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Bureau of Anomalies

作者: カズハ
掲載日:2026/10/03

 午前零時を告げる筈のデジタル時計の電光が、突如として禍々しい深紫色のノイズへとかき消された。

 東京の某巨大副都心エリア。高層ビル群の窓明かりがまるで一斉に息を潜める様に消え失せ、アスファルトの路面には、いつの間にやら泥をすり潰した様な澱んだ黄昏色の霧が這い回っていた。

 空間の境界が軋む、耳鳴りの様な重低音が響き渡り、現実世界から切り離されたドーム状の閉鎖空間・黄昏結界が完成する。

「……始まったわね……時計の針は完全に逆転、外部との通信回線も全て遮断されたわ。」

 暗がりの一角、ビルの屋上の室外機に腰掛けた風見雪乃は、手元の複数のタブレット端末から放たれる青白い光をその双眸に反射させながら、冷ややかに呟いた。彼女の周囲には無数のデジタル窓が浮遊し、幾何学的な算木模様の呪文がリアルタイムでコードの奔流へと書き換えられていく。

「想定通りの黄昏結界よ――都市の龍脈が逆流し始めてる。敵の狙いはこの空間の中心、嘗ての中央広場に構築された巨大な怨嗟の祭壇ね」

「ふーん、相変わらず厄介な景色にしてくれるじゃない。折角の綺麗なネオン街が、すっかりドブ川の色だわ」

 雪乃の直ぐ傍らで、花村雅が鮮やかな朱色のスプレー缶を片手に、シャカシャカとリズミカルな音を鳴らした。和洋折衷のラフな衣装にインナーの暖色系メッシュが妖しく揺れる。彼女の足元には、既にに対怪異用の防壁を兼ねた鮮烈な結界が描かれ、微弱な風の魔力が其の線を伝って周囲へと波及していた。

「ねえ、雪乃――あそこの高架下、見てごらんよ。凄く流行りに乗り遅れた子達が待ってるみたいだからさ」

 雅が顎でしゃくった先、黄昏の闇が濃くなる大通りには、群れをなして彷徨う現代怪異達の姿があった。SNSのバズワードや承認欲求の残骸を纏い、顔の代わりにスマートフォンの画面がめり込んだ異形の群れが、けたたましい電子音のノイズを上げながら、此方へじりじりと這い寄ってくる。

「……承認欲求の化け物ども。いいねの数だけ膨れ上がるなんて、実に悪趣味なバグデータね。あたしの計算では、あいつらの処理に時間はかからないけれど……」

 雪乃が冷ややかな視線を向けたその時、冷え切った大気を切り裂くように、凛とした声が響いた。

「其処迄よ。雑魚の相手に時間を割く必要はありません」

 闇を縫う様にして降り立ったのは、白と深紺の特製的和装に身を包んだ白雪玲だった。足元まで届く美しい銀髪が、黄昏の微風にサラリと揺れる。背筋は何処迄も真っ直ぐに伸び、其の双眸には一分の隙もない冷徹な決意が宿っていた。

 玲がゆっくりと腰の抜刀構えをとる。その瞬間、彼女の刀身から溢れ出した純白の霊力が、周囲の空気を一瞬にして絶対零度の世界へと引きずり込んだ。

「――白露極光・零式。」

 玲が静かに一太刀を振るう。炸裂音すらない。

 只絶対的な冷気が奔流となって駆け抜けた瞬間、押し寄せていた数多の現代怪異たちは、其の身に纏うノイズや悪意ごと文字通り凍結された。足の踏み場もない程に広がっていた群れは、一瞬にして銀世界を彩る脆い氷柱へと変貌し、音もなく砕け散っていく。

