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「あ~、もしもし?うん、わたし。えー、なんかめっちゃ久しぶりだね!元気してた?うん…うん。いやそんなことないけどさぁ、」
改札を出た直後、久しぶりに友人から電話がかかってきた。こんな時間にかけてくるなんて珍しい。ちなみに現在の時刻は午後10時36分。会社での残業が長引いて、気がつけばこんな時間になってしまっていたのだ。とはいえ、こんなことはもう入社して以来日常茶飯事だったので、もう慣れっこではあるのだが。
「あーうん、知ってる。それ新作のゲームでしょ?もち、わたしも予約しておいたよ。キャラデザ相変わらず神ってるよね~。今から楽しみでしょうがないよ」
小学校からの親友である友人からの電話の内容は、新作の乙女ゲームのことについてだった。友人が乙女ゲームに目覚めたのは中学の頃。わたしはさほど興味はなかったのだが、高校生の時に一度借りたゲームがあまりに面白くて、気がつけばわたしも立派な乙ゲーマーになっていた。社会人になってからもわたしは乙女ゲームをプレイすることを楽しみにしていて、今回は大好きな絵師さんがキャラクターデザインを手がけている新作ゲームが出るということもあって、発売日前からとても楽しみにしているのである。ちなみに発売日は今からちょうど一週間後。予約しているし、その日は何が何でも取りに行くつもりだ。
ネオンきらめく街並みを横目に歩きながら、わたしは友人との新作乙女ゲームの話に花を咲かせた。……なんか、こうやって笑うのいつぶりだったっけ。最近はめっきり笑うこともなくなっていたからなぁ。地元に残って就職した友人とは、大学を卒業して以来は仕事が忙しくてなかなか会えずにいた。でも電話越しに聞く声は以前と変わらないし、つい昨日も会ったよねみたいなノリで話せるのが自分でも不思議だ。こんなに笑うの、凄く久しぶりな気がする。
「あ、やっぱりそうだよねー。え?ううん、平気だよ。でもびっくりしたよ。こんな時間に電話がかかってくるなんて思ってなかったからさぁ」
アパートの階段を上り、二階の自分の部屋に向かう。その途中、階段の隅にいた野良猫がわたしの存在に驚いて走り去っていった。段々と小さくなるその背中を見送りながら、鞄から鍵を取り出してドアノブを回す。
「え?うん、うん、あはは、それは確かにそうだけども、てっきり何かあったのかと思っちゃった」
いつものように部屋に入り、パンプスを脱ぎ捨て電気のスイッチを押した。会社から帰宅する途中に駅構内のコンビニで買った本日の夕食をテーブルの上に置いてソファに腰掛け、ボーっと部屋の掛け時計に目をやった。ちょうど電子文字が10時59分から、11時に変わった。
「―…うん?違う?逆?…ん、逆って?」
その直後、電話越しに友人の呟いた言葉にひどく動揺した。そして、瞳に熱い液体が溢れた。呟かれたその言葉が、その声が、あまりにも優しくて。だから胸につかえていた何かが、せき止めていた何かが全部流れ出したみたいに。
「ちーちゃん、わたし、わたしさ…」
電話越しの友人の名を呼んで、震える口で必死に言葉をつむいだ。
「わたし、やってない、のに、」
その日。わたしは久しぶりに声をあげて泣いた。
***
「―…様、」
「―…嬢様、」
「―ぉ嬢様…」
「シャルロットお嬢様!大丈夫ですか!?」
わたしの名を呼ぶ声にハッと我に返って目を開けると、目の前には青い顔をしたアステリオの姿があった。彼はとても焦った様子でこちらを心配そうに見つめている。―…うん?あれ、わたしどうしたんだっけ…?自分の今の状況がイマイチ読み込めない。何か、何か、とても懐かしいような…あれは夢…?わたし夢を見てたのかしら?
だがたった今見ていたはずのものなのに、なぜかもう思い出すことが出来ない。なんだったのだろう…。わたしがぼけーっとしていることに益々不安になったのか、アステリオの心配そうな瞳がわたしの顔を覗き込んだ。
「お嬢様、何があったのか覚えていらっしゃいますか…?」
「んん?何があったかって…ええと、確かテラスで庭を見ていて、それで人影を見つけて追いかけてきて…えっと、それから…」
…そうだ。そういえばわたしは、中庭に来ていたのだった。夕食の後、テラスで庭を眺めていたら不審な人影があったものだから、それを追いかけてここに来たはず。でも不審者を見つけることが出来ずにあたりを捜索していると、そこに白い人影が現れて―…。全速力で体を翻してダッシュした瞬間、足がもつれて…ああそうだ!顔面から盛大に転んだのだった!
