エピローグ2
8月14日誤字脱字等修正しました。
「カトル殿。起きていますか?」
「ん……ああ……はい。今起きます……」
翌朝、王宮の個室で惰眠を貪っていた俺は、アデリナの低く通る声で目を覚ました。
「アルフォンソ様が王の間でお待ちです。急ぎ出立の準備を整えて下さい。私は扉の外で待機しております」
「は……い? アルフォンソ、様?」
寝ぼけ半分に目を擦っていた俺は、アデリナのいつもと違う様子に一瞬で眠気が吹っ飛んだ。アルフォンソの事を若と呼ばず様付けで呼ぶなどただ事ではない。
慌てて時計を見ればまだ8時前だった。また寝坊して怒らせたわけではないようで少しほっとする。
熟睡魔法のおかげで寝覚めはすごぶる良く、すぐに準備は整った。
「お待た……いぃ?!」
「では参りましょう」
扉の前で待っていたのは、普段とは全く異なる装いに身を包んだ美しいアデリナの姿であった。水色の淡いドレスにどこかで見たような赤と黄の紋章の入ったマントを羽織っている。髪も綺麗に後ろで二本のおさげを作って結わいており、まるで絵本の中の貴族そのものだ。
「今日、何かあるの?」
「……王の間に着けばわかります」
良く見ればアデリナの顔が少々赤かった。俺がジロジロ服を見ていたから恥ずかしくなったのかもしれない。俺はなるべく視界からアデリナの姿を外すように心掛けながら、足早に王の間へと向かった。
「さあ、着きました。どうぞ、カトル殿は中にお入り下さい」
「あ、ああ……」
アデリナは扉の前で深々お辞儀をすると、そのまま動かず礼を続ける。
これは俺に一人で進めってことだろうか。状況を理解出来ないまま、俺は恐る恐る扉を開けて中に進み入る。
すると待っていたのはいつもと変わらないアルフォンソと、アデリナと同じ紋章入りのマントを羽織り、細かな刺繍が至る所に施された服装を纏った何とも仰々しい姿のフアンであった。
「お前、何でそんな格好してるんだ? フアン」
思わずいつもの調子で尋ねてしまったが、フアンは俺を一睨みした後、何も言わず礼をするのみである。
いよいよもって何かおかしい。
俺が眉をひそめながら視線を隣へと移すと、アルフォンソがさっと一歩前に出て左手を上方に掲げた。すると、それを合図に扉の前の衛兵が全員部屋から出て行き、代わって正面の扉からはアデリナが、左右の扉からはヴィオラとトム爺さんが、そして後ろの扉からはテオが入って来て、それぞれの扉の警護に付く。
「人払いは完了した。では最後に魔法使いラドンよ、任せた」
「ふむ、よかろう」
どこにいたのか、突然現れたラドンが何やら杖を持ち魔法を展開するべく大袈裟に振る舞い始めた。一見するといつもの静寂魔法のようだが、王の間全てを蓋うほどの広さに俺はぎょっとしてラドンを二度見してしまう。涼しげな顔をして魔法をかけ続けているが、杖の先にかなりの魔力が集中しており、相当の力を割いているようだ。
「感知魔法でさえこの部屋から魔力は検知されない。大丈夫だ」
「助力感謝する。――では故事に倣い余から精銀のタグを持つ傭兵カトル=チェスターに要請する」
アルフォンソは大きく両手を掲げ、胸から一通の封書を出してきた。
「カルミネ女王ユミスネリア様へこの密書を届けよ。事はこの国の存亡にかかわる重大なものだ。必ずや敵に察せられることなく無事任務を遂行して欲しい!」
突然の事に何を言われているのかわからず、俺はただ呆然と聞き入っていた。そんな俺をよそにフアンは膝を折るとアルフォンソから慎ましやかに封書を拝領し、こちらへゆっくりと歩いてくる。
「では頼んだぞ、カトル=チェスター殿」
「え、あ……はい」
雰囲気に圧倒され思わず頭を下げて封書を受け取ると、途端にフアンはふぃーっと息を吐き出してマントを脱ぎ、首を締め付けていたボタンを外し始める。