「ふう……流石だね、玲。一刀両断ってやつはいつ見ても芸術的さ。ほら、そんなに気を張ると、また心の温度まで凍っちゃうよ?」

 雅が軽口を叩きながら、スプレー缶を宙に放り投げる。彼女が空中でそれをキャッチした瞬間、風の潮流が彼女の意思を捉えた。

「アタシ達の番だね。風花彩画・舞踊!」

 雅が描いた極彩色の鳥や式紙達が、風の奔流に乗って夜空へと舞い上がった。その軌跡は鮮やかな光の尾を引き、結界のあちこちに潜む敵の視界を眩ませ、広範囲の幻惑で怪異の動きを完全に封じ込める。雅が心から楽しげに笑い、舞う様に戦場を駆け抜ける度、風は彼女の味方となり、戦場は鮮やかな色彩の嵐に包まれていった。

「前衛の二人が暴れている間に、こっちはルートを確保するわよ」

 雪乃はタブレットを叩き乍ら、敵の黒幕が張った防壁のセキュリティを次々とハッキングしていく。

「黄昏の識者ども……昔の同僚風情が、あたしの構築した防壁を抜けられると思った?――全プロセス、強制終了(バグ・アウト)させるわ」

 雪乃の指先が鮮やかに光り、敵が仕掛けた呪術的ハッキングの罠を瞬時に逆探知、無力化する。前線の筋肉と直感が切り開いた道に、雪乃の完璧な観測眼が正確なセーフティネットを張り巡らせる。三人の息の合ったコンビネーションは、どんな複雑なオカルトテロの防壁をも確実に無効化していた。

 然し事件の黒幕である夜行顕現会の執念もまた、此処で潰える訳ではなかった。結界の中心部、嘗ての広場に聳え立つ巨大なビル群が、突如としてドロドロとした血肉とネオンの光を混ぜ合わせた様な禍々しい姿へと変貌を遂げる。

『……便利さと引き換えに、人間性をすり潰された現代社会の何が美しいというのだ。我々の怨嗟こそが、この腐った都市の真実の姿だ!』

空間を揺るがす様な重低音と共に現れたのは、雅の能力のダークミラー――虚飾の獣だ。それは街中の宣伝広告や歪んだ承認欲求の塊が実体化したものであり、禍々しいネオンの光と血のような色彩を撒き散らし乍ら、圧倒的な質量で三人の前に立ちはだかった。

「あれが、今回のテロの核……!」

 雅が僅かに眉を潜めた。その怪物は、かつて雅自身が否定されかけた型にハマった生き様や、見栄と虚飾の澱其の物を形にした様な悍ましさを放っていた。怪物が振るう鮮血色の爪が、空間ごと周囲の色彩を塗りつぶしていく。

「雅、気負わないでください。貴女の描く風は、そんなものの為にある訳ではありません」

 玲がすっと雅の前に一歩踏み出し、冷徹な刃を構え直した。その横顔には、仲間を背負う強い意志と、わずかに漂う孤独な影が同居している。

「私達は、人々の日常を護る為に此処にいます。古いしきたりも、歪んだ現代の怨念も、私達の刃と風と計算が全て断ち切るのみです」

「……そうだね、玲の言う通りさ。アタシが描くのは、誰かの為の檻じゃない……何時だって、此の風が選ぶ自由な景色だ!」

 雅の瞳に鮮やかな闘志の炎が灯る。雪乃もまた、手元の端末を力強く叩き乍ら冷徹に微笑んだ。

「データ上の演算は完了しているわ。弱点は核心のコア――さあ、一気にハジキ出すわよ!」

 三人の霊力、風の魔力、電脳の観測眼が一つに重なり合う。其々の役割を背負い、夜の闇を切り裂く彼女達の戦いは、いよいよ黄昏の都市の深部へと突入していく。


 虚飾の獣が放つ鮮血色のネオン光波が、周囲のビル群の壁面を溶かす様にしてうねりを上げて迫り来る。現代人の孤独と承認欲求の澱が凝縮されたその怪物は、まるで嘲笑うかの様に甲高い電子音の咆哮を轟かせる。

「データ解析終了。あの怪物の核は、胸部に埋め込まれた巨大なプラズマ・ネオンサインの基盤よ。そこに流れ込んでいる霊脈の逆流現象を、あたしの算木術でピンポイントにハッキングしてショートさせるわ」