全てを思い出したわたしは目を見開いた。確かに言われてみれば体のあちこちが痛いような気がする。それに先程は状況がつかめていなかったが、今のわたしはアステリオの膝に頭を乗せて横になっている…つまり、膝枕をして貰っている状態である。
こんなに可愛らしい美少年に膝枕して貰うなんて…ヤダ役得!とか心の中で叫びながら、わたしは慌てて体を起こそうとした。(誤解されると悪いので念のためにまた言っておくが、わたしはショタ好きというわけではなく、単に美少年は眼福だというだけなので誤解はしないで頂きたい。)しかしその瞬間に両膝にピリッとした痛みが走り、顔をしかめた。見やれば膝を擦りむいてしまっているし、患部からは赤い血が流れていた。
うーむ、確かに派手に転んだのだからこれくらいは当たり前である。後で水で洗って絆創膏でも貼っておくことにしよう。それにしても顔面から転んだというのに、顔にはそこまで外傷がないのが不思議だ。顔面から転んだ先がちょうど小石を撤去した直後の柔らかい土だったことが幸いしたのだろう。口内に微量の土が入ってしまったせいで、口の中が地面の味がするが、それだけで済んだので良しとしなければなるまい。
そう思いながら怪我をした膝を眺めていると、突然アステリオの手が患部にあてがわれた。わたしが驚いていると、彼は一言わたしに小さく謝罪の言葉を述べてから瞳を閉じて何事か呟き始めた。
「すみませんお嬢様、失礼致します。………大地を司る女神、生命の息吹よ、我が声に答え、その力を与えここに示せ…治癒!」
その瞬間、ふわっと風のような温かな何かに包まれたような不思議な感覚に陥った。やがて金色と緑の光があたりに広がり、それがゆっくりとアステリオの手のひらに集まっていき―…そして驚くべきことに、今の今まで血が流れていたはずの膝の患部がみるみるうちに塞がっていくではないか!その数秒後にはすっかり傷はなくなり、痛みも消えてしまっていた。
一体わたしの目の前で何が起こったのだろう。わたしは恐る恐る両膝を見やるが、傷痕はもうないし、加えて実際に触ってみても何の異常もない。
驚くシャルロットをよそに、アステリオは手を引っ込めると酷く青ざめた顔をしていた。血が出てしまうのではないかというほどにギュッと唇を噛みしめ、長い睫毛は悲しげに伏せられている。そして長い沈黙の後、彼は深々と頭を下げた。
「……申し訳ございません、お嬢様。お嬢様の仰っていた人影というのは、僕のことです。昼間植えた苗のことが気になってしまって…部屋に下がる前に様子を見てこようと、ここに来ていたんです」
あぁ~なるほど。ということは、テラスから見えた謎の人影はアステリオだったのか。確かに今日の彼はワイシャツ姿だったし、この、夜のちょっと不気味な雰囲気やパウロに聞いた怪談話のせいで非常に動揺しまくっていたわたしが、幽霊と見間違えてしまったのも頷ける。お恥ずかしいことに、全てはわたしの勘違いだったというわけだ。1人で勘違いした挙句1人でテンパってすっ転んで、おまけに怪我をするなんて…うう、元アラサー28歳独身OLだった身から考えるとなんと滑稽なんだろう…!
