ささやかな魔法
「伊織ちゃん、前髪結構伸びてきてるね」
「えっ?」
朝食の席でそう声をかけてきたのは、一号室の浅野菜々子さんだった。木犀荘で私以外の唯一の女性住人である彼女は、今日も朝からその美貌とスタイルを活かした服装と髪型を格好良く整えている。
菜々子さんの指摘に私は前髪に触れる。そういえば最近、毛先が視界にちらつくようになってきたような。確かにそうですね、と同意すれば、彼女はにやりと笑ってみせた。
「おねーさんが髪、切ったげようか」
彼女は、美容師志望の専門学生。時々練習台と称しては私たちの髪を切ったり巻いたり、時にはカラーなんかもしてくれている。いつもその人のリクエストに応えつつぴったりの髪型にしてくれるから、木犀荘の住人たちが美容室に行くことは滅多にない。
かく言う私も例に漏れず、お願いします、と即答。お互いの学校の授業が終わる昼過ぎに約束して、朝食を済ませたあとは解散した。
大学で共通科目の授業を受けながら、ふと視界の端で揺れる前髪の先を摘まむ。今日はどんなふうに整えてくれるのか、ちょっと楽しみだ。
いつも通りの授業を終え、木犀荘に帰ってきたのは夕方近く。艶々とした緑の葉を茂らせた金木犀の木が並ぶ縁側には、まだ暖かい陽が差していた。そこに古新聞を何枚か敷いて、リビングから持って来た椅子を一つ置く。愛用のダークレッドのシザーケースを腰につけた菜々子さんは、椅子に座った私につるつるした手触りのクロスをかけながらじゃあ始めましょう、と綺麗に微笑んで言った。
「いつも思うけど、伊織ちゃんの髪はいい感じに柔らかいよねえ。セットしやすそうで羨ましいわ」
ブラシで毛先からゆっくりと梳かしながら、菜々子さんは話しかけてくる。自分ではあんまり意識していないことだから、私はちょっと首を傾げてしまうのだけど。
「そうなんですか?」
「そうよー? 私なんてもう、剛毛で。毎日朝早くから頑固な寝癖と戦ってるんだから」
「それは……大変ですね」
困ったように笑ってみせる彼女に、私は思わず苦笑してしまった。なるほど、いつも他の人より早起きなのはそのせいなのか。
「髪、それ以上伸ばさないの? 今くらいも十分可愛いけど、ロングも絶対似合うよ?」
「うーん……あんまり考えたことないですね。高校の時は腰ぐらいまであったんですけど、こっちの方が扱いやすいし」
「まあ、この長さでも色々弄れるしねぇ。でもちょっと考えてて。もし長くしたら、私が色々やってあげるから。――よし、じゃあ切るよ」
菜々子さんは喋りながらシザーケースへブラシを仕舞い、代わりにコームとシザーを取り出した。テンポ良くシザーを使って無駄の無い動作で私の髪を切り揃えていき、やがて背後から目の前に回って目を閉じた私の前髪に触れる。時折切られた髪が顔をくすぐって思わず身じろぎしそうになった。
「……よし、こんなもんかな?」
最後にパフで顔に付いた髪を落としてもらって、完成。目を開けた私に手鏡が差し出される。覗き込めば、今朝鏡で見たときよりもだいぶすっきりした自分が映った。ちょっと大げさだけど、新しい自分に生まれ変わったような気分。
鏡越しに目があった菜々子さんがにやりと笑う。
「いかがでしょうか、お嬢様?」
「素敵です。ありがとうございます!」
むず痒い気持ちをそのままに弾んだ声と表情で答えれば、それはよかった、と頭を撫でられた。なんだか甘やかされている気がする。
「このくらいお安い御用よ。また髪が伸びたり、気合入れてお洒落したくなった時は言ってね? いい感じに仕上げてあげるから」
「はい、是非お願いします」
二人で片付けながら笑い合う。時間を合わせたのか、丁度良いタイミングで縁側からおかあさんが顔を出した。もうすぐ夕方だけどお茶にしましょう、美味しい羊羹が入ったの、と誘われて、私たちは幼い子供のように顔を輝かせて小さく歓声を上げる。
木犀荘には、今日も穏やかな空気が流れていた。