 雪乃はタブレットを叩き乍ら、冷徹な声でチームの二人に指示を飛ばした。彼女の周囲に展開された無数の量子コンピューターの仮想ディスプレイが、青白い光を明滅させながら怪物の構造データを次々と解析・解剖していく。

「任せてよ雪乃!あんな趣味の悪い広告塔、アタシの風できれいに上塗りして剥がしてあげるんだから!」

 雅はスプレー缶を投げ上げ、空中でキャッチした瞬間にその中身を豪快に霧散させた。彼女が放つ風花彩画・舞踊の潮流は、彼女自身の感情の昂ぶりと自由を愛する純粋な魂が、無数の極彩色の式紙や鳥の群れへと姿を変え、鮮血色の獣の巨体を一気に包み込んでいく。

 雅の描く色彩の嵐が怪物の視界と機動力を完全に奪い、狂ったように暴れるネオンの腕を空中で絡め取った。その絶妙な隙間を見逃す雪乃ではない。雪乃が指先で空中に幾何学的なコードを走らせると、怪物の内部システムに致命的なバグデータが直接叩き込まれ、獣の動きがガクンと硬直した。

「――今です。」

 その瞬間を、白雪玲が逃す筈がなかった。雅が作り出した風の道標と、雪乃が切り開いたデータの隙間。其処へ滑り込むように、玲の細い体躯が鋭く踏み込む。足元まで届く美しい銀髪が絶対零度の冷気に逆巻く。彼女の纏う純白の霊力は、戦場の空気を一瞬にして凍りつかせ、幾重にも重なる軌跡を描き出した。

「一族の誇りも、この刃の行き着く先も……迷いなど、初めからない!」

 玲が静かに、だが一切の容赦なく刀を振り抜く。炸裂したのは、音すらも凍てつく絶対零度の閃光だ。虚飾の獣の巨体は、その中心から文字通り結晶化し、微小な氷の粒子となって虚空へと崩れ去っていく。怪物が纏っていた承認欲求のノイズも、歪んだルサンチマンの叫びも、玲の冷徹な一太刀の前に完全な沈黙へと追いやられた。

 獣の消滅と共に、周囲を覆っていた黄昏結界のドームに幾筋もの亀裂が走り、逆転していた時計の針が本来の現実へとパキリと音を立てて戻り始める。副都心のビル群には再び現代の温かな、然し何処か人工的な街の明かりが灯り、日常の喧騒が戻ってきた。

 戦闘の余韻が静まる中、誰もいないビルの陰で、玲はこっそりと懐から極秘ファイリングされた全国各地の名産和菓子リストを取り出し、周囲に誰もいない事を確認してから、大福の包みを素早く、しかし真剣な眼差しで開けていた。脳を酷使したリカバリーのための論理的糖分補給という名の、彼女だけの密かな癒やしの時間である。

「……っ、ふふ。玲、相変わらず任務の後の大福は格別って顔してるじゃないか」

 いつの間にか背後に回っていた雅が、ニヤニヤとした笑みを浮かべ乍らひょっこり顔を覗かせる。雪乃もまた、タブレットを片手に呆れた様な、其れでいて深い信頼を湛えた冷ややかな視線を向けていた。

「……これは、戦闘後の冷静な精神状態を維持する為の合理的な糖分補給です。貴女達に隠し事などしていません」

 玲は少しだけ頬を朱に染めながらも、凛とした神職の仮面を必死に繕い、きっぱりと言い放つ。その不器用な姿に、雅と雪乃は顔を見合わせ、自然と楽しげな笑い声を響かせた。






 黄昏結界が完全に霧散し、現実の東京の夜景が戻ったのも束の間、風見雪乃の手元のタブレット端末が一斉に不吉なアラート音を鳴り響かせた。青い発光ダイオードの光をその目に受けて、雪乃の細い眉が険しくひそめられる。

