王国を放出された守護騎士、常勝帝国で大陸覇者となる ~大型トレードの果てに、古巣と頂上決戦~
本作は、剣と魔法の世界を舞台にしたファンタジーです。
九人一組の騎士団、大陸の覇権を争う戦い、そして突然の放出劇。
どこかで聞いたような話だと思った方も、まずは最後までお楽しみください。
最初に異変に気づいたのは、ユーダ・ヤマベル自身ではなかった。
「今朝から、城の使いが三度も来ている」
訓練場の隅で汗を拭いていたユーダに、用具係の老人が言った。
「誰を捜しているんです?」
「お前さんだよ。……何かやらかしたのか?」
「昨夜、食堂の皿を一枚割りましたが」
「その程度で宰相が動くか」
老人は笑わなかった。
ユーダはまだ二十七歳だった。いかめしい肩書きに似合わず、顔立ちには若さが残っている。日に焼けた手には古い傷が多く、鍛え抜かれた腕には、魔術師ほど目立つ魔力の紋様がない。粗末な地方傭兵団の見習いだった頃から、見栄えのいいものには縁がなかった。
ただし、彼の胸元に下がる小さな金色の盾章だけは、誰もが知る栄誉だった。
大陸闘陣連盟が、二つの組からそれぞれ年間一人ずつ、守りに最も優れた守護騎士へ贈る《黄金盾勲章》。大陸に十二国あっても、毎年二人しか選ばれない。
彼は、その受賞者だった。
「ユーダさん!」
駆け込んできたのはシオン・マツェルだった。
白い訓練服。端正な横顔。剣帯につけた桐影魔導学院の徽章。十八で騎士団に入り、二十一歳の今、すでに次代の正守護騎士と呼ばれている。
「宰相がお呼びです。今すぐ」
「そうか。皿の件じゃなさそうだな」
「……冗談を言っている場合じゃないと思います」
シオンの声は硬かった。
ユーダは黙って水筒の栓を閉めた。
◇
大陸では、十二の国が一つの闘技を愛していた。
名は《闘陣》。剣、拳、魔法、盾を組み合わせて戦う、九人一組の団体闘技である。国が争う戦争ではない。王侯が後援する各国の騎士団が、報酬と名誉を懸けて競うだけだ。それでも人気は凄まじく、街では子どもが木剣を振り、酒場では夜ごと名勝負が語られる。
闘陣で最も権威ある大会が、年に一度の《大陸覇権杯》だった。
参加する十二の騎士団は、歴史的な加盟順によって《蒼環組》と《朱冠組》の二組に六国ずつ所属する。毎年の抽選で入れ替わるものではない。たとえば蒼環組には、青星王国、虎嶺王国、橙巨共和国、赤鯉公国、緑燕公国、蒼竜王国。朱冠組には、黄金鷹帝国、北熊共和国、黒牛連邦、海鴎公国、紅鷲王国、蒼獅公国が属していた。国境が近いか遠いかとは関係ない。
同じ組の六国は、季節をまたいで何度も戦い、通算成績を競う。年の途中には別組との特別対抗戦もあり、その結果も予選成績に算入される。長い予選が終わると、各組上位三国が決勝進出戦へ向かう。二位と三位は最大三試合、先に二勝した方が勝ち抜ける。その勝者が首位国と、組の代表を懸けて争う。首位国は原則として一勝の優先権を持ち、実際の対戦は最大六試合、優先分を含め四勝した側が勝ち抜ける。ただし予選での両国の成績差が十試合分以上、または挑戦国の勝率が五割未満なら、首位国の優先権は二勝に増え、実際の対戦は最大七試合、優先分を含め五勝先取となる。最後に残った各組の代表が、大陸覇権杯の決勝《覇権戦》を戦う。
覇権戦には最大七試合あり、先に四勝した騎士団が大陸覇者となる。試合が一度終われば、その試合の勝ち負けは確定する。翌日また戦うのは、同じ一試合の続きではなく、二戦目、三戦目という別の勝負である。
闘陣そのもののルールは単純だった。
両軍九人ずつが結界で守られた闘技場に立つ。魔術師一人、守護騎士一人、剣士や拳闘士、斥候など七人。途中交代は認められるが、魔術師と守護騎士が同時に二人立つことはできない。魔術師は術を放つたび魔力を失うため、最初に戦う術師も、最後の局面を任される術師もいて、長い予選には適切な休養が欠かせない。
相手が戦闘を続けられる者を一人も出せなくなるか、相手陣の奥にある《勝利核》を破壊すれば勝ち。時間内に決着しなければ、短い追加戦闘を行う。命を奪う攻撃は闘技場の結界が防ぐが、痛みや疲労、負傷の危険は本物だ。戦闘不能となった者は、その試合には戻れないが、控えからの補充は認められる。交代と補充には回数の上限がある。
守護騎士は味方の魔術師の前に立って盾となり、敵の動きと味方の配置を読む。魔術師には術の属性、強さ、狙う位置を指示し、必要なら自らも剣や盾で戦う。優秀な守護騎士がいれば、同じ魔術師の能力がまるで違うものになる。
ユーダ・ヤマベルは、青星王国でその役目を担っていた。
守りだけでなく、攻守を総合評価する《九傑章》にも同じ年に選ばれた。地道な仕事を積み重ねた末の、二つの栄誉だった。
けれど今、その男の契約先を変えようという話が進んでいた。
◇
「単刀直入に言おう」
青星王国の宰相キムラッドは、机の向こうで指を組んでいた。
「君には、黄金鷹帝国騎士団へ移籍してもらう」
部屋にはキムラッドと二人の編成官、それにユーダしかいない。
「……帝国、ですか」
「そうだ」
「なぜ私が」
キムラッドは、妙に落ち着いた声で答えた。
「帝国が君を求めてきた。どうしても欲しいとね」
「なら、お断りすれば済む話では?」
「我々には、我々の事情がある」
机の上には二枚の人物画が置かれていた。
一枚は若い攻撃騎士。もう一枚は、才気のある魔術師。
「帝国の控え騎士イノエル・トーヤと、魔術師オガート・シュートだ。オガートには長い戦いの初めを任せられる力がある。イノエルも、将来は攻撃の中心を担える逸材だ。向こうは二人の契約権を渡す条件で、君を求めている」
「二人と、私一人を」
「そうだ」