「ったく前例かなんか知らんけど、何でこんな面倒くさいことせにゃならんのよ。暑苦しくてかなわないぜ」
「えっ……あ……ええっ?!」
「お前、何面白い顔してんの? ラドンのおっさんじゃないけど笑っちゃうな」
そのフアンの笑い声につられて皆も笑い始めた。何だか良く分からないが狐に化かされたような気分で何ともいたたまれない。
「すまんなカトル。これは何も貴様を驚かそうとしてやったわけではない。過去にあった悪しき前例を回避するべく、カルミネに火急の使者を立てる場合はこのような厳かな儀礼を行うことになっているのだ」
アルフォンソによると、過去幾度と無く危機に陥ったリスドがカルミネへ急使を立てた際、儀礼を割愛するとすべからく問題が発生したという。
その為、迷信とは思いつつも歴代の王は重要な使者を立てる場合、儀礼を欠かさないのが通例になっていた。
「今、渡した密書はそれだけ重要なのだ。ティロールはまもなく魔道師ギルドの手に落ち、リスドとカルミネは分断されることになるだろう。魔道師ギルドに対抗するためにはカルミネとの協調は不可欠なのだが、そのカルミネの情勢があまりに不明瞭なのだ。……その最たる理由はかの女王ユミスネリアにある」
「――?!」
「先王は残念ながら一度も女王と会したことがなかった。伝え聞くのは玉座に居る時でさえ氷の魔法を放ち周囲を寄せ付けないという酷い噂話だけ……」
「それは……!」
「頼りと出来る偉大な友人なのか、滅び行くものを見捨てる赤の他人なのか。本当なら僕が自ら乗り込んで、かの女王へ意見しに行きたいくらいだ」
アルフォンソの視線がこちらに突き刺さる。だが、俺が身を乗り出して反論しようとしたまさにその瞬間、フアンが間に立ち塞がりニヤッと笑いかけてきた。
その絶妙なタイミングに振り上げた拳を下ろす機会を逸してしまう。
「カトル。お前が選ばれたわけって単純なんだぜ」
「俺がユミス……ネリアと知り合いだからか」
「そゆこと。まあそれもほんとかどうかわからないんだけどな」
「なっ! そんなわけ――」
「わあ、待て待て。お前が嘘を付くような奴じゃないってのはこの一ヶ月でわかってるさ。だけど男が考えるより女は複雑怪奇な生き物だ。……そうだろ?」
「その発言には賛同いたしかねます」
「お前が考えていることの方が複雑怪奇でしょう!」
「フ・ア・ン? 後で姉ちゃんの所にいらっしゃい。たっぷりとその男の考えというのを聞いてあげるから」
「いや、ちょ、待っ……姉ちゃん、今俺が話しているのカトルだから」
フアンは自分の発言で部屋に居る女性陣から批判の声が集中しタジタジになった。だが、俺もイラッとしたので同情するつもりは全く無い。
「てか、言ってる意味が全然わからないんだけど」
「うわ、ちょ、怒るなってカトル。俺の話をよぉく聞けっ! カトルが昔の女王を知っていても、今の女王に友人と思われているかは別問題だって言いたかっただけなんだ」
「別……?」
その言葉に心の中が少しだけざわめく。
「カトルは今の女王がどんな境遇に居るのか知らないんだろう? 男女の仲も三年って言うぜ。相手が昔と変わってたって何も不思議じゃねえ」
「……っ」
「俺なんか、ついこの間食事を奢ってあげた女の子にたまたま偶然道で会ったら、声掛けただけで毛虫扱いだからな!」
「それってフアンが相当ダメダメだったようにしか聞こえないけどねー」
「なっ、テオの分際で生意気な! ただちょぉっと彼氏っぽいのが近くにいたから邪魔してやろうと思っただけで――」
「うわっ、最悪……」
何か近くでテオとフアンが争っているような気もするが、今の俺の耳には何も入ってこなかった。
確かにユミスと別れてから既に三年以上の月日が経っている。その間ユミスがどんな生活をしていたのか、今どんな人がユミスのそばにいるのか、俺にそれを知るすべはない。
