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……まずい。
これは…ひっじょーに、まずいぞ…。
わたしは1人、とても焦っていた。理由は勿論、目の前で涙を流す少年である。
ア、ア…アステリオを泣かせてしまった!!!!ま、まさか泣くほど嫌だなんて…。
やっぱりお友達になりたいとか言うべきじゃなかったかな!?というか今まで散々酷い扱いしてきた癖に、何コイツしれっとした顔で友達になろうとか言いだしてんだよって感じよね…うん、よくよく普通に考えたらわたし、完全に言動がおかしいわ。しかも悪役令嬢だもの。アステリオが脅えて泣きたくなる気持ちも分からないではないけれど…。でも泣かせるつもりなんてさらさらなかったのだ。
「あ、あのねアステリオ!違うの、ごめんなさい!いきなり友達になってとか言い出したらそりゃ怖いわよね…。でもあの、その…泣かせるつもりなんてなかったの!怖がらせてごめんなさい!」
わたしは慌てて両手をブンブン振りながら誤解を解こうと弁明の言葉を口にした。腰を直角に曲げて必死に頭を下げる。ご令嬢が執事に向かって頭を下げているという、なかなか…というか、殆ど見ることが出来ないであろう謎の光景だ。
「あ、あの、お嬢様違います、僕は別に怖がっているわけでは…」
「いいのよ、無理しないで!ああ…やっぱりわたしのこの悪役顔のせいでもあるわよね…。確かにさっきは必死さが表に出すぎて怖かったと思うわ、反省してる。……でもわたしだって好きでこの顔に生まれたワケじゃないのよ?そりゃあ出来ればもっと可愛い…それこそ愛され主人公顔に生まれたかったけど、なんでか悪役令嬢になってしまったワケだし、でも現状は変えられないし…」
わたしの顔立ちは決して可愛くない訳ではない。むしろ俗世間的に言えば美人の分類に入るほうだとは思うし、前世のパッとしないモブ顔から比べたら天と地ほどの差がある。とはいえど、やはり元の設定が悪役令嬢なので顔立ちには隠しきれないキツさがにじみ出てしまっている。つりあがった眉と勝気そうな瞳があまりにも印象的だ。
とにかく、この顔立ちが第一印象で相手にあまり良い印象を与えないであろうことは自分でも十分に分かっているつもりだし、だからこそ極力笑顔は心掛けているつもりなのだが…。「お友達になろう」と執事に声をかけて泣かれる始末。
やっぱり、言うべきタイミングがちょっと早まりすぎてしまったんだきっと。本当はもう少し時間を置いてから言うべき言葉だったのだろう。ちょっと熱くなりすぎて早とちりしてしまったに違いない。わたしはポケットから淡い桃色のハンカチを取り出すと、そのまま彼の頬に流れた涙を拭った。亜麻色のサラサラの髪が揺れる。綺麗な水色の瞳は美しい空を映したかのように透き通っており、今は泣いたせいか潤んでいるが、それもまたとても綺麗だ。
「……あれ、」
そこでわたしはとあることに気がついた。アステリオの髪は右側だけが不自然に長いのだが、先程ハンカチで彼の涙を拭いていた拍子に右目がチラリと見えてしまったのだ。しかしその瞳の色は、左目の空色とは全く色が違っており―…。
「アステリオ、貴方の右目…」
「!」
言われた瞬間、アステリオの体が弾かれたように強張った。そしてわたしから少し距離をとって、自分の右手で前髪を押さえつけて必死に顔をそむけている。かなり動揺しているのか手は震えているし、足も、いや、体全体が小刻みに震えているように見えた。
―…アステリオの右目の色は左目とは違い、
まるで血のように鮮やかな赤色をしていたのだ。
「…ッ、あ、ぅ、こ、これ、は…」
ドクン。少年の心臓の鼓動がひときわ大きく脈打つ。心臓がまるで早鐘のように早まっていき、呼吸を妨げて肺に思うように空気が入らない。言葉を紡ぎたいのに、その先がなかなか口に出来ない。
…少年の前に立つ少女はどんな顔をしている?