「……甘い顔をするのは其処迄よ。結界のコアが消えたのは、あくまで表面上の欺瞞が剥がれたに過ぎないわ」

 雪乃の冷徹な声に、大福を口に放り込んだばかりの白雪玲は瞬時に表情を引き締め、神職としての鋭い気高さを纏い直した。雅もまた、朱色のスプレー缶を握り直して表情を和らげる。

「どういう事、雪乃?」

「ネットワークの深層ログを逆探知して分かったのよ。」

 今回のオカルトテロを裏で糸引いてた黄昏の識者――元国立電脳研究所の主任研究員であり、現在は夜行顕現会の最高脳髄とされる男、桐生 蓮が此の副都心の地下深くに眠る大地の龍脈の根幹其の物を直接ハッキングし、都市全域を永遠の黄昏に閉じ込める最終プロセスを起動させたのだ。

 雪乃が画面に映し出した地下配管網と古代霊脈の複合マップには、幾重もの赤い警告シグナルが点滅している。桐生蓮という男は、嘗て雪乃や他の優秀な研究者達と同じ学舎で学び乍らも、急速なデジタル化と利便性の中で切り捨てられていく人間の尊厳や伝統に絶望し、全ての現代文明を呪詛のデータで上書きして神代への回帰を目論む危険極まりないテロリストだった。雪乃の思考パターンや呪術的観測の癖すらも完全に把握している、最も厄介な宿敵である。

「あたし達の行動や、雪乃のハッキングの癖すらも読んだ上で、罠を二重に張り巡らせていたって訳かい。如何にも頭でっかちな元エリートらしい、嫌味なやり方だね」

 雅が軽口を叩きながらも、その瞳には鋭い洞察の光が宿っていた。

「行きますよ。地下の龍脈中枢を制圧されれば、此の都市は二度と元の朝を迎える事はできません……一族の誇りと、私達が護るべき人々の日常の為に、あんな狂気は此処で断ち切ります」

 玲が銀髪を揺らし乍ら凛と告げ、地下鉄のメンテナンス用保守ハッチへと迷うことなく歩みを進めた。三人が地下深くの巨大な地下祭壇へと足を踏み入れた時、其処は既に現実の空間とは乖離した、異様な光景に支配されていた。

 むき出しのコンクリートの壁面に、古代の呪術文字と最先端の光ファイバーケーブルがグロテスクに絡み合い、その中央の祭壇には、無数のモニターディスプレイに囲まれた男――桐生蓮が冷笑を浮かべて立っていた。

『よくここまで辿り着いたな、風見。そして、特務対怪異防衛局の狗どもよ』

 桐生の声が、地下空間に設置された無数のスピーカーと、空間を直接震わせる呪言によって重層的に響き渡る。彼の周囲には、雪乃の解析手法を逆手に取って構築されたファイアウォールが、青白いノイズの障壁となって立ち塞がっていた。

『お前達が護ろうとしている此の社会は、人間から温もりを奪い、効率という名の歯車に変えただけの冷たい檻だ。私はこの都市のシステム全てを古代の霊脈に同期させ、人間を本来の神聖な怪異へと昇華させてやるのだよ。お前の電脳算木ごときで、私の構築した多重呪術アルゴリズムを突破できるかな?』

 桐生が指先を走らせると、雪乃のタブレットが激しい高熱を発し、黒煙を上げてショートしかけた。雪乃の額に一筋の冷や汗が伝う。相手は雪乃のコードの癖を完全に読み切り、逆に彼女の端末を攻撃の踏み台にしようとしていたのだ。

「……っ、流石ね、元指導員サマ……あたしの思考ルーチンを完全にハッキングの餌食にする気?……だけどね、甘いわよ?他人の過去のデータに縋りついてるだけの男に、今のあたし達の絆の計算式が解ける訳ないでしょ!」