ユミスはその隔たりの中で変わってしまったのだろうか。
竜族と違い人族はたった一年がとても大きな意味を持つ。もしユミスが変わっていたとしたら、俺は……。
「フン。小僧、おぬしの思いはその程度のものだったのか?」
――俺が迷いの森に入り込んでしまった時、強く心を揺さぶってきたのはラドンであった。
「あれしきの言葉で動揺するとはなんと情けない奴だ。……大丈夫であることはカトルよ、おぬしが一番存じておろう?」
「……!!」
その言葉で俺の中のもやもやが一気に晴れていくのを感じた。
そうだ。
俺は何を気にしていたんだ。
ユミスは俺の大事な家族なんだ。もし仮にユミスが変わってしまったとしても何を怖がる必要がある。俺はずっとユミスを支え続ける、それでいいじゃないか。
「フン、最初からその顔で居れば良いのだ、小僧。我らが子に会えたら宜しく伝えよ。長老の伝言だ」
「えっ?! それって、まさかラドン……」
「おぬしの事など知ったことではない。ただ放っておくとわしがレヴィアと長老にどやされるからな。……フン、これでようやくわしも解放されるわ。さっさと髑髏岩の洞窟へ向かうとするか」
ラドンはそっぽを向いてそのまま一人王の間から出て行こうとする。
「ちょっと待ちなさい! おたく、ダイヤ鉱床の話、忘れていないでしょうね?」
「ほう、まだ覚えておったか、ヴィオラよ」
「忘れいでか! 私も行くわ。連れて行きなさい!」
「ふうむ、面倒だな」
「おたくはアルフォンソ様と契約を結んでいるわけ。勝手は許さないわ!」
「フン、まあ仕方あるまい。ヴィオラよ、わしの邪魔をするでないぞ」
さっさと行ってしまうラドンを、ヴィオラはこちらに一礼だけしてから追いかけていく。ただ俺は、ラドンの赤ら顔がさらに赤くなったのを見逃さなかった。
……もしかしてラドンはずっと俺を見守ってくれていたのか?
どうせ聞いても興味深い顔を見る為とか適当な事を言われて誤魔化されそうだけど。
「では頼んだぞ、カトル。アラゴン商会の荷馬車の準備が出来ているからそれに乗っていくといい」
「荷馬車?」
「魔道師ギルドの事を考えれば海路は危険です。ですがティロールが陥落していない今なら、陸路で行けば大丈夫でしょう」
ロベルタが補足する。
「それに乗ればカルミネには5日で着く。快適、とは言えないかもしれないが徒歩よりましだろう」
アルフォンソの言葉に俺は静かに頷いた。
「じゃあ行くよ」
短くそう言って見慣れた連中に別れを告げる。
「情勢が逼迫している間は進捗連絡も不要だ。期限も特には区切らない。だがなるべく早く頼む」
「若、急いては事を仕損じると言います。カトル殿は秘密裏に動く事を第一に考えてください」
「せっかちな男は嫌われるぞ、アル」
「フアン、貴様は黙ってろ」
「カトル頑張ってねー」
「フォッフォッフォッ、イェルドの奴に宜しくのう。ギルドとして何も出来ずすまぬな」
その場に居た皆が、別れ際に励ましの声を掛けてくれたのが何とも心強かった。
「じゃあな、カトル。俺の分もイェルドの奴からふんだくって帰って来てくれ」
「それは自分で何とかしろよ、フアン」
「いや、こんな政情不安なのにカルミネまで行くのは怖いだろ?! でもお前ならきっと大丈夫だ、カトル。俺の分まで頼んだぞ」
「さすがフアン、無茶苦茶だな」
―――
そして俺はリスドの町に別れを告げ、アラゴン商会の荷馬車に乗ってカルミネへの道を進み始めた。
滞在から一か月余り。長いようで短かったリスドともこれでしばらく見納めだと思えば少し感傷的な気分になる。
やっと少しだけ傭兵ギルドのメンバーとしての生活に慣れて来た所だったし、港の方はまだ全然散策出来ていないので足を延ばしたかった。大衆食堂の海鮮料理だって未練がないと言えば嘘になる。
