男性デザイナーの「ひらめき」を優先した婚約者に新居を十九回もやり直されたので婚約を解消したら、彼女は式当日も僕が待っていると思っていた
1.十九回目のやり直し
駅の近くにある中古マンションを、僕が購入したのは五年前だった。築三十年近い3LDKで、婚約者の水城美咲と相談し、古い内装をすべて撤去してフルリノベーションすることにした。当初の工期は、長くても一年の予定だった。
ところが五年が過ぎた今、設計案は十八回も変更され、施工会社は十九回目のやり直しに付き合わされていた。
着工前には、管理規約に従って管理組合の理事長へ工事申請書や図面、工程表、資材搬入計画を提出し、理事会の承認も得ていた。有資格者によるアスベストの事前調査も済ませている。構造躯体や共用配管には手を加えず、変更できるのは専有部分の非耐力間仕切り壁だけだった。
それでも工事は、何度も止まり、壊され、やり直された。
そして今日、ようやく引き渡し前の施主検査を迎えた。
両家の両親も来ていた。母はリビングに腰を下ろし、深い青色のベルベットの箱を膝元に置いている。中には、祖母が結婚したときに身につけた真珠のネックレスが入っていた。
検査が終わったら、美咲に渡すつもりだったのだろう。
父は数か月前に心臓の手術を受けたばかりで、まだ顔色が少し悪かった。それでも自分の足で新しいフローリングの上に立ち、秋の三連休に予定している結婚式の準備はどうなっているのかと、うれしそうに聞いてきた。
僕が答えようとしたとき、洗面室から短い声が上がった。
美咲が、水栓の製品ラベルを手にして出てくる。その後ろでは、佐伯蓮が眼鏡を押し上げ、到底見過ごせない欠陥を見つけたような顔をしていた。
「悠真、この水栓、イギリス本国で作られたものじゃないわ」
現場監督がすぐにラベルを受け取り、発注確認書を開いた。
「イギリスのブランドが、日本の正規代理店を通して販売している国内仕様の製品です。外観も主要部品も同等で、接続部分も日本の住宅設備基準に適合しています。発注確認書には高瀬様のご署名もあります」
美咲の眉間の皺は消えなかった。視線は製品ラベルに張りついたままだ。
「私が指定したのは、イギリスの工場で作られた本国仕様よ」
「本国仕様は日本の配管規格と合いません。取りつけるには変換部品を特注する必要があり、メーカー保証の対象外になる可能性もあります。今から発注すれば、納期は十か月以上先です」
佐伯はラベルを洗面台へ戻した。口調は穏やかだったが、施工側に検討の余地を与える気はないらしい。
「完成されたデザインというものは、最後の細部で妥協してはいけません。もう五年もかけたんです。あと一年くらい待ってもいいでしょう」
美咲はほとんど迷わず、うなずいた。
「交換してください。追加費用と工期延長分は、契約に沿って精算します」
彼女は「私たち」と言った。
けれど、この五年間、追加のデザイン料も資材費も、工事を止めたことで生じた費用も、ほとんど僕が払ってきた。
現場監督がこちらを見る。最終判断を待っているのは明らかだった。僕は書類に署名せず、現状のまま保留し、正式な書面指示があるまで動かないよう伝えた。
母の表情はすでに険しくなっていた。ベルベットの箱を鞄へ戻す指先に力が入っている。
「また佐伯さんの案なの?」
美咲の両親までこちらを見たため、僕は声を落とした。
「母さん、今日はやめてくれ」
両家の親がそろっているにもかかわらず、美咲は周囲の空気に気づいていなかった。佐伯と洗面室の入口に立ち、金属表面の光沢や鏡前照明の角度、壁面をすべて解体し直すかどうかを話し合っている。
佐伯は、リノベーション会社と業務提携しているフリーのインテリアデザイナーだった。ロンドンで空間デザインを学んだと称しており、当初の契約では内装のコンセプトと家具配置だけを担当するはずだった。