 雪乃は怯むどころか、冷徹な笑みを浮かべながら自らの端末のメイン回路を自ら切り離し、代わりに前線の二人へとダイレクトな同期信号を送った。

「玲、雅!あいつの結界の構造は全て解析したわ!データの裏をかく最大の隙間は、あいつの足元――古代の算木陣の中心よ!」

「任せなよ!其の隙間、アタシが綺麗な風で真っ二つにこじ開けてやる!」

 雅が跳躍し、極彩色の式紙と風の言霊を纏ったスプレーの軌跡を一気に爆発させた。風花彩画・舞踊の真骨頂である広範囲の幻惑と嵐が、桐生の周囲を取り巻いていた電脳ファイアウォールを激しく揺さぶり、その堅固な防御にぽっかりと巨大な風穴を開ける。

『なに……!?予測外の軌道だと……!』

 桐生の顔に初めて動揺の色が走った。

「その隙、逃しません」

 静寂。空間の全ての熱量が、一瞬にして消失した。白雪玲が放った白露極光・零式は、最早剣技の枠を超え、冷徹な迄の神威そのものとなって地下空間を奔走した。桐生が張り巡らせた全ての呪術コードと防壁が、絶対零度の閃光の前に一瞬で凍結し、粉々に砕け散っていく。玲の瞳には迷いの欠片もなく、ただ人々の日常を護り抜くという揺るぎない信念だけが輝いていた。

「此れが……私達の、護るべき日常の重みです!」

 玲の一太刀が桐生の足元の祭壇を正確に両断した瞬間、地下を逆流していた龍脈の濁流がピタリと止まり、本来の清らかな流れへと押し戻されていった。暴走していたモニター群が一斉にシャットダウンし、静寂が戻ってくる。

 戦いが終わり、緊張の糸が解けた地下通路の隅。玲は誰もいない事を確認すると、再び懐からあの極秘ファイルを取り出し、密かに大福の包みをそっと開けていた。その口元に広がる僅かな笑みを、雅と雪乃は少し離れた場所から温かい、何処か呆れた様な視線で見守っている。






 地下祭壇の喧騒が嘘の様に静まり返り、モニターの消えた無機質な空間に、微かな機械の冷却音だけが残された。暴走していた龍脈の濁流は完全に鎮まり、東京の地下深くに張り巡らされた古代の霊脈は、本来の穏やかな脈動を取り戻しつつあった。

 中央の祭壇で崩れ落ちた桐生蓮の端末群から、最後のセキュリティログが淡い青色の光となって霧散していく。雪乃は手元のタブレットを片手で軽く放り投げる様に持ち替え、冷ややかな瞳の奥に確かな安堵の色を浮かべた。

「……ふん、過去の亡霊にしがみついた男の末路なんて、所詮はそんなものよ。あたし達の進化スピードを読み違えた時点で、あいつの負けは決まっていたわ」

 雪乃が冷ややかに言い放つと、傍らで朱色のスプレー缶を軽く指先で回していた雅が、楽しげにフッと笑った。

「お疲れさん、雪乃。頭脳戦で相手を完封するなんて、相変わらず冷徹で格好良いじゃないか。あんな堅苦しいおじさんの相手をさせられたんだから、後でたっぷり甘いものでもご馳走して貰いなよ」

「……誰が甘いものよ。あたしは別に、そんなものに興味はないわ。ただ、合理的なデータ処理をしただけよ」

 雪乃は僅かに頬を赤らめつつ、ツンとした態度でそっぽを向いた。その微笑ましいやり取りを眺め乍ら、白雪玲はスッと背筋を伸ばし、特製的和装の乱れを整えた。地下の冷たい空気が、地上から吹き抜けてくる夜風によって少しずつ入れ替わっていく。

