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翌日からわたしは高熱を出して寝込んだ。
仮病を使ったのがいけなかったのか何なのか。もしかしたら罰があたったのかもしれない。看病をしていてくれていたアステリオの話によると、ここ3日間ほど熱が下がらずうなされていたらしい。そして4日目の朝、わたしは何事もなかったかのようにスッキリした気持ちで朝を迎えていた。
お父様とお母様も相当心配してくれていたようで、お父様なんかは鼻水を出しながら回復を喜んでくれていた。普段は威厳がある口髭を蓄えたかっこいい感じの人なんだけど、娘のことはかなり溺愛しているようで、正直わたしもこんな人だったのかとその姿を見て吃驚したくらいだ。
「おはようございます、シャルロットお嬢様。お加減はいかがですか?」
窓の外の木々で戯れている二匹の小鳥をボンヤリと眺めているとノックの音がして、アステリオがやってきた。香ばしいパンの匂いが鼻孔をくすぐる。どうやら朝食を持ってきてくれたようだ。
ああ、助かった!わたしは心の中で叫んだ。なにせここ数日間、熱を出していたためにろくに食事もとれていなかったのだ。危うくお腹がすきすぎて限界突破してしまいそうだった。(実をいえば先程、窓の外の小鳥をぼんやり眺めていた時もお腹がすきすぎたあまり、焼き鳥食べたい…なんてとても乙女とは思えないことを考えていたのは内緒だ。)
「ええ、もうなんともないわ。アステリオにも色々と迷惑かけちゃってごめんなさいね」
「……!い、いえ…そのようなことは決して…」
アステリオはまた驚きを顔をして、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。彼の前髪は右側だけが不自然に長い。せっかく綺麗な顔なのだから、もっと自信を持てばいいのにな。なんて、今の今まで彼に酷い扱いをしてきたわたしが言えた台詞ではないので、そんな言葉は飲み込んでおくことにする。自分に向けられているわたしの視線に気づいたのか、アステリオは恥ずかしそうに顔を俯けると視線を逸らしてしまった。ああっ、眼福だったのに…。
それからこれはわたしの話。寝込んでいた間、何かとても嫌な夢を見ていた気がするのだが、その夢の内容をよく覚えてはいない。アステリオの話では寝言で何度も「やってない、やってない」と呟いていたらしい。たとえ夢の中にしても、わたしは一体何を「やっていなかった」のだろう。うーん、考えてみるがまったく身に覚えがないぞ。
「そういえばお嬢様、軽い朝食をお持ちしたのですが、食べられそうでしょうか?」
「ええ、勿論!むしろお腹ペコペコよ」
待ってましたとばかりにそう言って笑いかけるとアステリオはまた驚いた顔をしたが、今日は少しだけ笑ってくれた気がした。彼は慣れた様子で朝食の支度を始める。カチャカチャと食器の音が室内に響く。
―…あ、そういえば。
わたしが目覚めてから性格が変わったと、屋敷内ではちょっとした騒動になっているらしい。色々な噂はあるにしろ、今までの悪行が祟って何かに取りつかれたんじゃないか…など様々だ。だが今までの高慢で高圧的、ワガママな態度から一変、突然しおらしくなったのだから、確かにそう思われても当然なのかもしれない。
しかしまぁ、看病や世話をしてくれている使用人たちにちょっとお礼を言ったぐらいでここまでの反応をされると、前世の記憶が戻る前のシャルロットの酷さが伺える。変に勘ぐられるよりもいっそ祟りだとか悪霊がとか思ってくれていたほうが楽でいいけど。前世の適当な性格がこういうところに顕著に表れている気もするが、そこはご愛敬と思って貰いたい。
わたしはアステリオの用意してくれた焼き立てのパンを頬張る。シャクッと小気味いい音がした。外はカリっと、中はしっとりふわふわ。美味しい。これは美味しい!近所で一袋68円で売っていた賞味期限間近の食パンばかりを食べていた前世では、一度たりとも味わったことのない美味しさだ。そして彼の淹れてくれた紅茶が、これまた美味しい。身に染みるとはこういうことを言うのだろう。
「ああ、美味しい…!」
思ったことが声に出てしまっていたらしい。わたしがハッと気がついて口に手を当てると、傍に控えていたアステリオはキョトンとした顔をして、それから驚いて、最後に真っ赤になった。
「あ、ほ、本当ですか!?」
「ええ!これってどこの茶葉かしら…とてもいい香りだし、味わい深いわね」
「ありがとうございます。隣国から珍しい茶葉が手に入ったので早速ブレンドしてみたのですが…お嬢様のお気に召したなら何よりです」
耳まで真っ赤になっているアステリオはとても可愛らしい。くぅっ、お姉さんめっちゃときめくわー!思わず抱き寄せて頭をグリグリ撫でまわしたい衝動に駆られるが、そこはグッと我慢。こんな美少年を毎日拝めるのだから、悪役令嬢とはいえ少しだけ役得だなと思ってしまうあたり、わたしもなかなかの大物なんじゃないかなと思ったりする。
…だが、あまりうかうかもしていられない。
なにせわたしの人生は着実に破滅へと向かっているのだから。
この世界では魔力を有する者たちは16歳になれば必然的に魔法学園に入学することとなる。そうなってしまえばもう一貫のおしまいだ。悪役令嬢であるわたしは強制的に死亡フラグの道へ進んでいき、やがてはこの世界から排除されてしまう。今は10歳だから…ええと、入学までにはあと6年あるわね。それまでになんとかして、少しでもフラグを折れるように頑張らなくちゃ!そう強く心に決心して残りの紅茶を勢いよく飲みほした。