各国の騎士団は、王宮とは別の組織だった。君主や商会が支える騎士団体であり、団員はあくまで団と契約する。連盟の規定に従えば、予選の途中でも、双方の合意と本人の承諾によって契約先を変えることができる。
移籍そのものは珍しくない。
ただし、この時期に正守護騎士を手放すのは、異例だった。
「ご存じの通り、私はまだ働けます」
「もちろんだ。君を過小評価しているわけではない」
「ならば」
「むしろ、評価しているからこそ成立する話だよ」
キムラッドは人物画を指した。
「我々は予選の前半で、長い戦いを任せられる魔術師の層の薄さに苦しんだ。上位へ進むには、最初から流れを作れる術師が必要だ。それに、将来の攻撃を担う若い騎士も欲しい。しかし手元に交換材料がない。帝国ほどの強豪が二人出す価値を認める騎士が、うちには何人いる?」
ユーダは答えなかった。
「それに、シオンがいる」
聞き覚えのある名が、静かな部屋に落ちた。
「彼は素晴らしい。今季の守護指揮も安定してきた。これから長く王国を支えてくれるだろう」
「……ええ。間違いありません」
「君は二十七、シオンは二十一。年齢を理由に君を捨てるわけじゃない。二人とも若い。だが守護騎士は一度に一人しか出せない」
キムラッドはそこで一度、言葉を切った。
「優れた者が二人いても、同時には生かせない。一方で、先発を任せられる魔術師の層が薄いままでは勝てない。将来の攻撃の柱も育てたい。私は今年の覇権杯を取りたいんだ」
理屈は通っていた。
ユーダには、それがかえって堪えた。
「私が帝国へ行けば、帝国の守護が強くなります」
「承知している。ただ、同じ組にいる相手ではない。決勝で当たるかどうかも分からない。それに、我々も相応の戦力を得る。闘陣で勝つための交換だ」
どの言葉にも、露骨な悪意はなかった。
目の前の男はユーダを憎んではいない。実績も認めている。だからこそ、帳簿の上で二枚の駒と引き換えにすることを選んだ。
「私には、断る権利もありますよね」
「ある。契約上、無理強いはできない。ただ、正守護騎士として今後も起用すると約束することは難しい」
キムラッドは目を逸らさなかった。
それが脅しなのか正直さなのか、ユーダには分からない。
ただ、闘陣士としての一日は短い。待機席に座って過ぎる日々を、誰も取り戻せない。
「時間をください」
「今夜までなら」
「……分かりました」
ユーダは礼をして部屋を出た。
廊下の窓には、雲の切れ間から差す光が細く伸びていた。
◇
ユーダの故郷は、王都から三日も離れた丘陵地だった。
少人数の傭兵団で物資の運搬を手伝い、余った時間に木の盾を握る少年だった。立派な剣も魔術の才能もなかった。あったのは、人の動きを飽きずに眺める妙な癖だけ。
騎士選考の日、彼は最後まで呼ばれなかった。
帰る準備をしていたところで、青星王国の下級編成官に声を掛けられた。
「お前、あの負けた試合で、味方を何度助けた?」
「数えていません」
「俺は数えた。二十七だ」
ユーダは驚いた。
「二十七回、仲間の倒れそうなところに先回りしていた。剣は下手だが、変な奴だな」
そして、王国の騎士団に拾われた。
最初の二年は盾磨きと雑務。次の一年は予備隊。初めて本隊に呼ばれた日は嬉しくて、眠れなかった。
初陣では敵の投げた石に正面から当たり、鼻血を出して倒れた。恥ずかしかった。翌日、相手がどこを見てから石を投げたかを、思い出せる限り紙に書いた。
次の試合では避けられた。
その次は、後ろの魔術師まで守れた。
何百回も転び、何百回も起きた。
やがて王国の正守護騎士になり、黄金盾勲章を受け取った。負傷した年は《大陸選抜》の大きな大会にも招かれなかったが、翌年には代表に選ばれ、他大陸の精鋭との親善戦で盾を構えた。一流騎士とともに戦えた時間は、今でも誇りだった。
そうして手に入れた居場所が、いま、静かに遠ざかろうとしていた。
夕方、ユーダは訓練場へ戻った。
シオンが一人で盾を構えていた。
「腕が下がっているぞ」
声を掛けると、青年が勢いよく振り返った。
「ユーダさん。話は……」
「まだ決めていない」
「俺、宰相に言ってきます」
「やめておけ」
「でも、こんなの」
シオンは言葉を探した。
「あなたがいらなくなったみたいじゃないですか」
ユーダは少し笑った。
「別に、そう言われたわけじゃない。帝国が俺を欲しがった。それだけのことかもしれない」
「……俺がいるから、ですか」
「それも、理由の一つだろうな」
シオンの表情が曇った。
「俺は、あなたから正守護騎士を奪いたかったわけじゃありません」
「知ってる」
「勝って、実力でいつか追い越したかったんです」
「それも知ってる」
ユーダは青年の盾を見た。
盾の縁に刻まれた小さな傷は、以前の訓練で自分がつけたものだった。
「シオン。俺が初めてお前を見たとき、なんと思ったか分かるか」
「……嫌な生意気野郎?」
「違う。上手いなあ、と思った」
「本当に?」
「ああ。俺が五年かけて覚えたことを、お前は一度でやる。正直、悔しかった」
シオンは目を見開いた。
「でも、それで俺の五年が消えるわけじゃない。お前の才能を妬むくらいなら、まだ教えられることを教えたかった」
「ユーダさん……」
「俺は、俺の仕事が好きだ」
ユーダはそこで、言葉を止めた。
口にして初めて、胸の奥にあるものの形が分かった。
「だから、必要としてくれる場所で続けたい」
シオンはしばらく俯いていた。
「……行くんですね」
「ああ。今夜、承諾の返事をする」
青年が深く息を吸った。
「だったら、約束してください」
「何を?」
「次に戦うとき、手加減しないでください」
ユーダは笑った。
