンダに話したら、外での作業用の服を用意してくれるって言われたのよ。ふふ、これで思う存分、心おきなく土いじりが出来るわ!」
そうなのだ。アマンダの説教はとても長く、とても辛いものではあったが…その代わりに大きな収穫もあった。どうしても植物の手入れを手伝いたいのだと必死に伝えた結果、作業用の服を用意してくれると約束してくれたのである。アマンダはたとえ断ったとしてもわたしが土いじりをする勢いだと、察してくれたのだと思う。ワンピースドレスのままでまた土まみれになられるよりはマシだと思っての判断だろうが、それでもわたしにとっては朗報だった。
「……あれは本気、だったのですね…」
「ええ、勿論よ!」
アステリオはこれまたひどく驚いた様子だった。目を丸くしている。わたしが興奮気味にふんっ、と鼻で息をしてみせると、困ったような顔をして笑った。
「アマンダ婦長も許可して下さったのならば、僕は勿論シャルロットお嬢様のお言葉に従います。僕はお嬢様の執事、ですので」
「ふふ、ありがとう!早速、夕食の後にでもお父様とお母様にも伝えてみるわ」
わたしは意気揚々と足取りも軽く夕食の準備されている広間へと向かった。
***
夕食はとても美味しかった。
メインのステーキはほっぺたが落ちるんじゃないかと思うくらいに美味しかった。ミディアムレアの焼き加減はちょうどよく、まるで高級なレストランのお肉のように口の中で肉汁がジュワッと広がる。くぅっ…貴族はこんないい食事をしているのね…!夜中に1人、たいして面白くもないドラマを見ながらカップ麺を啜っていたかつての自分の姿を思い出して、なんだか哀れで泣けてきた。
「そういえばシャルロットちゃん。アマンダから聞いたわよ~」
食事を終えて一息ついていると、案の定アマンダから夕方の件を聞いたらしいお母様が声をあげた。心なしか声のトーンがいつもよりもワントーン低い気がする。思わずわたしの体はギクリ、と反応を示した。
「明日からお花を育てるのだそうね。何のお花を育てるかもう決めているの?」
あれっ?
お母様の口からは想像していたお叱りの言葉はひとつたりとも出てこない。
「中庭はパウロがよく世話してくれているから本当に綺麗よねぇ。もう少し涼しくなったら、また皆さんをお招きしてお茶会をしたいと思っているの。だから出来れば華やかなお花がいいわねぇ~」
「え?えぇ…は、はい。勿論です」
ニッコリ笑顔でお母様はそんなことまで言う。んん?どういうことだ…?アマンダは土まみれになっていたわたしたちの件を報告しなかったのだろうか。てっきりお父様たちには報告したものだと思っていたのだけれど。傍に控えていたアステリオも少し不思議そうな顔をしているようだ。すっかり怒られるモードに入っていたので、なんというか、拍子抜けでびっくりした。わたしが動揺しながら返事をすると、調度よくアマンダが食後の紅茶を手に広間へと入ってきた。
「お待たせ致しました。食後の紅茶をお持ちいたしましたよ」
「あら調度いいところに。ねぇアマンダ。アマンダは中庭に新しいお花を植えるとしたら何がいいと思うかしら?」
お母様はそんなアマンダに楽しそうに尋ねている。
「んー、そうですねぇ…。これからの時期でしたら秋バラなどは綺麗に咲くでしょうし、香りも楽しめるしよろしいんじゃないですか?そういえば去年の秋バラを奥様がひどく気に入っていたようですから、今年もパウロが準備していると思いますよ」
「あら本当?それは楽しみねぇ~!うふふ、シャルロットちゃん、よろしくお願いね」
紅茶を入れてそれぞれの目の前に置きながらアマンダは素知らぬふりで答える。お母様は気をよくしたのか嬉しそうに微笑みながら口元で両掌を合わせて上機嫌だ。わたしは極力動揺を覚られぬようあいまいに返事を返すと、紅茶の入ったティーカップをわたしの目の前に置いたアマンダの耳元で小さく呟く。
「アマンダ、夕方の件…お母様たちには言っていないの?」
「ええ、言ってませんよ」
「な、なぜ!?」
仕事の出来るメイド婦長のアマンダのことだ。てっきり報告しているのかと思っていたのに。わたしが驚いていると今度はアマンダがわたしの耳元に顔を寄せた。
「そうですね…お嬢様の育てたお花を、わたしも見てみたくなったから、ですかね」
そう言って悪戯っぽく笑って見せる。
ああ、アマンダったら!最高よアマンダ!!!貴女のような理解ある大人がいてくれて助かったわ本当に!なんて融通の利く女性だろう!わたしは内心小躍りしたい気持ちになった。ホクホクした気持ちで紅茶を勢いよく飲んだものだから、猫舌だということをすっかり忘れていた。思いっきり舌を火傷してしまった。