でも、これでようやくユミスに会えると思ったら、ワクワクする気持ちの方が勝った。
俺は馬車から見える港町の光景を目に焼き付けると、それを最後に気持ちを切り替えて真っすぐ前を見据える。
北門を抜けた後、街道は北に広がる森を迂回するように東へと続いていた。崖下に広がる海を横目に順調に街道をひた走る荷馬車から顔を覗かせると、まだ見ぬカルミネへの期待感に感情が否が応でも高まっていく。
そんな紅潮した頬を、海からの潮の香りが馬車を吹き抜ける風と相まって伝ってゆくのがなんとも心地よい。
照りつける太陽も風によって和らぎ、俺はそのまま御者の後ろで過ぎ行く景色を眺めていた。
「カルミネはこのまま真っすぐ?」
「ええ、街道沿いをずっと北へ進んだ先です」
御者の男が俺の質問に愛想よく答える。
「見晴らしも良くて最高だね」
「この辺りはそうですね。でも、この先は森の中を通っていくので代わり映えしない景色が続くことになります」
「え? このまま海沿いを進むんじゃないの?」
「カルミネの王都は内陸にありますからね。街道が海沿いなのはリスドの周辺だけで、国境を越えると海はほとんど見えなくなりますよ」
あれ? そうだったっけ。じいちゃんの授業で習った地図だと海岸沿いからそんなに離れていなかったような気がしたんだけど。
「ああ、確かに地図で見ると近く感じますよね。でも実際は王都付近の海岸がかなり入り組んでいて直接海から行くのは難しいんです。それもあって、王都よりシュテフェンの方が交易は盛んなんですよ」
「シュテフェン……」
最近、やたら耳にする魔道師ギルドの本拠地の名前だった。なんとなくフードを被った連中が大量に徘徊する不気味な街ってイメージだけど、実際はたくさんの貿易船が出入りして非常に活気に満ちた街であるらしい。
「だからこの先、街道は森の中を縦断することになります。以前は野盗が横行して大変だったんですが、半年前に傭兵ギルドの幹部が粛清されて以来賊も散り散りになったのか、最近はほとんど被害を受けたという報告は聞いてないですね」
ギルド幹部の粛清といえば、半年前にマリーとレヴィアが返り討ちにした強制依頼の件だ。西の森だけの話だと思っていたら、北側でも問題になっていたとは思わなかった。
「あ、そろそろ見えて来ますよ」
御者の言う通り、街道は海沿いを離れ森へと進んでいった。それによって潮の香りに代わり木々の香りが運ばれてくるようになる。
海沿いから深緑の中へ。進むルートが変わるのも悪くない――。
そんな呑気に考えていられたのも最初のうちだけであった。
「凄い草木だね」
「ええ、森を切り開いて石畳を敷き詰めた街道ですから」
一見すると、街道沿いはしっかり手入れがなされ管理が行き届いているように見える。だが森の中を覗き込めば、奥が見通せないほど枝葉が雑然と茂っており、足の踏み入れる隙間さえないのだ。
森を進むって言うから勝手にリスド支部の西の森をイメージしていたけど、まったく違う。鬱蒼と木々が生い茂る密林のような空間であった。
「こんな見通しの悪い所を行くの? 本当に大丈夫?」
俺が心配になって尋ねると、御者の男は殊更笑顔を向けて来る。
「ははっ、心配なさらずとも大丈夫ですよ。リスドのみならずカルミネやティロールからも定期的に巡回が出るようになりましたし、それらを掻い潜ってまで盗みを働こうとする者はさすがにいないでしょう。一応、二つの傭兵パーティを護衛として付けてもいますしね」
「……」
この安心しきった男の言葉は、御者の男を含めた商隊を率いる者たちの総意なのだろう。だが俺は思わず眉を寄せ、顔を強張らせてしまう。
そのティロールは今まさに陥落寸前なのだ。
情報が極秘事項とはいえ、まさかアルフォンソの手配した一行にまで知らされていないとは思わなかった。