「当たり前だ。お前こそ、名門の天才らしいところを見せてみろ」
「……言われなくても」
シオンもようやく笑った。
その夜、ユーダは契約交換の書類に署名した。
青星王国に仕えた日々を後悔していたわけではない。
ただ、次の試合を戦いたかった。
◇
ユーダが契約書に署名した夜、王都では小さな雨が降っていた。
彼は自室の机を片づけようとして、古い試合の紙片を見つけた。端が擦り切れ、文字も薄くなっている。
『守護騎士見習い・ユーダ』
まだ正守護騎士など夢にも思わなかった頃の、出場名簿だった。しかも自分の名は、他の騎士の下へ小さく書き足されている。
その試合で、ユーダは最後の十分だけ闘技場へ立った。勝敗はもうほとんど決まっていた。仲間に一人、どうしても魔術師を守り切れない者がいて、代わりを頼まれたのだ。
敵の術は強かった。
足がすくみ、手のひらに汗が浮いた。
それでも前へ出た。
初めて魔術師から「次は右を護ってくれ」と言われたとき、胸が高鳴った。
そこへ一撃が来た。
受けた。
盾が痺れ、体が後ろへ飛びそうになる。それでも踏みとどまった。
試合終了の鐘は、すぐに鳴った。
誰も彼の名を叫ばなかった。記録には「出場した」としか残っていない。
だが、ユーダはその日から守護騎士を目指した。
守った相手が、試合後に一度だけ笑ったからだ。
「ありがとう。助かったよ」
たったそれだけの言葉だった。
青年は古い紙片を折り、旅の鞄の奥へ入れた。
青星王国で一番つらかったのは、役に立たなくなったと思われることではなかった。
まだ役に立てるのに、ここではその役目がなくなってしまうことだった。
そして、同時に別の感情があった。
自分を見つけてくれた王国への感謝だった。
誰かの好意を、いつまでも同じ形で返せるとは限らない。
だから今度は、別の場所で受け取った信頼を返してみよう。
ユーダは窓を閉めた。
翌朝、王都の石畳はもう乾いていた。
◇
王国の街に、契約交換を知らせる号外が出た日。
市場では、意見が真っ二つに割れた。
「ユーダを出すなんて正気か!」
「だが若手が二人来るんだろう?」
「黄金盾勲章を取った男だぞ!」
「シオンもいる。いつまでも同じ二人を抱えるわけにはいかないさ」
魚屋の主人と仕立屋の女主人が、仕事の手を止めて言い合っている。
通りかかった老人が、鼻を鳴らした。
「勝てば名采配、負ければ何を言われても仕方ない。騎士団の編成ってのは、そういうもんだ」
それが誰に向けた言葉だったのかは分からない。
ただ、そこにいた者は皆、少し黙った。
今年の王国には、王国の事情があった。
一昨年の覇者とはいえ、昨年まで頼っていた主力魔術師たちが相次いで王国を離れた。今年の予選では、序盤を任せる術師が足りず、長い戦いの途中で主導権を失うこともあった。守りが堅いだけでは、頂点には届かない。
だから補強は必要だった。
それでも人々が割り切れないのは、ユーダが単なる守りの一人ではなかったからだ。
地方から上がってきた男が努力で席をつかみ、名誉を得た。あの物語は、多くの観客にとって自分たちの物語でもあった。
それを、たった一通の発表で別の国へ送り出す。
闘陣の理屈と、心の理屈は違う。
キムラッドは、そのことも分かっていた。
◇
交換が公表された日、キムラッドは王国の記者たちの前に立った。
「一番の理由は、今年優勝するためです」
彼はそう明言した。続けて、将来にわたり勝てる騎士団であるための決断でもあること、先発を任せられる魔術師と将来の主軸候補となる若い騎士を得る必要があったこと、帝国側からユーダを強く望まれたことを説明した。
ユーダの実績を否定したわけではない。長年の貢献には深く感謝しており、今後も大きな働きをする騎士だと思う、とも述べた。
記者の筆が動く。
この言葉は、きっと何度も引用されるだろう。
正しかったかどうかは、王国の成績が決める。
しかし、その言葉を聞いたユーダが何を感じるかまで、記録は残さない。
◇
新加入のイノエルは、その会見を宿で聞いていた。
「……俺たち、そんなに期待されてるのか」
隣ではオガートが荷物を解いている。
「当然だろ。安い交換じゃないんだぞ」
「そりゃそうだけど、黄金盾と交換だぜ?」
「だから何だ。相手が強くても、お前が弱くなるわけじゃない」
イノエルは苦笑した。
「お前はいつも強気だな」
「強気に見せてるだけだ」
オガートが珍しく、小さな声で言った。
「……俺だって、帝国を出たかったわけじゃない」
イノエルは黙った。
帝国には仲間がいた。慣れた訓練場があり、古い友人がいた。
新天地が嫌なわけではない。期待されるのも嬉しい。
それでも、環境が変われば不安はある。
「……俺も、そうだよ」
イノエルが言った。
「でもさ。向こうのユーダだって同じだろうな」
オガートは荷物を置いた。
「そうだな」
「だったら、俺たちも頑張ろうぜ。せっかく選んでもらったんだ」
オガートは少し笑った。
「足を引っ張るなよ」
「それ、俺の台詞だよ」
二人は小さく笑い合った。
◇
王国で初めての訓練に出た日、イノエルはシオンを見て驚いた。
想像していた天才とは、少し違った。
名門出身。幼い頃から英才教育を受け、何でも簡単にできる。そんな話を聞いていたから、偉そうな青年を思い浮かべていた。
だがシオンは、訓練の前に誰よりも早く来ていた。
自分の盾だけでなく、仲間たちの防具を一つずつ確かめている。
「それ、守護騎士の仕事なのか?」
イノエルが尋ねた。
「仕事というほどじゃないよ」
シオンは答えた。
「でも、何か壊れていると危ないから」
「下の者に任せればいいだろ」
「前にいた人が、自分で見ていたんだ」
イノエルはすぐに誰のことか分かった。
