第九十話 暗影渦巻くアグリッピナ
「とにかくいったん引いて態勢を立て直さないと!」
「ならん! 陛下はまだ奥の間に行ったきりだ。我らはその退路を確保する義務がある!」
「ん、そんな時間は無いよ。この場所、崩れかけてるから」
「……は?」
ナーサの言葉に最初は声高に反対していたヴィットーレだったが、周囲を見渡し歪な階層状況を把握した途端、絶句してしまう。
まさか意識を失っている間に中央部分が陥没寸前になっているなど夢にも思わなかったに違いない。
「それにアレゼルも。本当に守りに徹しただけで凌げたと思ってる?」
「な、何の事だ? 私の魔法は完璧だったぞ」
「それは敵の狙いが“侵食”だったから、精神系の魔法でしか攻撃してこなかっただけ」
「う……」
「もし、敵がこの場を取り返すべく数の力で押して来たら?」
「……我らは一たまりもなく灰燼に帰すであろうな」
「なっ?! それ、大変じゃない!」
「ん、だから早くここを出ようって言ってる!」
そのユミスの言葉にナーサは大きく頷くと、おもむろに皆を見渡した。
ヴィットーレはまだ何か逡巡しているようだったが、最愛の娘の視線には勝てなかったようで最後は小さく頷く。
「じゃあ、当初の予定通り回廊まで戻るんだな」
俺はそう言って踵を返し今来た道を戻ろうとしたが、なぜかアレゼルに引き留められた。
「待て。ルフとヴェルンは正面階段だ。引くならそちらへ向かおう」
「はぁっ?! なんでヴィットーレを救出しに来といて、そんな所へ行ってるんだよ!」
「リーネから至急の救援要請があったのだ。敵が引いた以上、より大きな問題が生じている方へ向かうは必然であろう?」
「なーにが必然だよ。お前が牢獄宮に行きたいだけだろ!」
「ほうほう。確かに興味がそそられるのは事実であるぞ」
ったく、こいつは本音を隠そうともしないな。
まあ牢獄宮をルフとヴェルン達に任せてここへ留まってくれただけマシなのかもしれない。
「ん、どっちでもいい。今は時間がもったいない」
「ユミスがそう言うなら」
回廊も魔石の影響があるし、地上からでも学区へ戻れるからね。
動けるようになったヴィットーレたちが上へ向かうのを見届け、俺は最後の仕上げとばかりヴァルハルティに魔力を込める。
するとガッガッという岩石同士で削り合うような音が部屋中に響き渡り、中央のへこみがさらに歪な形に変わっていった。それに伴い今、剣に込めた何倍もの魔力が唸りを上げて押し寄せてくるのだが、ほとんど違和感はない。隣にいるユミスが適宜魔法を使うことで負担を和らげてくれている。
「ん、もういいよ、カトル。これ以上はこの階段も巻き込まれる」
「うむ、十分足止めになったであろう。それに、いくらその剣が尋常ならざる力を持っていたとしても、この階層の異質な魔力を全て消し去ることは出来まい……出来ないよな?」
最後疑問形になるアレゼルだったが、俺にだってそんなことは分からない。ただユミスに限界があるのも事実なわけで、ここら辺が潮時だろう。
それにしても灰色の髪の連中が邪魔してくるかと思ったが、アレゼルの魔法に蹴散らされ逃げて行った後は全く姿を見せなかった。奥の階段から地下へ降りて行ったようだが、皇帝の後を追っているわけでもなし、なんとも不気味だ。
「結局、連中は何だったんだ?」
「さあてのう。こんな連邦の中枢にまで仕掛けを弄する輩だ。どこぞの誰かと繋がっているであろうが……、我の興味はそこではない。そち、いや魔道王国カルミネが女王ユミスネリアよ」
「ん、今はもう女王じゃない」
「さようか。ならばユミスネリアよ。“侵食”とはなんだ? なぜそちはそれが分かった?」
「それは……」
階段を上るアレゼルのスピードが緩み、ユミスを見据える視線が鋭くなる。刹那、空気がピンと張り詰めるものの、それに反応したユミスの口調は拍子抜けするほど淡々としたものだった。
「能力判定魔法や能力分析魔法は鑑定魔法と仕組みが違うことは知ってる?」
「む、どういうことだ」
「鑑定魔法は相手に魔力を飛ばして能力を調べる魔法だけど、能力判定魔法や能力分析魔法はその場にある力が見える魔法なの。だから私にはヴィットーレたちの身体に二つの能力があるって分かった」
「能力が……」
「二つ?!」
「莫迦なっ! 能力とは意思の力。神が定めし値と照らし合わせた唯一無二の具現化されたモノなのだぞ! それが二つあるなど……」
アレゼルはユミスを見すえたまま呆然と立ち尽くす。同じ身体に二つの能力など、俄かには信じられない内容だ。
だがその時、俺はもっと別の事に意識のほとんどを持っていかれてしまう。
(……なんだよ、その“神が定めた値”ってのは!!)
