おはよう、シアワセな日々
スマートフォンのアラームが鳴りだす前に起きる早朝。うっすらと窓越しの空が白んでいく時刻は六時前。遅れて鳴り出したそれを止めて、まだ醒めきらない目をどうにかするためにタオルを持って一度部屋の外に出る。いくつかドアが並ぶ薄暗い廊下の奥へ、少し古い床板を小さく軋ませながら歩く。洗面台の前に立って、傍らにある棚から自分用の洗顔を取り出して。冷たい水で顔を洗えば、寝起きの状態から解放されて幾分かすっきりした自分の顔が鏡に映った。
そういえば、ここに来てもうすぐ一ヶ月半くらいかあ、と自室に戻りながらぼんやり思った。今までとはがらりと変わった環境の中、最初は戸惑ったり無駄に疲れたりしていたものの、現在はもう慣れきってしまったように思う。ここの雰囲気とか、他の住人との付き合い方とか。ここの住人達は皆、個性豊かで面白い人が多い。それはきっと、一緒に住んでいる私にも当てはまるんだろうけど。
とんとん、とんとん、くつくつ、ことこと。と、階下からはいつの間にか規則正しい音が聞こえていた。加えて、さっきまでは感じなかった美味しそうな匂いも二階まで漂ってきている。きっと、大家さんが朝食を作り始めているのだろう。早く準備して手伝わなきゃ。
部屋に戻って手早く支度を整え、スマホだけジーンズのポケットに入れて再び部屋を出る。あまり音を立てないように気を付けながら階下の台所へ行く途中、私はある一つのドアの前で何となく足を止めた。私がここに来たばかりの頃、朝食の席で寝癖をそのままに朝が苦手なんだとぼやいていた部屋の主は、どうやらまだ夢の中。きっと朝日から逃れるように枕を抱きしめながら眠っているんだろうとドアに触れながら想像して、声を出さずに笑いながら私は再び歩き出した。
「おはようございます、おかあさん」
台所に顔を出して、こちらに背を向けて小さく歌いながら朝食づくりに励む小柄な背に声をかける。すると彼女はその手を止めて振り返り、私の姿を確認すると上品に笑った。
「あら、おはよう伊織ちゃん。今日も早いわねぇ」
この下宿屋の大家さんであるみやこさんは、私を含めた住人達からは『おかあさん』と呼ばれている。というのも、入居の際に彼女直々にそう呼んでほしいと言われるからだ。親元を離れてここで暮らしている間は、自分のことを母のように思ってほしいと。
「朝ご飯の匂いがすっごく美味しそうだったから、目が覚めちゃいました。手伝いますよ」
「ふふ、ありがとう。それじゃあ、お味噌を溶いてくれる?」
「はーい」
軽く腕まくりをして近くに掛けてあったエプロンを身に着け、冷蔵庫から合わせ味噌の入った容器を取り出す。おかあさんと談笑しながら朝食の準備をするのが、いつの間にか私の日課になっていた。
そうして広い食卓にできたてのご飯を並べる頃には、美味しそうな匂いにつられて他の住人達が起き出してくる。住人達は大学生と専門学生で構成されているから、朝から少し騒がしいけれど、それがどこか心地良い。
皆が各々の定位置に着いた時、おかあさんが困ったわ、と頬に手を当てた。視線の先には一つだけぽっかりと空いた席。
「祐希君、まだ寝てるみたい」
おかあさんのもう一つの要望で、朝食は皆で取ることが決まりの一つになっている。けれど時々こうやって寝過ごしたりして揃わない人が居るときは、ひどく残念そうな顔をするのだ。私も少し残念に思っていると、突然住人の一人が声を上げた。
「そうだ、伊織ちゃん。祐希君を呼んできてくれない?」
「へっ!?」
びっくりして顔を上げると、口元に笑みを浮かべた彼らの顔。おかあさんも名案だと言わんばかりに頷いている。
「いいじゃん、起こして来るだけなんだから。祐希も伊織ならたぶん目が醒めると思うし」
「や、でも、あの」
別の住人に言われ、助けを求めようと周囲を見るけど誰も味方がいそうにない。それどころか、にやにやと嫌な笑みを浮かべている人さえいて。……後で覚えてろ、たとえ先輩でも許さない。
「ね、お願い。伊織ちゃん」
「…………行ってきます」
おかあさんにダメ押しされた私は、むっとした表情で席を立った。
わざと足音を立てながら階段を登り、朝立ち止まったのと同じドアの前に立って、一つ深呼吸。いつもより少しだけどきどきと高鳴る胸を無理やり押さえつけて、ドアを叩く。
「祐希さん、朝ご飯ですよー」
声をかけると、数秒経って唸り声のようなよくわからない声が聞こえてきた。まだ、寝ぼけているのだろうか。
「ゆーきさーん、入りますよー?」
部屋の主が動く気配が無いので、強行手段を取らせてもらうことにした。ばん、と勢い良くドアを開けて一歩中へと足を踏み入れる。割と片付いている部屋のベッドの上で丸くなっているそれに近付き、かかっている布団を思い切りはがして、ついでに案の定抱きしめていた枕も腕の中から引き抜いた。
「うわっ!?」
その拍子に転がり落ちるジャージ姿の部屋の主。ごん、と鈍い音が聞こえたけれどそれで目が覚めたようなので気にしないことにする。打ったらしい頭を擦りながらのろのろと起き上がった彼は、目の前で仁王立っているのが私だと気付くと驚いた。
「……いってー……あれ、伊織!?」
「おはようございます、このねぼすけ。もう朝ご飯出来て皆揃ってますよ」
「え、もうそんな時間!?」
「そんな時間です。もうそのままの格好でも良いからさっさと来てください」
呆れ顔で少し強めにそう言ってやれば、あちゃーと呟きながら鳥の巣状態な頭を掻く。そうしてゆっくりと立ち上がり、大きく伸びをした。
「あーあ、また皆に笑われる」
「自業自得ですね」
「はは、厳しいなー……でも、ま」
からからと笑うと彼はぽん、と私の頭に無造作に手を乗せて。寝起きのせいでまだぽやっとしている彼の顔が少しだけ近づく。
「起こしてくれてありがとな、伊織」
目を細めて笑うその表情が眩しくて、優しく穏やかな声が心地良くて、私は慌てて目をそらした。
「あっ、頭撫でないでよ子供じゃないんだから!!」
思わず敬語も忘れ顔を真っ赤にして怒鳴るけれど、彼はそんなの気にするはずもなく。せめてもの腹いせにと強めに背中を押して階下へと急かしたのだった。
下宿屋『木犀荘』は今日も今日とてちょっと騒がしい朝から始まるけれど、楽しい日々を過ごすことができて、私は結構シアワセです。