「……ユーダ?」
シオンは頷いた。
「俺、あの人みたいに全部できるわけじゃないんだけど」
少し考えてから、笑った。
「できるところは、真似したい」
イノエルは、その言葉を気に入った。
天才であっても、誰かから学ぶ。
なら、自分たちも負けていられない。
◇
イノエルとオガートが初めて王国の勝利に貢献した日、キムラッドは観客席から静かに拍手した。
イノエルが難しい敵を正面から押し切り、オガートが決定的な術を放った。シオンは二人をよく守り、前線の仲間も最後まで戦った。
勝利の鐘が鳴る。
観客席から歓声が起きる。
「やったぞ!」
キムラッドの隣にいた編成官が叫んだ。
「まだ一勝だ」
宰相は静かに答えた。
けれど、その指先は小さく震えていた。
自分が交換で手に入れた若者たちが、歓声の中心にいる。
それは、彼にとって何よりも救いだった。
同時に、別の場所にいるユーダが、どうしているだろうかとも思った。
闘陣の結果は、時に人間を冷酷に見せる。
だが、本当に冷酷であることと、辛い選択を引き受けることは違う。
キムラッドは、責任から逃げないと決めていた。
◇
契約に署名してから出立まで、三日の猶予があった。
その間にユーダが最初にしたのは、盾の修理を頼むことだった。
「帝国へ持っていくのか」
鍛冶場の主人が、古びた盾を叩いて言った。
「はい。使い慣れていますから」
「向こうでもっといいものをくれるだろう」
「それでも、これは置いていけません」
鍛冶屋は肩をすくめた。
「頑固な奴だ」
盾の裏には、細かい傷があった。まだ傭兵団にいた頃、無茶な特訓でついたもの。最初に王国の試合へ出たとき、慌てて柄にぶつけたもの。王国の魔術師アズマインの魔法を受け損ねて焦がしたもの。どれがいつの傷なのか、ユーダにはだいたい分かった。
「こんな盾、記念館にでも飾ればいい」
「それは、もっと使えなくなってからにします」
「壊れるまで使う気か」
「直していただけるうちは」
鍛冶屋が吹き出した。
「だったら、壊れないように直してやる」
鉄槌の音が、夕暮れの店に響いた。
ユーダはその音を聞いているうちに、王国へ来たばかりの頃を思い出した。
◇
騎士団に拾われた初日、ユーダは練習用の靴を持っていなかった。
地方の傭兵団では布靴のまま戦っていた。王都の訓練場は石張りで、雨が降るとひどく滑る。ユーダは初めての走り込みで転び、膝をすりむいた。
「新入り、お前は何ができる?」
先輩騎士が尋ねた。
「……盾なら、少し」
「剣は?」
「苦手です」
「魔法は?」
「ろくに使えません」
「それで、なぜ来た?」
ユーダには答えられなかった。
ただ、騎士になりたかった。
誰かが危ないとき、そこへ先に行ける人間になりたかった。
その日の午後、先輩は乱暴な攻撃を仕掛けてきた。ユーダは何度も倒れた。それでも、最後の一度だけ、後ろの見習い魔術師を庇うことができた。
先輩が眉を上げた。
「お前、自分が殴られにいったな」
「……はい」
「それじゃ長くは持たん」
そう言って、先輩は倒れたユーダの腕をつかんだ。
「どうせ庇うなら、次は二人とも無傷でいろ」
ユーダは、その言葉を忘れなかった。
翌日から、彼は相手の足を見た。次は肩を見た。その次は呼吸を見た。攻撃を受け止めるより、一歩ずらして避ける方が安全だと知った。後ろの仲間がどこに立ちたいかを聞くようになった。
何年もかけて、守護騎士の仕事を覚えた。
その最初の師匠が、いま鍛冶場で盾を直している主人だった。先輩騎士は若くして闘陣を引退し、鍛冶屋に戻っていたのである。
「お前が黄金盾を取ったときな」
鍛冶屋が言った。
「村の連中に自慢して回った」
「やめてください。恥ずかしい」
「恥ずかしいのはこっちだ。最初は一年も持たんと思ってた」
火花が散る。
「……先生は、帝国へ行くことをどう思いますか」
鍛冶屋はしばらく手を止めなかった。
「王国が損をしたのか得をしたのか、俺には分からん」
「そうですね」
「ただ、お前はまだ働けるだろ」
「はい」
「なら、働けるところへ行けばいい。俺がお前に教えたのは、王国のために盾を持てってことじゃない」
やっと手を止め、鍛冶屋は笑った。
「後ろの奴を守れ、だ」
ユーダは小さく頷いた。
◇
二年前の覇権戦の日にも、彼は同じ盾を抱えていた。
ただし、闘技場には立てなかった。
予選の終盤、敵の強烈な一撃が右腕を直撃し、骨を折った。最初は耐えられると思った。だが翌日には盾と剣を連動させて守ることもできず、治療師から本戦出場を禁じられた。
「お願いです。一戦だけでも」
ユーダは何度も頼んだ。
治療師は首を横に振った。
「一戦出れば、この先一年戦えなくなるかもしれない。どちらを選ぶ?」
ユーダは何も言えなかった。
青星王国は、それでも強かった。
決勝では黄金鷹帝国と激突し、互いに一歩も譲らない戦いが続いた。
帝国の前衛は圧倒的だった。剣士も魔術師も、個人の技量では王国を上回るように見えた。
だが、帝国の守護連携は綻びが多かった。
魔術師が攻める瞬間に前衛が退き、前衛が攻めると守護騎士が遅れる。戦力は豊富なのに、九人が同時に働けない。
ユーダは治療室の映像板を見つめた。
王国の仲間たちも苦戦していた。代役の守護騎士は懸命に走り、アズマインもいつも以上に声を張り上げた。
王国の三勝二敗で迎えた六戦目。
王国の大剣士が、紙一重の一撃を決めた。
青星王国、覇権戦四勝二敗で制覇。
二十数年ぶりの栄冠だった。
治療室の窓の外から、夜まで歓声が聞こえた。
ユーダも泣いた。
友人たちの勝利が、どうしようもなく嬉しかった。
それでも、映像板の隅に映る空席を見たとき、涙の理由が一つではないことに気づいた。