***
午後になり、わたしは自室の机に向かっていた。
机の上に広げたノートには、先日思いだした前世の記憶と乙女ゲーム「マージナル・ラヴァーズ」の登場人物や設定など、とにかく思い当たるものを手当たり次第書きこんである。
「うーん…」
手にしている万年筆を指先でクルクルと器用に回しながら、わたしは頭を悩ませていた。ここが乙女ゲーム「マージナル・ラヴァーズ」の世界であろうことは、なんとなく理解した。
まずは今分かっている我が家のこと。父親はヘンリー・ランヴィア。母親はジュリア・ランヴィア。王都から割と近い距離にあるこの土地を代々治めている、由緒正しき公爵家だ。兄には攻略対象の1人でもある、アドルフ・ランヴィア。その妹であるわたし、シャルロット・ランヴィア。そしてもう一人、攻略対象の執事アステリオ・ゲイン。ここまでは忠実通りでまず間違いはない。ノートに記した名前をトントンと指でさしながら口の中で呻る。
まずは攻略キャラクターの1人、執事アステリオについて。確かに彼はゲーム内で登場した時もシャルロットの執事ではあったが、現在の彼とは少し印象が異なっている。当然、忠実の彼は今から6年後の彼になるわけなので、とりわけ男の子の成長は早いしかなり成長した姿にはなっているのだが、それとは別に、どうにも性格が現在と違っている気がするのだ。ゲームに出てくる彼は口数が少なく、いつも暗い目をして人生に諦めにも似た感情を抱いている―…そんな影のある青年だったはず。だが少なくとも現在の彼は、シャルロットに脅えている感じこそするものの、素直だし、やはり6年後の姿とは結びつかない。
となれば、わたしが10歳のこの時期から学園入学までの6年の間に何かが二人の間にあったのだろう。…前世の記憶を取り戻すまで悪役街道まっしぐらだったという自覚は十分すぎるほどにあるので、十中八九、原因はわたしなんだろうけど。
それから兄であるアドルフ、彼は現在16歳。すでに魔法学校へ入学し寮生活を送っているため屋敷には不在だが、彼も攻略対象の1人なのでわたしの死亡フラグに大いに関わっている人物だ。わたしの記憶が戻る前のシャルロットの記憶の中の兄アドルフの姿はとても好印象だった。こんなにワガママでやりたい放題だった高慢ちきな妹にも優しく、むしろ溺愛してくれていた。魔法学校へ通うために家を出て行く時も、ひどく心配してくれていたし。ただ気にかかることがあるとすれば、アドルフには妹のいいなりのような所がある、ということだ。加えてあの絵に描いたような優しい兄であるはずの彼も、わたしの死亡フラグの1人なわけだし。
無意識にしかめっ面になっていたらしい。わたしは眉間に出来た皺を左手で押しながら、今分かる範囲での自分の周りの状況を整理した。
「あぁ、あと、そのほかにいた攻略キャラは王子様ズよね…」
思いだしたように呟いてノートに万年筆を走らせる。マージナル・ラヴァーズの攻略対象は全員で5人いた。その内2人は前述でも話した通り、シャルロットの執事アステリオと兄であるアドルフ。そして残る3人はいずれも高潔な王子様たちだった。それがファリドナ王家の長男ギュスターブ、次男リチャード、そして三男ヒューバートである。
ちなみに、この3人の姿はまだない。シャルロットが10歳の頃には、まだあの王子たちとは出会っていないのだろうか。もしかして過去にもう出会っていたのかもしれないと思いだしてみようとしてみるものの、悪役令嬢シャルロットとしてこの世に生まれてからこの方、それらしき人物に出会った記憶はやはりなかった。
万年筆で書いた3人の名前を見ながら、わたしは深々と溜息を吐きだした。
…残念なことに、わたしは前世で全員を攻略出来ていたわけでなはない。
むしろ、1人しか攻略出来ていなかった。そりゃあわたしだって出来ることなら全員攻略したかったさ。発売前からずっと楽しみにしていたし、わざわざ予約して発売日に入手したんだもの。
でも私だって28歳の社会人だったわけで…それはもう、立派な社会の中の歯車のひとつとして、サービス残業は日常茶飯事!ヒイヒイ言いながら働いていたOLだったのだ。それにその時期は仕事が何かと忙しい時期だったり、なんやかんやあったりして結局わたしは―…。その瞬間、前世での記憶と思われる映像の一部分がフラッシュバックして、ズキリ、と頭に鈍い痛みが走った。
「ううん…やめよ、頭痛い…」
急に前世の記憶を思い出したことの反動だろうか。とにかく頭が痛いので万年筆を手放してそのまま机の上に突っ伏した。
(…だってわたし、唯一の癒しがゲームだったんだもんなあ)
仕事が忙しくて現実世界に疲れ果てていたわたしを癒してくれたのはゲームだった。現実の男は何を考えているか分からないし、デリカシーがないことを平気で言ったりもする。周りの人だってそうだ。心ない言葉でわたしの心をひどく傷付ける。でもゲームの中でなら、主人公であるわたしにはいつだってそれなりに甘い言葉を吐いてくれたし、優しい世界だった。だからわたしはゲームの世界の中に強い憧れをもっていたんだと思う。
(まぁ、それで本当にこんなことになるとは夢にも思ってなかったんだけど…)
しかも何故、愛され主人公ではなく、あえて悪役令嬢のほうなのだ…?
ああ神よ。これはあまりに無情というものではないですか!?
机につっぷしたまま右手で自分の髪をつまみあげると、そのお姫様のような水色の髪の毛を指先で弄んだ。頭を使いすぎたせいか、急激な眠気に襲われる。その眠気に勝てず、わたしはそのまま目を閉じた。