「今回の任務、お疲れ様でした。雅、雪乃、貴女達の働きがなければ、この都市の日常を護り抜く事はできませんでした」

 玲の声音には、何時もの厳格な神職としての気高さだけでなく、仲間に対する深い信頼と温かみが確りと宿っていた。

「おや、玲が素直にそんな事を言うなんて珍しいね。ま、アタシ達の息がぴったりだったからこそ、華麗に風穴を開けられたって訳さ!」

雅が快活に笑い乍ら、玲の肩を気負いなく軽く叩く。玲は少しだけ面食らったような顔をした後、微かに口元を緩めて頷いた。

「さて、と。」

全員の緊張が完全に解けたその瞬間、地下通路の物陰で、玲の視線がふと虚空を泳いだ。誰もいない事を入念に確認し、他の二人から少しだけ距離を取ると、玲は懐に忍ばせていたあの極秘ファイルと、任務前に買っておいた和菓子の包みをそっと取り出した。今度こそ完璧なタイミングだ、と玲は心の中で小さく息を整える。

 シャカ、と包み紙を剥がす上品な音が、静かな地下通路にわずかに響いた。中から現れたのは、ずっしりと重みのある極上の大福――全国各地の名産リストから厳選された、甘さ控えめの餡が詰まった至高の一品である。脳の限界まで酷使した戦闘のリカバリー、そして精神の均衡を保つ為の絶対不可欠な論理的糖分補給。玲が真剣な眼差しで大福にそっと視線を落とし、正にそれを口へと運ぼうとした、その時だ。

「――ねえ、玲。さっきから思ってたんだけどさ、その戦闘後の冷静な、精神状態を維持するための合理的な糖分補給とやらは、一体何時迄隠し通せるつもりな訳?」

 背後から、雅のニヤニヤとした楽しげな声が降ってきた。同時に、雪乃もタブレットの画面をパチンと消し、呆れた様な其れでいて誂う様な視線を向けて近づいてくる。

「……っ!?」

 玲の美しい銀髪が驚きで僅かに跳ね、手に持っていた大福が危うく落下しかけた。玲は瞬時に慌ててそれを持ち直し、神職としての気高い仮面を取り繕おうと必死に咳払う。

「な、何を言っているのですか、雅。これは任務の遂行にあたっての厳密なリカバリー計画の一環であり、私的な嗜好品などでは――」

「はいはい、極秘ファイルに全国の大福マップがびっしりファイリングされている件についての論理的説明も、ぜひ後でたっぷり聞かせて貰うわね。データの証拠はこっちにもバッチリ残ってるんだから」

 雪乃がタブレットの画面をひょいと見せびらかす様に突きつけると、其処には確りと玲の隠しファイルの表紙データがシュールに映し出されていた。玲の顔が一気に真っ赤に染まる。何時もは冷徹で、誰よりも隙のない特務防衛官であり白雪神社の継承者である彼女が、此の時ばかりは完全に言い逃れのできない窮地に立たされていた。

「……もう、貴女達は……。」

玲が小さく溜息をつき乍らも、何処か嬉しそうな、そして肩の力が抜けた様な柔らかな笑みを零した。古いしきたりや因習、そして国家の裏に巣食う巨大な怨念やオカルトテロ。彼女たちが背負っている運命や役割は、決して生易しいものではない。戸籍すら持たず、命を落とせば記録から消える無籍者(ゴースト)としての過酷な日常。それでも、この冷たい夜の向こう側には、護るべき人々の温かな日常が確かに存在している。






 地下の暗がりから地上へと通じる階段を登りきると、其処には既に夜の帳が完全に上がり、東京の空に眩いばかりの朝陽が差し込んでいた。逆転していた時計の針は正しく刻み始め、ビル群のガラス窓が黄金色の光を受けて眩しく煌めいている。特異現象対策室の非公式任務が完了した事を示す様に、冷え切った大気はすっかり洗い流され、人々の営みが戻りつつある穏やかな朝の気配が世界を満たしていた。

「ふう……やっと地上に戻ってきたわね。あの地下のジメジメした算木陣の臭い、早くシャワーで洗い流したい所だわ」

 雪乃はタブレットを片手で軽やかに閉じ、眩しそうに細めた瞳の奥に確かな安堵の光を宿しながら伸びをした。其の足元では、嘗てのデジタルと呪術が複雑に絡み合った疲労の影は既に消え去り、いつものクールな天才解析官の佇まいへと戻っている。