自分は、あの場所に立てなかった。
勝利の輪の中にいる仲間へ手を振りながら、ユーダはひっそりと約束した。
次に決勝へ来たときは、必ず自分の足で立とう。
◇
翌年、ユーダは復帰した。
だが、右腕を庇う癖はすぐには抜けなかった。訓練では盾と剣を動かす間合いが崩れ、見習いの頃のように怒られた。
そのとき救ってくれたのが、まだ控えだったシオンだった。
「ユーダさん、僕と練習してください」
「……俺は今、たいして役に立たないぞ」
「それでもいいんです」
シオンは、桐影魔導学院で学んだ効率のいい防壁展開法を教えてくれた。代わりにユーダは、実戦で敵の攻撃を読むやり方を教えた。
二人はどちらが師でどちらが弟子とも決めず、毎日盾を構えた。
「あなたの真似をしたいんです」
シオンは何度も言った。
「真似はしなくていい」
ユーダも何度も答えた。
けれど、ある日、シオンの構えが自分とそっくりになっているのを見たとき、ユーダは少しだけ嬉しかった。
若い才能に、追いつかれたのではない。
自分が積み重ねてきたものが、誰かの中で生き始めている。
そう思えたからだった。
◇
ユーダは、その年の《大陸選抜》にも招かれた。
大陸選抜は、十二国の国籍や所属を問わず、優秀な騎士だけを集めた代表団だ。遠い大陸の代表たちと親善闘陣を戦う。黄金盾勲章を取ったユーダの選出は、誰もが納得するものだった。
代表の訓練場には、各国の一流が並んだ。
金色の鎧を着た帝国騎士もいた。南の島国から来た術師もいた。普段は敵としてしか会わない強者たちが、同じ食堂で食事をし、同じ訓練場で汗を流していた。
ユーダは毎日、目を輝かせていた。
「あなたは、相手の術の完成をどう見抜くんです?」
別の国の守護騎士にそう問うと、相手は少し考えた。
「魔力の色ではない。術師の足元を見る」
「足元?」
「うむ。強い術ほど、踏ん張るために踵が地面へ沈む」
ユーダはその晩、何度も足元を見る練習をした。
だがユーダは、この場所に立てることを当たり前だとは思っていなかった。
前年、王国が覇権戦を戦い抜いたあと、他大陸の強豪を迎える大きな選抜大会が開かれた。ユーダも代表候補だったが、右腕の骨折が癒えず、招集は見送られた。
覇権戦に続き、大陸の代表として戦う舞台にも立てなかった。
その悔しさを、忘れたことはない。
だからこそ、今回の親善戦には万全の体で臨みたかった。
試合当日。ユーダは代表の盾を左手に構え、異なる国から集まった仲間の配置を確かめた。
訓練では何度も合わせた。それでも本番の声の届き方は違う。いつもの王国の仲間ではない。相手の術が飛んだとき、誰が先に動くのかも違った。
「右の前衛、半歩下がってください。術師の前を空けないで!」
ユーダは声を張った。仲間が応じ、散らばりかけた防壁が一つにつながる。
決定的な一撃を放ったのは別の騎士だった。それでも、遠い大陸の強豪を相手に勝利の鐘を聞いたとき、ユーダの胸は熱くなった。
試合後、代表団を率いる総指揮官が声を掛けた。
「よく戻ってきたな」
「……はい。今度は、立てました」
「お前の視野と指示は、ここでも役に立った」
ユーダは拳を握った。
「でも、まだ終わりじゃありません。王国でも、もう一度あの決勝に立ちたいんです」
総指揮官は頷いた。
「その気持ちを忘れるな」
それ以来、ユーダは以前より丁寧に体を扱うようになった。痛みを隠して盾を持つのではなく、長く戦うために鍛え直そうとした。
帝国への移籍の話が来たのは、そのあとだった。
◇
出立前夜。
ユーダの部屋には、驚くほど多くの人が来た。
かつて守護を組んだ魔術師タイラン、食堂の女主人、用具係、治療師。誰もが何かを渡そうとして、何かを言いかけて、最後には短い挨拶になった。
アズマインだけは、しばらく黙って酒瓶を見つめていた。
「……お前の守りがなくなるのは、正直、痛い」
「シオンがいます」
「あいつはすごいよ。だが、違うんだ」
アズマインは杯を傾けた。
「お前が前に立ってくれると、安心して魔術を放てた」
ユーダは胸が詰まった。
「僕も、アズマインさんの魔法があると心強かったです」
「過去形にするな。まだ終わっちゃいないだろ」
アズマインは笑った。
「次に会うときは敵だ。お前の癖は全部知ってるからな」
「僕もです」
「なら、覚悟しておけ」
短い握手を交わした。
翌朝、駅の時計が出発を告げた。
ユーダは修理した盾を背負い、振り返らずに列車へ乗った。
振り返れば、足が止まりそうだった。
窓の外を流れる王都の屋根を見つめながら、彼は小さく呟いた。
「……行ってきます」
◇
帝都へ向かう列車の窓から見た景色は、青星王国とさほど変わらなかった。
麦畑があり、村があり、小さな川がある。国境の碑を越えても、空の色は同じだった。
ユーダは膝の上の契約書を見た。交換による移籍なので、今季の報酬条件は変わらない。それより心に残ったのは、帝国の編成局から添えられた短い手紙だった。
『あなたの守護指揮を必要としています。負傷歴も承知しています。無理を強いるための獲得ではありません。まずは帝国での戦い方を一緒に考えてください』
貴重な一人の守護騎士として扱われている。そのことが嬉しかった。
帝都の駅に着くと、大柄な男が待っていた。
「……お前がユーダか」
背の高い老剣士は、長い剣を背負い、髪を無造作にまとめている。
「ヤナギーダさん……ですか?」
「そうだ。荷物、持とうか」
「いえ、そんな。ご自分でいらしたんですか」
「迎えに行くと言ったら、誰にも止められんかった」
どこかとぼけた調子で笑い、彼はユーダの鞄を半分持った。
ユーダが驚いたのは、相手が長く帝国を支えた伝説的な剣士だったからだ。