「でもその軽はずみな行動のせいでお嬢様に勘違いをさせてしまった上に、お怪我まで負わせてしまいました。傷口は塞がったものの、それで許されることではないということは、十分に理解しているつもりです。どんな罰でもお受けする覚悟は出来ております…」
いやいやいや!アステリオはそんなことを言いだすが、そもそもこれはわたしが勘違いをしたことで発生した怪我だし、完全に自業自得。彼の責任などではないのだ。しかも怪我した傷は彼が使用した魔法によって、もう綺麗さっぱり治っていることだし。
―…先程アステリオが使用した魔法は治癒魔法。先日ミス・ビバルディに教えられたばかりの医療用魔法の中のひとつであり、最もポピュラーで使用頻度が高いとされる魔法である。とはいえ、この治癒魔法は繊細な魔力のコントロールが必要となり、いわゆる「高度魔法」というものに分類される。そのため簡単な魔法さえろくに発動することが出来ないシャルロットには、夢のまた夢のような魔法ではあったのだが。その魔法をどうやらアステリオは既に習得していたらしい。
これってもしかして、もしかしなくてもかなり凄いことなのではないだろうか。目の前で青ざめたまま俯いているアステリオとは反対に、わたしは尊敬と賛辞の眼差しを彼に向けた。
「アステリオ」
「っ、はい。」
腕を組んで考える姿勢を取ったまましばらく黙りこくっていたわたしに声をかけられ、アステリオの体が弾かれたように震えた。わたしは組んでいた腕を離すと、アステリオのほうへと片手を伸ばす。
瞬間、アステリオはギュッと瞳を閉じた。自分の主人であるシャルロットに怪我をさせてしまったのだから、罰は受けて然るべきだと、そう思っている。その手が自分の頬に振り下ろされるであろうことを覚悟していた。…はず、なのだが。なぜかいつまでたってもその手がこちらに振り下ろされることはない。それどころか、目を開けてみれば彼女の手はアステリオの手を握っていたのである。
「お、お嬢様…?」
想定していなかった事態に思い切り狼狽しているアステリオの両手を少々強引に握りながら、わたしは興奮気味に彼に話しかけた。
「アステリオ、貴方は凄く優秀な魔法使いになれるに違いないわ!さっきの怪我だって、一瞬で治ったじゃない。治癒魔法は高度魔法の一種なのに、もう使いこなせているなんて…これって多分、かなり凄いことよ。アステリオにはきっと才能があるのよ!」
ビバルディもおそらくこのことは知らないだろう。彼女にアステリオがもう治癒魔法を使えることを伝えでもすれば、それはそれは、大変喜ぶに違いない。全身で喜びを表現するであろう彼女の姿はいとも容易に想像出来てしまう。
「で、ですが…その、お嬢様に怪我を負わせてしまうなんて執事としてあるまじき…」
「いいえ。転んだのは元からわたしが勘違いをしたのが原因なんだから、貴方が謝る必要なんてないわ。……いい?アステリオ。自分が悪くもないのに謝ることはしなくていいの。わたしがお嬢様だから、わたしには従わなくちゃならないって思っていると思うけど、それは違うわ」
思えば彼はいつも謝ってばかりだ。何をするにも「すみません」や「申し訳ございません」と言う。最初はあまり気に止めてはいなかったが、やはり違和感があった。今まで散々酷い扱いをしてきたし、その元凶であるわたしが言える台詞でもない気はするが、だが逆を言えば、わたしが言わねば彼はこれから先も変わることが出来ないはずだ。悪役令嬢のシャルロットではなく「シャルロット」の言葉として伝えておかなくてはならないこと。
「…わたしは確かに貴方の主なのかもしれないけど、でもわたしは神様なんかじゃないし、わたしの言うことが絶対だなんてこともない。間違ったことも平気で言うし、知識もない。魔法だって思うように扱えないわ。さっきだって、わたしが勝手に勘違いしてすっ転んで膝を擦りむいただけなんだもの。アステリオは何もしてないでしょう?それとも、わたしを転ばせようと思ったり危害を加えようと思って何かやった?」
アステリオはブンブンと首を横に振る。それを確認してからわたしは笑って、彼の手をまたぎゅっと握り返した。まだ小さな手だが、その手のひらはとても温かい。アステリオはわたしの人形ではないのだ。主が間違ったことをしていれば間違っていると言って欲しいし、逆に楽しいことがあったら一緒に笑い合えたら嬉しい。わたしの言う命令に従うだけの哀れなお人形のような人間だけは、なって欲しくない。
「アステリオ、貴方はわたしの人形なんかじゃない。ちゃんと、立派な1人の男の子なんだもの。……わたしはワガママで高慢で世間知らずなお嬢様かもしれないけど、貴方はそんなどうしようもないわたしのことを支えてくれる大事な人だわ。でもわたしは本当の貴方のことをまだ何も知らない。わたしの言いなりの意見じゃなくていいの。アステリオの言葉を、これからわたしにも聞かせて欲しいわ」
アステリオの目が見開かれる。彼の亜麻色の綺麗な髪を夜風が撫でて揺らした。まだ幼さの残る少年の瞳は大きく見開かれ、その瞳にはわたしの姿が映っている。わたしはニッと笑って、ずっと言おうと思っていた言葉を、ようやく口にした。
「アステリオ、わたしと、お友達になってちょうだい」
彼の見開かれた瞳から、雫が零れた。まるで星の欠片が落ちたような綺麗なその雫は頬をつたって、地面に小さな染みを作る。雲間から差し込む月明かりは優しく少年と少女の姿を照らし出していた―…。
3月中あまり更新出来なかった分をまとめて書き上げました。
楽しんで頂けたら幸いです(´ω`*)