「本当にお疲れ様、雪乃!いやあ、一時はどうなるかと思ったけど、アタシ達の風と玲の絶対零度、そして雪乃の電脳ハッキングが見事に噛み合った最高の一幕だったね!」

 雅は朱色のスプレー缶を専用のベルトにカチリと収めると、快活に笑い乍ら両手を大きく広げて朝の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。彼女の髪に混じる暖色系のインナーカラーが、朝日を浴びて鮮やかに輝いている。型にハマらない自由を愛する彼女にとって、この日常の風景を守り抜いたという手応えは、何よりも誇らしく尊いものだ。

 二人のやり取りを少し離れた場所から見つめ乍ら、白雪玲はスッと背筋を伸ばし、特製的和装の裾を整えた。その銀髪のロングヘアが朝の微風に美しく揺れる。

「……私達の誇りは、社に籠って神に祈る事ではありません。この手で、人々の日常を護り抜く事――今日も、その誓いを違えることなく果たせました」

 玲が静かに、だが力強く呟くと、雅と雪乃はふっと表情を和らげ、温かな笑みを向けた。だが其の直後である。玲のお腹のあたりから、戦場の緊張感では誤魔化しきれなかった「キュルル……」という何とも上品で控えめな音が、静かな朝の空気に響き渡った。

「…………っ!」

 玲の美しい顔立ちが、一瞬にして見事な迄に真っ赤に染まる。極限まで脳と霊力を酷使し、世界を救う為に絶対零度の剣技を振るい続けた代償は彼女の肉体、とりわけ糖分を欲する脳髄に正直なアラートを鳴らしていたのだ。神職としての気高さも、隙のないリーダーとしての威厳も、この瞬く間に崩れ去りそうなほどの空腹感の前には微力だ。

「あははっ!玲、盛大に可愛い音が鳴ったじゃないか!」

 雅が此処ぞとばかりに誂う様な笑みを浮かべ、バシバシと玲の肩を叩く。雪乃もまた、タブレットの画面をチラリと覗き見せ乍ら、悪戯っぽい冷ややかな笑みを向けた。

「そうよ?ほら、さっきの地下道で隠し通そうとしてた全国名産大福リストのファイル、そろそろ日の目を見せてあげるべきだわ。データ的にも、今の玲の血糖値は危険水域よ」

「うっ……貴女達……。」

 言い訳の言葉を失った玲は、少しだけ頬を膨らませる様にして俯いたが、ふっと観念した様に息を吐き、そして柔らかく、心からの美しい笑みを零した。何時も一人で全てを背負い、冷徹な仮面を纏い続けていた彼女が、この二人の前で見せる初めての、飾らない素直な笑顔だ。

「……仕方がありません。今日の所は、私の一人負けですね」

 玲は白装束の懐から、あの極秘ファイリングされた全国各地の名産和菓子リストを観念した様に取り出し、その中から慎重に選りすぐった最高峰の特製いちご大福の包みを取り出した。朝陽を浴びるビルの屋上で、三人は並んで腰を下ろす。

 包み紙がシャカリと心地よい音を立てて剥がされ、甘酸っぱく芳醇な香りがふわりと広がる。玲が一口かじると、極上の餡の甘さと瑞々しい苺の酸味が、酷使した脳と神経を優しく包み込み、心地よい温もりが全身へと染み渡っていく。

「ん……美味しい、です。」

 そのあまりの幸福そうな表情に、雅と雪乃は顔を見合わせ、声を上げて楽しそうに笑い合った。明日になればまた、新たな都市伝説や怪異が彼女達の平穏を脅かしにやってくるかもしれない。それでも此の温かな朝陽の中で、信頼できる仲間と共にお気に入りの甘味を頬張るこの瞬間だけは、何者にも代えがたい本物の日常だった。

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