「二年前の覇権戦では、お会いできませんでした」
「あのとき、お前は怪我で出てなかったからな」
青星王国と黄金鷹帝国は六戦戦い、王国が四勝二敗で勝った。ユーダはそのすべてを治療室から見ていた。
「うちが負けた試合のこと、まだ覚えてるか」
「ええ」
「強い奴はいた。それでも負けた。守護の連携も、術師の疲労の見方も、九人の噛み合わせも、いろいろ足りなかった」
ヤナギーダは門の前で立ち止まった。
「だから、帝国の編成局がずっと欲しがっていたんだ。お前を」
「……そうだったんですか」
「強い剣は鍛えられる。だが九人の癖を見て、毎日合わせられる奴は簡単には育たん。そう聞いたよ」
あくまで編成局の判断だ。選手が勝手に交換を取り決めたわけではない。
「今季の総指揮官はコクボル。現場の戦い方はあの人が決める。騎士団長はクリハルトだ。お前もすぐに会う」
ユーダは頷いた。
新しい国で、どんな仲間と戦うことになるのか。
少し怖かった。だが、それ以上に楽しみだった。
◇
帝国の訓練場は、王国のものより広かった。
広いから優れているとも限らない。人が多いから強くなるとも限らない。ユーダには、それが分かっていた。
だが、初日に目にした訓練風景には驚かされた。
正面では、大剣士クリハルトが木製の標的をまとめて叩き割っていた。少し離れた場所で、斥候シュートーが騎士たちの間を縫うように走っている。老剣士ヤナギーダは一歩も動かず、若者の攻撃を片手でいなしていた。
その向こうでは、魔術師スギヤードが、とてつもない速さで術式を完成させていた。
凍りついたように空気が張り詰める。
「そいつ、まともに見ようとするなよ」
コクボルが耳打ちした。
「なんです?」
「速い。術式が完成するところを目で追っていたら、もう喰らってる」
目の前で、青白い雷光が標的の急所を正確に貫いた。
ユーダは息を呑んだ。
だが同時に、別のことにも気づいた。
スギヤードの後ろ足が、放つ瞬間にわずかに浮いていた。
「……着地するとき、少し膝がぶれますね」
「ん?」
「何発も続けると負担がかかりませんか」
コクボルが面白そうに顔を上げた。
「本人に言ってみろ」
スギヤードは長身で無口な男だった。最後の局面を任される魔術師として知られ、この日の訓練も短時間だけ行っていた。
「足が?」
「はい。失礼ですが、術を放ったあとに右膝が内側へ入りがちです。足元の衝撃を私の防壁で逃がせば、少し楽になると思います」
「そんなもの、誰にでもある」
「そうですね。でもあなたの場合、術の速さがすごいので、着地を待たず次を放ててしまう。かえって消耗が早いのでは」
スギヤードは一瞬だけ目を細めた。
「……初対面で、よくそこまで言うな」
「すみません」
「謝るな。試そう」
彼はもう一度、雷を放った。
ユーダがスギヤードの前で盾を構え、術師の足元に衝撃が伝わる寸前、ほんの半歩だけ体勢を直す。
雷が走った。
スギヤードの右足がきれいに地面へ戻る。
「……なるほど」
もう一発。
さらに一発。
スギヤードは初めて、少しだけ口元を緩めた。
「楽だな」
「なら、よかった」
「次はどう撃つ?」
ユーダは目の前に並ぶ標的を見た。
「三番目の木偶は、雷に対する結界を張っています。二番目から右へ視線を流して、最後だけ氷を」
「俺の得意は雷だぞ」
「知っています。でも、相手も知っているでしょう」
スギヤードが鼻で笑った。
「……気に入った」
横で見ていたシュートーが呟いた。
「三発目だけ氷って、性格悪いな」
「お前にだけは言われたくない」とスギヤードが返した。
コクボルが大声で笑う。
「な? 言った通りだったろう!」
訓練場の手前では、若き攻撃騎士マサーキが、自分を囲む三体の木偶の間を抜けていた。姿勢の崩れたまま放つ一撃が、妙な角度から急所へ届く。
「型にはまらない剣ですね」
ユーダが呟くと、コクボルはもう一度笑った。
「本人は『届けば勝ちです』としか言わん」
◇
全員が歓迎してくれたわけではなかった。
「ユーダさんが来たら、俺の出番はどうなるんですか」
帝国で正守護騎士を務めてきたウミノスは、ユーダに面と向かって言った。
年はユーダより少し上。帝国の育成団で地道に経験を積み、昨季から正守護騎士を務めていた。二年前の決勝で苦しんだ当人ではないが、引き継いだ役目の重みをよく知っていた。
「あなたを歓迎しないわけじゃない。ただ、こっちも人生が懸かっている」
「そうですね」
「何もかも譲ると思わないでくれ」
「もちろんです」
ウミノスは拍子抜けしたような顔をした。
「……もっと言い返すかと思った」
「その方がよかったですか?」
「いや、そういうことじゃない」
ユーダは、相手の盾を見た。
傷が多い。手入れは丁寧だ。縁を固定する鉄具が何度も取り替えられている。
「大切に使われているんですね」
「これか?」
「はい。この盾には、まだまだ仕事がありそうですね」
「……縁起でもないことを言うな」
「だったら、練習で競い合いましょう。僕もまだ習うことが多いので」
ウミノスは、やっと小さく笑った。
「それは、こっちの台詞だ」
ユーダは入団早々、彼に守護指揮の練習を頼んだ。
試合の映像を何度も見直し、魔術師の癖を拾い、守る位置を半歩ずつ変える。ウミノスが知らなかったことをユーダが教え、ユーダが知らなかった帝国の戦術をウミノスが教えた。
互いに正守護騎士を目指していることに変わりはなかった。
それがユーダには心地よかった。
◇
帝国の名誉総監が訓練を見に来たのは、移籍から五日目のことだった。
かつて大陸を沸かせた伝説の闘士で、引退した今は若い選手を見守り、編成局の相談にも乗っている。