ロベルタは海路より陸路の方が安全みたいなことを言っていたけど、ティロールとそして事実上カルミネからも監視の目が外れた以上、この辺りだって十分危険なんじゃないだろうか。
一抹の不安を拭いきれず、俺は万全を期すべく何かが起きた際の行動方針を考え始めた。
広域の探知魔法を使えれば楽なんだけど、目一杯魔力を展開すれば間違いなく魔道師ギルドに感付かれてしまう。せっかく結んだ約定に抵触してリスドが被害を被るのは避けなければならない。
そうなると護衛のパーティメンバーと連携して立ち回るかどうかだけど、一応俺の行動は極秘扱いなので、なるべく目立たないようにしなければならないってのがややこしい。
うーむ。
どうするべきか……。
突然黙ってしまったので御者の男は不思議そうな顔をしていたが、俺は構わず思案を続ける。
本当は何事もなければそれに越したことはないんだけどね。
だが俺の懸念は、残念ながら的中することになる。
リスドを出て二日目の夕刻――。
夜営テントの設置を手伝っていた俺は、不意に森の中を何かが動く気配を感じ、なるべく魔力を抑えめで探知魔法を展開しようと試みた。
だが思っていたより魔力制御に時間が掛かってしまい、その間に荷馬車の馬がけたたましい声をあげたかと思えば、突如森の中から賊の一団が襲撃して来たのである。
すぐさま周囲を確認すると、護衛の傭兵たちが荷馬車を囲むように陣形を組んでいるのが見えた。一瞬、合流するか迷ったが、あの中に連携の取れていない俺が加わるより、まだ森に潜んでいる連中をかき乱した方が良いと判断した俺は、一人直剣を手に森の中に駆け込んでいく。
宵闇の薄暗い森の中でも俺は探知魔法を駆使して敵の位置を把握すると、森の木々を利用してのヒットアンドアウエー作戦で油断している奴らを次々に気絶させていった。この戦法なら俺の人族離れした動きも木々が覆い隠してくれるし、多人数相手でも戦いを優勢にすすめられるはず――。
だが、そんな俺の拙い考えはあっという間に瓦解してしまう。
なんとアラゴン商会の連中は一台を除いた全ての荷馬車を諦め、護衛もろとも町へ逃げ帰ったのである。
盗賊どもも荷馬車の戦利品で満足したのか、逃げ帰った者たちが乗った荷馬車まであえて追うような真似はしなかった。
そして俺は一人、森の中に取り残されることになる。
(まずいな……)
短時間にかなりの数を気絶させたことで、盗賊たちは足並みをそろえて俺を探し始めた。明らかに引くタイミングを逸した俺は、商隊の逃げ去ったリスド側からゆっくり包囲を狭めてくる盗賊の手を免れる為、森の奥へと進まざるを得なくなってしまう。
一応魔力は感じなかったので探知魔法の使い手は居ないようだが、だいたいの俺の位置を掴んでいる事から感知魔法の使い手がどこかに潜んでいる公算は高い。
(魔法は使わない方が賢明か)
このまま見知らぬ森をさまようことになるのはいろいろ想定外であった。カルミネまでの食べ物や着替えは全て荷馬車の中に置いたままだったし、この薄明りではどちらの方角にカルミネがあるのかさえ大まかにしかわからない。
密書とお金を肌身離さず持っていたのは不幸中の幸いだったが、空間魔法か、せめて収納魔法だけでも使えるようにしておくべきだった。じいちゃんの授業をもっとちゃんと聞いておけばと後悔しても後の祭りである。
ただ、嘆いてばかりもいられない。
一刻も早くこの状況を脱する必要がある。
今の所、野盗の連中は俺の居場所を正確には探り当てていなかった。このまま見つからなければ良いのなら、いっそのこと目一杯全速力で森を駆け抜けるのも悪くないかもしれない。
懸念があるとすれば、途中、誰かが森に居たとしてもすぐには気付けないということか。
(まあ、ある程度行って街道に出れば大丈夫かな)
悩んでいても仕方がない。俺は覚悟を決めると、久しぶりに全力で走り始めた。