確かめなくてはならないのに、怖くて顔があげられない。その先に待つ視線が酷い侮蔑のものであろうことを、彼はもう何度も経験していたから。周りの人から言われ続けてきた言葉やその沢山の視線が、一気に頭の中を駆け巡っていく。だから、またきっと、あの視線を向けられてしまうに違いない。そしてその視線が向けられる度にまた、胸の奥がギリギリと締め付けられるように痛むことになるのだろう。そう思って、強く瞳を閉じた。
「へえ…綺麗な目の色ね!」
聞こえてきた言葉は、想像していたものではなかった。
「なるほど、アステリオは左右で目の色が違っていたのね。知らなかったわ。うーんと、そういう目の色のことって…オッドアイ?って言うんだったわよね、確か。ふふっ、空色の瞳とルビーの瞳、両方あるなんてとっても素敵だわ!」
一瞬、耳を疑った。しかし顔をあげてみても目の前に立つ少女は何だかとても楽しそうな顔をしているし、アステリオの瞳を見ながら何故か上機嫌だ。
この目をみんな、気持ち悪がっていた。生まれた時からそうだった。左右の瞳の色が違う人間なんて、いなかった。アステリオの生まれた故郷は皆、空色の瞳をしていた。しかしアステリオの右目は、まるで血のような赤。生まれた時から異質な存在として、酷い扱いを受けてきた。
「「ああ…なんて気味の悪い目だろう」」
「「血のごとき赤の瞳だなんて、忌み子だわ」」
「「呪われた子の近くにいては、我々も呪われる」」
「「ああ薄気味悪い」」
「「あんな子、消えてしまえばいいのに」」
気味が悪いという理由で捨てられたので、親の顔もよく覚えていない。それからは色んな場所や人のもとへ売り飛ばされ、それこそ奴隷まがいの扱いをされ続けていた。そのたびに気味が悪い目だと、呪われた子だと言われ続け…。それは幼い少年の心を痛めつけるには、あまりに十分過ぎた。長く伸ばした前髪はこの瞳を、そして自分自身を守るためのものだったのである。
しかしこの少女は大嫌いなこの瞳のことを、忌み嫌われたこの瞳のことを、「綺麗だ」と言う。今までそんなことを言われたことはただの一度だってない。だからこそ嘘を言っているのかと疑ってしまいたくもなるが、彼女はまったくもって嘘をついてはいない。誰もが気味悪がったこの瞳の事を、素敵だと言う。否、嫌うどころか、まるで宝物を見つけたみたいにキラキラの笑顔を、アステリオにむけるのだ。
自分の境遇を呪ったことは勿論あるし、こんな世界なくなってしまえばいいと、全てを呪った時もあった。生まれてからこのかた、罵倒されるのだって慣れていた。シャルロットに罵詈雑言を言われることも、もう慣れっこだった。何を言われても口答えせずに黙っていれば、それでそれなりの安寧が保てるのだろうと思っていた。そう思いこんでいた。そうやって自分の心が死んでいくのを、ただ黙って見ていることしか出来ないのだろうと、人生なんて諦めていたはずだった。
―…それなのに。
「…お嬢様は、気味が悪くは、ないのですか、?」
大人だって子供だって、皆が言ったのだ。「この瞳が気持ち悪い」と。しかしアステリオが呟いた言葉に、シャルロットはポカンとした顔をした。
「気味が悪い…?え、どうして?全然そんなこと思わないけれど」
小首を傾げて、大変不思議そうな顔をする。
…だって、気味が悪いなんてこと、あるだろうか。アステリオの言った言葉を繰り返しながら頭の中で色々と考えてはみるものの、やっぱりわたしには「気持ち悪い」だなんて思えない。むしろ、オッドアイなんて滅茶苦茶いいじゃないか、カッコイイ!