若い頃、オウは片脚で立つような独特の《片脚構え》から、相手が踏み込む一瞬を狙って強烈な打撃を放った。その形だけをまねて転んだ少年は、大陸中にいたという。
「先に脚を浮かせてどうする。大切なのは構える前の鍛錬だよ」
老人は穏やかに笑った。
「ユーダ君。帝都の暮らしには慣れたかね」
「皆さんに助けていただいています」
「それはよかった」
オウはしばらく訓練を眺めた。
「強い者が一人で勝てるなら、団は要らない。しかし、強い者を集めただけでは、もっと勝てない」
「……はい」
「君がどこで育ったかは関係ない。ここで何をするか。それだけを見ていたい」
ユーダは深く頭を下げた。
「頑張ります」
「長く続けてくれ。まだ若いんだから」
その言葉は、ユーダには妙に嬉しかった。
◇
その頃、モイネルはまだ実戦に戻っていなかった。春先から続く肩の不調で、試合に出るための魔力回復が遅れていたのだ。治療と別調整を続け、復帰は夏の盛りになる見込みだった。
帝国での初戦は、必ずしも華々しいものではなかった。
対戦相手は朱冠組の中位、海鴎公国。
帝国は予選で首位争いをしていたが、魔術師の疲労が積み重なり、接戦を取りこぼすことが増えていた。
ユーダは控えから出発した。
「急がず覚えてくれ」
総指揮官コクボルの言葉通り、最初はウミノスが正守護を務めた。相手の反撃が強まり、帝国の先発魔術師ハルマートの魔力が尽きかけた。控え魔術師ヘルナンドを入れるのに合わせ、守護騎士にも交代の合図が出る。
「ユーダ。行けるか?」
「はい」
闘技場は歓声に包まれていた。
砂が舞う。術式の残光が走る。前衛の剣士たちが敵の攻撃に押し返されている。
ユーダは一度、深く息を吸った。
足元の線から、味方の位置を確かめた。
クリハルトが前に出すぎている。シュートーは敵後衛を見ながら踏み切る場所を探している。ヘルナンドは呼吸が少し浅い。
「クリハルトさん、出すぎないでください!」
「おう!」
「シュートー、左から来る斥候を引きつけて!」
「了解!」
「ヘルナンドさん、大きな氷壁ではなく、足元に薄い氷を広げてください」
「……分かった」
ユーダは、細く盾を傾けた。
敵魔術師の火球を受け、衝撃を横へ逃がす。ほんの一呼吸。その間に、ヘルナンドの薄氷が敵の足を滑らせた。
敵の前衛が踏み外す。
クリハルトの大剣が振り下ろされた。
敵が一人、闘技場の外へ弾き飛ばされる。
「よし!」
帝国の観客が立ち上がった。
だがユーダは、別の方向を見ていた。
シュートーが敵の斥候を抑えている。そこへもう一人、背後から近づいている。
「シュートー、右!」
声が間に合うより先に、ユーダは走った。
盾で刃を受け、もう一枚の短い防壁を展開する。
金属音。
衝撃が盾を持つ左腕を伝い、踏ん張った拍子に古傷の右腕までうずいた。
「っ……!」
忘れていたはずの痛みに、息が詰まった。
だが、シュートーは助かった。
「ユーダ!」
「走って!」
シュートーが弾けるように駆け、敵の後衛を捕らえた。
終盤、帝国は数の上で優位に立った。
最後の反撃を退け、勝利核を破って勝利を収める。
闘技場の鐘が鳴った。
歓声の中、ユーダはそっと右腕をさすった。
それを、ウミノスは見逃さなかった。
「無理しただろう」
「少しだけ」
「それは、無理した奴の返事だ」
彼はユーダの盾を取り上げた。
「今日はもういい。手当てしろ」
「でも、あとで反省会が」
「俺が記録を取っておく」
不器用な言い方だった。
ユーダは笑って頭を下げた。
「ありがとうございます」
◇
翌朝、帝国の街では、小さな話題になっていた。
『黄金盾の新守護騎士、初出場で逆転を支える』
新聞の見出しに、ユーダは困惑した。
自分が出たのは試合の半分にも満たない。勝ったのは、最後まで戦い抜いた皆の力だった。
「新聞って、少し大げさですね」
食堂で呟くと、向かいに座ったウミノスが鼻で笑った。
「二年前、お前のところの王国が優勝したときも、同じことを言ってたか?」
「……あのときは、新聞を読んで泣きました」
「だろう。読む方には大事なんだよ」
ユーダはもう一度、見出しを見た。
故郷では自分の名が報じられるたび、幼い頃世話になった傭兵団の仲間が喜んでくれた。
帝国にも、同じように喜ぶ人がいるのだろうか。
すると食堂の扉が開き、シュートーが飛び込んできた。
「ユーダ! 昨日のあれ、もう一回教えて!」
「どれです?」
「右に来るって言ったやつ! 俺には全然見えなかった!」
「……朝食が終わってからでもいいですか」
「一分で食え!」
「無茶を言わないでください」
ウミノスが笑い、厨房の女主人まで声を上げた。
ユーダは久しぶりに、何の気兼ねもなく笑った。
◇
青星王国では、交換された二人が新しい日々を始めていた。
イノエルは若い攻撃騎士だった。強い相手に向かう度胸があり、隙を見つけると迷わず踏み込む。オガートは気難しい魔術師で、術の種類が多い代わりに、仲間と呼吸を合わせるのが苦手だった。
この二人が力を発揮すれば、王国騎士団の攻撃は間違いなく厚くなる。
キムラッドの計算は、決して愚かではなかった。
「イノエル、さっきは行きすぎだ」
練習を終えたシオンが言った。
「あと二歩待てば、俺が防壁を張れた」
「帝国では、あそこで踏み込むのが普通だったんだ」
「ここでは、俺たちのやり方も覚えてほしい」
「……分かった」
オガートが腕を組んだ。
「だったら俺の術にも注文をつけるのか?」
「つけるよ」
「ずいぶん偉そうだな」
「守護騎士だからね」
シオンは少し考え、それから言った。
「でも、俺の指示が間違っていたら遠慮なく言って。お前の方が帝国の術を知っているんだから」
オガートは目を瞬かせた。