大地を踏みつけ草木をかき分ける音はどうしても鳴り響いてしまうが、今の所誰かに見られたという感覚はない。このまま進み続けてもきっと大丈夫だ――。
そう安直に考えた俺は、あまりに自分を過信し過ぎていた。
「あ、れ……?」
普段抑えていた力を出せば消耗するのも当然なわけで、夜営の準備に追われまだ碌に夕食に手を付けていなかった俺は、急激に襲ってきた空腹を前に頭がフラフラしてぶっ倒れそうになってしまう。
「は……腹減った……」
そういえば飯抜きで全力を出した事は今まで無かったかもしれない。ちょっと気を抜いたら意識が朦朧とするこの状況では、寝たら最後しばらくはきっと起きれ上がれないだろう。
とはいってもこんな森の中、どこに何が潜んでいるか分からない状況でぶっ倒れるわけにはいかない。
じいちゃんやラドンが飯をたらふく食べる気持ちが理解出来た。竜族にとって食事は重要な活力源なんだ。
「これ、やばいかも……」
お腹のすき具合もさることながら、意識したらどんどん眠気が酷くなってくる。だが、こんな所で熟睡してしまったらそれこそ猛獣の格好の餌食だ。
(硬質化の魔法を試すか……?)
レヴィアが言っていた土属性で寝る場所を作る魔法だ。家とまで行かなくても、何とか獣に襲われないようなスペースが作れればいいんだけど。
(いや、やめとこう。かえって疲れるだけだ)
苦手な土属性、しかも試したことのない硬質化など朦朧とする意識の中で出来るはずもない。レヴィアに言われて課題を一つずつクリアし、もう旅も一人で大丈夫かと思っていたが、まだまだ足りないものはいくらでもあると思い知らされる。
もはや取れる選択肢は二つだけであった。
猛獣に襲われないことに賭けて熟睡魔法を使うか、倒れる前にカルミネへ着くと信じてこのまま進むか。
ほんの少しだけ寝る、ということも考えたが、西の森で仮眠しかしなかった時の自分の惨状を思い返すとその選択肢はたちどころに消える。
(探知魔法を使うか)
もう盗賊たちからはかなりの距離を取ったはずだ。仮に感知魔法で気付かれたとしても、そう容易く近付かれはしないだろう。
そう思って探知魔法で周囲を探ると、間の悪い事に西の方向におそらく猛獣の類であろう荒ぶる存在を認めた。これではとても熟睡魔法で眠っている場合ではない。
「進むしかないか――!」
俺は歯を食いしばってさらにスピードを上げ走り出した。
だが全力で身体を動かしているにもかかわらず空腹と眠気で意識が吹っ飛びそうになり、咄嗟に閃いた目覚まし魔法を使っての強制的な神経の活性化という荒業に出る。
これが意外と上手くいったので、そのまま魔力の続く限り目覚まし魔法を連発し始めた。
無理やり意識を保たせているせいか神経が燃えるように熱い。それでもカルミネへの思いを乗せ最後の力を振り絞る。
もはや周囲の感知魔法さえ気を付ける余裕はなかった。
探知魔法と目覚まし魔法を掛けつつ、ただひたすらに森を駆けていく。
どれくらい時間が経っただろう。
無我夢中で走っていた俺は、ついに探知魔法による多数の人影を脳裏に捉えた。
気付けば進行の妨げになっていた背の高い草木は既に無く、前を見渡せば、木々の隙間から闇夜を明るく照らし出す巨大な城下町の姿が見え隠れしている。
「あれが、カルミネ……!」
何とか、たどり着いた。
もう探知魔法は不要だ。目覚まし魔法は使ってないとすぐ意識を失いそうだけど、それもあと少し頑張れば辿り着く。
もはや何もかもが限界だった。
足はもつれ、ちょっとでも目覚まし魔法を掛け損ねるとすぐに目の前が暗転してしまう。
そんな状況でも俺は、なんとか森を抜け、広がる畑のわき道を転がるようにしながら前へと進んでいった。
そして、ついに俺はカルミネの城門まで辿り着いたのである。
次回は8月12日までに更新予定です。