「むしろとっても綺麗よ。それに、まるでキラキラ輝く宝石みたいよ!」
少女は笑って、それから今度はアステリオの頬に手を伸ばした。温かくて小さな手がソッと右の頬を撫でると、そのままゆっくりと前髪をかき分けて顔を覗き込み、笑顔を見せた。
「ねぇアステリオ、前髪切ってみたらどうかしら?せっかく綺麗なのに勿体ないもの」
「で、も…僕は…」
この瞳を晒すことはどうしても躊躇われる。侮蔑の目を向けられるあの恐ろしさを味わうのは、もうたくさんだ。嫌に脈打つ心臓の音がうるさい。ギュ、と瞳を強く閉じた。
…アステリオが自分の瞳を嫌いなのだなということは、彼の反応を見て分かった。せっかく綺麗な顔なのに前髪で顔を隠しているのは何故なんだろうなぁとずっと思っていたけれど、その理由がオッドアイだったのだ。
でもわたしは決して彼の瞳が気持ち悪いとは思わない、否、思えない。空色の瞳と赤色の瞳は、どちらも宝石のように美しく煌めきを放っている。この世界の人たちが彼に今までどんな辛辣な言葉をかけてきたのか、わたしは聞いていないし見てもいないから分からないけれど…それでも。それでもわたしはこの瞳を美しいと思う。そう思った気持ちに嘘偽りは微塵もない。ひと呼吸置いてから、わたしは自分が思ったことを口にした。
「―…わたし、貴方の瞳の色、とても好きよ」
そう言って笑う少女の姿に、何か胸の奥に熱いものがこみ上げてくるような気がした。ずっと、ずっと。ずっと長い間、心の奥底に捨てられていた感情を、彼女はいとも容易く救いあげ、そして暖めてくれる。海の底に沈んだ少年へと、その小さな手を伸ばしてくれている。本当は、ずっと、誰かに言われたかった言葉だった。
彼女の言葉には裏がない嘘がない。そしてその真っ直ぐな瞳は、いつだってちゃんと僕を見てくれている。頬に残る手のひらの温かさがじんわりと体に染み渡っていくように、少年の心は確かに、その時動いたのだ。
―…両の目から零れるその雫は、間違いじゃない。
まっすぐで純粋なこの少女のように、透き通っている。
「ッ、う、ひっく、」
「え!?あ、あれ、ちょっとやだ、泣かないでアステリオ!あわわ…わたしまた何か余計なこと言っちゃった!?ああっ、わあ、泣かないで~~~!!」
取り乱しながら大慌てでハンカチで顔を拭ってくれるが、正直なところ痛い。
…が、その気持ちもまた嬉しくてされるがままになってしまう。
こんな自分のことを、1人の人間として、対等な存在として扱ってくれようとするこの人のために。
友達になって欲しいと言ってくれた、この少女のために。
この瞳が好きだと言ってくれる、シャルロットのために。
僕は生きよう。そしてこの命をかけて、彼女を守ろう。
アステリオ・ゲインが心にそう誓った瞬間であった。
***
あれから数日後。
わたしとアステリオは一緒にアマンダの部屋を訪れていた。というのも、アステリオの髪の毛の散髪をして貰うためだ。散髪をして欲しいとアマンダに頼んだ時は流石の彼女も驚いていたが、快く承諾してくれた。わたしはといえば、大人しくソファに座って、散髪されているアステリオの後ろ姿を見ている。忠実の彼はコンプレックスだった瞳を隠したまま学園で主人公と出会ったので、右前髪が長いままだった。だから、髪が短くなった彼を見るのは今日が初めてとなる。本人以上に、なんだかわたしのほうがソワソワしていた。
「さぁ、出来上がりましたよ。元がいいから、より一層男前になったわね」
アマンダの声に、わたしは待ってましたと言わんばかりにピョイとソファから降りてアステリオのほうへと駆け寄った。どんな仕上がりだ。どんな仕上がりだ!?どうなった!?椅子に座るアステリオの正面に立って、その姿を眺める。
「……ど、どう、でしょうかお嬢様」
少し気恥ずかしそうに頬を染めながら上目遣いにこちらを見やる絶世の美少年の姿に、絶句するより他ない。人ってあまりにびっくりすると言葉も出ないのね…。アマンダに軽く背中を叩かれてようやく我に返ったけれど、これはいけないわ。以前にもまして凄まじい美少年オーラが出まくっているせいで、ただでさえ耐性がないわたしの顔は自然にニヤけてしまう。ああもう、気をつけなくちゃ…!と決めた傍から褒めちぎって1人で興奮するわたしを見てアマンダは苦笑しているし、アステリオは恥ずかしそうに顔を真っ赤にしてしまうし、いつの間に来ていたのか、お母様とお父様も笑っているし。
秋の訪れを告げる風が、中庭を吹き渡っていく。
―…季節はもう、移り変わろうとしていた。