確かに鑑定魔法の数値が何を基準にしているのか分からなかったけど、あれって誰かが決めたものだったのか? そんなのじいちゃんから全然聞いてないぞ。
そもそも自分の魔力で展開した魔法を相手にぶつけて力を読み取っているのに、他者の介入する余地がどこにあるというのか。
それならよほど能力分析魔法や能力判定魔法の方が龍脈を通じて何者かの介在を許してそうな気がするんだけど。
……いや、数値が出る以上、鑑定魔法も誰かが決めているのか?
そんな風に混乱する俺をよそに話はどんどん進んでいく。
「二つの能力って……、まさか“侵食”は別の意識が身体を乗っ取ろうとしていたってこと?!」
「ん……そう、だと思う」
「たわけが! この肉体に宿るは一個の精神だけぞ。それが二つ? バカバカしいにも程がある!」
「落ち着け、アレゼル。二つの能力があったのは間違いないのだろう? ユミス」
「ん」
「だから、あり得んと言って――」
「静かにしろ! ……重ねて聞くが、一つの身体に二つの意思があったとして、なぜヴァルハルティで追い払えたのだ? かの魔剣は魔力しか斬れぬであろう?」
「それは、核の根源が魔力だから」
「だが、同じ魔力を根源とする魔石からは自我など芽生えぬぞ。その矛盾はどう説明するのだ?」
「……いえ、姉さん。矛盾はしてないんです。カルミネの地で突如現れた天魔は魔石から生まれ落ちています」
「むむ、件の虹色の魔石か」
ナーサの言葉にあの時の情景が思い浮かぶ。
魔力を吸いつくされ倒れた人影と、城門前を埋め尽くす天魔……。そのおぞましい光景は未だ目に焼き付いて離れない。
あれらは魔石から生まれ出たものだった。鑑定魔法でもハッキリとその能力を確認している。
……“核”があの魔石と同じだったなら、その正体は天魔だったのだろうか?
でもなんでそのまま天魔として顕現せず“侵食”なんてまどろっこしい真似をしたんだろう?
人の身体を乗っ取ったとして、中身が化け物だったら何の意味もないのに。
……。
頭の片隅に何かが引っ掛かる。だが、喉元まで出かかっているのにどうしても思い出せない。
二つの意思に、一つの身体。
“侵食”によって身体を奪い取って、やつらはいったい何をするつもりだったのだろう。
「そろそろ地上よ、カトル」
上から聞こえるナーサの呼びかけに思考の渦から抜け出した俺は、慌てて階段を駆け上がった。既にナーサ以外は階段を上り終えたようで、上から喧々諤々の言い争う声が聞こえて来る。ヴェルンやルフの声もするので、どうやら問題なく合流出来たようだ。
ただ聞こえて来る内容が穏やかではない。
「この状況下で牢獄宮へ行くなど正気の沙汰ではない! 不可視の言葉が聞こえなかったのか?」
「ほうほう、魔力も視えぬ慮外者が抜かしよるわ」
「あのー、アレゼル様と比べたら、誰だって慮外者になってしまいますよ」
「……黙れ、この慮外者めが」
「ひぃーっ、酷いです。アレゼル様」
「そもそも、そちが逃げ出さなければ何の問題もなかったのだ。それをたかが大地の揺れ如きでおめおめと逃げかえりおって」
「たかが、だなんて言いますけどね。私、死ぬところだったんですよ? だいたい、大地が裂けるだなんて聞いてません。予想されていたのでしたら、最初から教えて下さいよ」
「我とて想定外なこともある。だが、それでも牢獄宮に何かあると思えば行かない手はない!」
なるほど。相も変わらずアレゼルが無茶苦茶言ってるわけね。牢獄宮には入れないってマリーに説明されたはずなのに懲りない奴だ。
ただ、気になる言葉があった。
(大地が裂ける、ってどういうことだ?)
詳細を聞こうとユミスを探し、その姿を宮廷の外に見つけるやすぐに彼女の傍まで走っていって――俺は絶句する。
そこから見えたのは、暗く底の見えない巨大な地割れに飲み込まれた首都アグリッピナの変わり果てた姿であった。
大変遅くなりました。
長くなったため、短めですが切りの良い所で投稿します。
次回は8月中に更新予定です。