「……へえ」
その日から、三人の連携は少しずつ良くなった。
若さは、未完成であるということだ。
そして、未完成であることは、まだ変われるということだった。
◇
帝国の食堂には、一つだけ妙な決まりがあった。
初めて来た者は、好きな食べ物を一つ、皆の前で宣言するのである。
「くだらないだろ?」
シュートーが言った。
「誰が決めたんです?」
「昔の団長。新入りが話しやすくなるからだって」
ユーダは少し考えた。
「……魚の煮込みです」
一瞬、場が静かになった。
「渋っ!」
クリハルトが叫ぶ。
「もっとあるだろ、肉とか!」
「故郷の母がよく作ってくれたので」
「それ、余計に渋いな!」
食堂の女主人が笑いながら厨房へ戻り、翌日から週に一度、魚の煮込みが並ぶようになった。
ユーダは感激した。
「……ありがとうございます」
「何を大げさな」
女主人は肩をすくめた。
「一人増えたんだから、食卓も変わるだろう」
その言葉が、ユーダには嬉しかった。
王国では長い年月をかけて、ようやく居場所を作った。帝国でも同じくらい時間がかかると思っていた。
だが、ここでは誰も彼に特別な資格を求めなかった。
食堂で一緒に食事をする。訓練場で声を掛け合う。勝てば喜び、負ければ悔しがる。
ひどく簡単なことの積み重ねが、ゆっくりと彼の居場所を作っていった。
◇
帝国に来て、ユーダが一番驚いたのは魔術師の厚い陣容だった。
王国では頼れる術師の数が限られ、一人に負担が集まりがちだった。帝国には若いハルマート、速い術を持つオスナール、氷術のヘルナンド、終盤を支えるマツヒーロ、そして最後の局面を任されるスギヤードがいた。若手のマエダンとスズゴンも控えている。炎の達人モイネルもいたが、この時期はまだ復帰に向けた調整中だった。
魔術師は試合に一人しか立てない。先に戦う者が魔力を失えば次の者へ代わる。長い予選中は、それぞれの回復に合わせて休養日も必要だった。闘陣の強豪は、術師の強さだけでなく、その使い方でも強かった。
モイネルは、戦いそのものを恐れる男ではなかった。治療所で少しずつ術式を取り戻す彼を、ユーダは何度か訪ねた。
「どんな敵でも倒す。ただ、今日は頭が重い」
治療所での軽い調整が終わったあと、彼は平然と言った。
ユーダが熱を確かめると、わずかに体調を崩していた。
「今日は休んだ方がいいです」
「大したことはない」
「いつもの術が強いからこそ、無理をしてほしくありません」
モイネルは少しだけ黙った。
「……故郷の料理が食べたい」
思いがけない言葉に、ユーダは笑った。
「じゃあ、回復したら皆で作ってみましょうか」
「お前、作れるのか?」
「教わります」
後日、皆で作った煮込み料理では、一度、鍋を焦がしてしまった。魔術師としてのモイネルは大陸でも屈指だが、鍋の火加減だけは別問題らしい。
一方、ヘルナンドは自信家だった。
「俺の術をどう使うかは俺が決める」
「もちろんです。でも狙う場所だけ相談してもいいですか」
「相談は聞く。従うとは限らん」
「それで十分です」
ユーダは彼の氷術を繰り返し観察した。広い範囲を一度に凍らせると発動が遅れる。狭い場所へ薄く氷を置けば、敵の一歩だけを止められる。
「そんな小さな術じゃ見栄えが悪い」
「でも、その一歩が止まれば、クリハルトさんの剣が届きます」
次の訓練で、ヘルナンドが小さな氷を置く。クリハルトの剣が標的を破砕した。
「……確かに、こっちの方が勝てるな」
ヘルナンドは悔しそうに言った。
ユーダは頷いた。
「そういう術が必要なときもあります」
帝国の魔術師たちは、全員違う。だからこそ守護騎士にも、同じ指示を繰り返すだけでは足りないのだった。
◇
スギヤードとの付き合いは、少し変わっていた。
彼は必要なことしか言わない。
訓練が終われば、ひとりで術式の書き換えをしていることが多かった。食堂でも隅に座り、黙々と食べる。
だが、ユーダの指示だけはよく聞いてくれた。
ある夜、二人だけで戦況図を見ていたとき、スギヤードが突然言った。
「お前、失敗を怖がっているな」
ユーダは驚いた。
「僕が、ですか?」
「そうだ。毎回、自分が一番危ない場所へ出ようとしている」
「守護騎士ですから」
「それだけじゃない」
スギヤードは少し考えた。
「お前、誰かが倒れるのが嫌なんだろう」
ユーダは言葉に詰まった。
それは昔からだった。
自分が弱かった頃、仲間が倒れる場面を何度も見た。盾を持ち始めたのも、そんな場面で何もできなかったからだった。
「……嫌です」
ユーダは素直に言った。
「だから先回りしたくなります」
「それは悪くない」
スギヤードは頷いた。
「でも、俺は危険なところで術を撃つためにここにいる」
ユーダは顔を上げた。
「俺の危険を全部消したら、できる仕事も減る。守ってほしいところと、放っておいてほしいところがある」
その言葉は、ユーダにとって新鮮だった。
守ることは、すべての危険を取り除くことではない。
相手が選んだ危険を、必要なだけ背負えるようにすることだ。
「……分かりました」
ユーダはゆっくり頷いた。
「次から、撃ちたい場所を先に聞きます」
「そうしてくれ」
スギヤードは少しだけ口角を上げた。
「その方が、俺も強くなれる」
◇
帝国の街で、ユーダは一度だけ、自分の移籍を揶揄する声を聞いた。
露店で買い物をしていたとき、背後の男が言った。
「王国は、あいつを持て余していたんだろ」
「強い盾の使い手らしいが、結局、若い奴に追い越されたんじゃないか」
ユーダは何
ここまで読んで、何かに気づいた方もいらっしゃるかもしれません。
偶然です。
たぶん。
関係各所から怒られたら消します。




