行ってらっしゃい、龍神様!
---昔は良かった。
ボコッ、と気泡を吐き出しながらその存在は物思いに耽る。
---誰もがこの我を恐れ、敬い、祈りを捧げ、そして神として崇めた。
日本のとある秘境。まだ誰も足を踏み入れたことがない、見つかってすらいない場所。
美しい自然が溢れ、まだ見ぬ生物が生息するこの場所にその湖はあった。
---まったく、嘆かわしいことだ
再び吐き出した気泡が遥か上の水面に向かって浮いていくと、滝によって生まれる泡の中に紛れて消えた。
---今の人間どもは、我のことを忘れ、迷信だ何だとほざいておる。しかも、そればかりに留まらず、余所の国から来た宗教とやらを信仰するものまで存在する始末。愚かにも程があるだろうて。
湖の湖底にそれは存在した。
全長百メートル近くもある細長い体で器用にとぐろを巻き、眼を閉じてジッと動かないその存在。
体は鱗に覆われ、頭頂部からは大きく真っ直ぐな角を生やす。鼻の辺りから伸びる立派で長い二本の髭と豊かな顎鬚。
日本人がその姿を見れば、多くの者がその存在に思い当たるはずだ。
《龍神》
または水神、海神とも呼ばれる存在である。
古来から水難防止や雨乞いの際に祈りを捧げられてきた神であり、水を司る守護神。
そんな彼は今、自らが根城とする湖底で怒りを露にしていた。
---大体、八百万の神と言って我以外を神として信じていたいたことも腹立たしいのだ。我が民はそういった価値観が自由すぎる! 九十九神とかいったか? ただの妖怪ではないか! あれを我と同じ神とするなど、耐え難い屈辱だ!
バシンッ、と龍神は己の尾を湖底に叩きつける。
水中であるにもかかわらず、まるで抵抗がないかのように振るわれた尾は、とてつもない衝撃を発生させた。その衝撃は、遥か頭上の水面で大きな波を起こすほど。
もちろん、叩きつけられた湖底もただでは済まず、大きな穴を開けると同時に大量の砂塵を巻き上げた。
水中であるため、舞い上がった砂塵は辺りを漂ってゆっくりと広がり始めると、ついには龍神の体を覆い尽くす程広がった。
---我はこの国一の神である! 守護者である! 何故恐れぬ! 称えぬのだ! 信仰さえ戻れば、我が力は再び主らにために振るわれるというのに!!
信仰が薄れる。それは彼のような神にとっては存在意義が減ることと同意である。信仰されてこその神。ならば、信仰されなければその存在に意味はない。
現代において信仰に代わって発展した科学は、世界の理を解明する。それすなわち、神の領域であった力が、人間の理解に及ぶものになったということ。
故に、人は神を信じなくなった。そんなものはいない、と笑うようになった。
違う、我はここにいる
元々の力が強大だったが故に、現代まで生き残ってきた龍神。しかし、それも時間の問題だ。
現在において、信仰を持つのは大半が高齢者。ならば、これから生まれてくる民は我のことを信じないどころか知ることもないなんてこともある。
---最近は稲荷の奴も文句を言いに来おる。参拝者が減った、などと抜かしておったが……貴様はまだいいだろうが! 神社は有名な挙句、名を冠した料理まであるではないか!! 供物の稲荷寿司と揚げが少ない? 供物が減ったくらいで喚くな! あるだけマシだと思え!!
何度も何度も、感情が昂ぶる度に尾を湖底に叩きつける龍神。その度に湖底は抉れ、砂塵で辺りが酷い事になっているのだが、眼を閉じる龍神はそのことに気づかない。
---こうなれば、この我自らが民の前に出てやろうか。さすれば、民らは我に恐怖し、崇め、己の愚かさを悔い改め、そしてもう一度我を称えるに違いない! そして、力を取り戻した暁には、この国の民だけに留まらず外国とやらにも我が威を示してやろう! 先に我が民に手を出したのだ。文句はあるまいて。あと、 ザビエルは許さん!!
カッ!! と眼を開き、早速行動を開始しようとした龍神は頭を起こす。しかし、辺り一面に自らが巻き上げた砂塵が漂っていたためにまったく周りが見えなかった。
『……フンッ』
一瞬で昂っていた思考を落ち着けたところは、流石神と言えるだろう。起こした頭をゆっくりと下ろしてまた眼を閉じる。
---我としたことが、これでは獣と変わらないではないか。第一、姿を現したところで、今の民は騒ぐのみだろうて。それどころか、我に刃向かう愚か者もいるかもしれん。まったく、浅慮はいかんな。
しかしながら、このままでは龍神としての力が消え、最悪存在が消滅するのも時間の問題だろう。
---そのようなこと、この我が受け入れるわけがないであろう。
しかしながら、現状は最悪と言っていい。打開策も見当たらないため、最悪の場合は先ほど思いついた策を実行するしかなくなる。
---我が民に、あまり嫌われたくはないのだがな。
千年以上の付き合いがある民なのだ。嫌われすぎるというのも良くはない。そう考えた龍神は何とかいい考えがないかと頭を捻る。先ほどの、興奮は主に稲荷への怒りによる影響なので気にしてはいけない。元々は民のことを思える神なのだ。決して、元から凶悪な思考を持っているわけではない。
---そういえば、稲荷の奴が言っておったな。
考えて考えて、思いついたのはあの腐れ縁である稲荷の言葉であった。
---確か参拝者に異世界に行きたいという奴がおったとか何とか。……フム、言葉からして、この世界とは違う世界、ということか? 異世界とやらは。
自身の信者の願い事を、他の神に楽しげに話すとは、その信者に悪いと思わんのかといいたかった龍神だったが、言えば羨ましがっているとからかわれるので言わなかった過去の記憶である。
---今の力の大半を使えば、何とかなる……か? フム、やってみる価値はあるか。
どうせ、このまま何もしなければ朽ちるだけだろう。ならば、ここで賭けに出るのもいいかもしれない。
そう考えた龍神は、しばらく考え込み……やがてククッと押し殺すように笑い始める。
---さすがは我だ。なるほど、その異世界とやらで我が力を使えば、また我を称える信者が増えるだろう。これはいい!! 我が力を持ってすれば容易いことだ!!
フハハハハハハハハハ!!! と龍神は笑う。あまりの大笑いに、遥か頭上では水面が大きくうねる。
---そうと決まれば、早速始めるとしよう!! 我にふさわしい世界へ! いざ、新天地へ!
その夜、とある日本の秘境で局地的な大雨が観測された。気象衛星による観測の結果、雲は突如発生したものであったらしい。
だがしかし、衛星がその雲の中で蠢くものを捉えることはできなかった。