間仕切りや電気配線、給排水設備に関わる変更は、施工会社の建築士や設備担当者、現場監督の確認を経なければならない。
それでも美咲は、あらゆる工程に佐伯を関わらせた。
この家について、自分を本当に理解してくれるのは蓮だけだと、彼女はいつも言っていた。床材の木目からドアノブの重さ、家具の生地、さらには結婚式会場のビジュアルまで、すべてが二人の「作品」になっていった。
施主検査は、結論を出さないまま終わった。
先に帰る両親たちを駐車場まで送ると、母が僕の手首をつかんだ。ずっと飲み込んでいた言葉を、もう抑えられないようだった。
「美咲さんとあの人、普通の依頼主とデザイナーには見えないわ。あなたも、いつまで見て見ぬふりをするつもり?」
「分かってる」
母は目を見開いた。僕がとっくに気づいていたとは思わなかったのだろう。
父は責めることもなく、ただ僕の肩を軽く叩いた。
「結婚式のことは、俺たちのために無理をするな。体調は落ち着いている。延期でも中止でも、気にしなくていい」
手術後も痩せたままの父を見つめると、胸の奥に重いものが沈んだ。
まだ自分の足で式に出られるうちに、僕が家庭を持つところを見せる。そう約束していた。
仮住まいの賃貸マンションへ戻る車内で、美咲はずっと佐伯とメッセージを交わしていた。夕方の道路は渋滞し、赤いテールランプがどこまでも連なっている。車内には通知音だけが何度も響いた。
しばらくして、彼女はようやくスマートフォンを置き、僕の肩にもたれかかった。
「今日は蓮がいてくれて本当によかった。あのまま入居していたら、ずっと気づかなかったかもしれないもの」
僕はハンドルを握ったまま返事をしなかった。規則正しいウインカーの音だけが続く。
「これから何十年も暮らす家なのよ。後悔の残るものにはしたくないでしょう? 友達を招いたとき、妥協だらけの部屋を見せたいとは思わないでしょ」
「父さんの体調は、美咲が思っているほど良くない」
美咲は僕の肩から離れ、ゆっくりと座り直した。
「だから?」
「今年中に式を挙げるって約束した」
「それは悠真とお父さんの約束でしょう? どうして私に相談する前に決めたの。家が完成していないのに、結婚式だけ先にできるわけがないじゃない」
「ホテルの宴会担当とも、招待客とも、当日の料理とも、全部確認が済んでる」
「そんなものは変更できるわ。結婚は一生のことよ。日付のために完成度を下げる必要なんてないでしょう」
美咲は再びスマートフォンを手に取った。画面には佐伯から送られてきた新しい完成予想図が表示されている。
五年前、彼女が「完璧な家を作りたい」と言ったとき、僕は未来への素直な期待だと思っていた。
けれど今なら分かる。
彼女が望んでいたのは、二人が暮らす家ではない。他人に見せるための作品だった。
車を仮住まいのマンション前に止めると、美咲はシートベルトを外した。いつものように身を寄せ、僕の頬へ口づけようとする。
僕は顔をそらした。
彼女の動きが途中で止まった。
「どうしたの?」
「疲れたんだ、美咲」
しばらく黙っていた美咲は、僕の襟元を整えた。
「リノベーションは気疲れするものね。今日は早く休んで。蓮がまた新しい案を思いついたらしいから、私はアトリエに寄って確認してくる」
僕はドアを開けて車を降りた。
もう遅い時間だとも、何時に戻るのかとも聞かなかった。テールランプはほどなく交差点の向こうへ消えた。
2.婚約は、ここまで
部屋に戻ったあと、僕は一人で長いことリビングに座っていた。
書斎の一番下の引き出しには、五年前に描いた最初の間取り図が残っている。あの頃はまだ佐伯もいなければ、十八回の修正もなかった。
美咲と違う色のペンを使い、二人で空間を分けた。彼女は日当たりのいい場所にウォークインクローゼットを欲しがり、僕は部屋の隅にパソコンを置ける長机を描いた。
図面の下には、二人の名前が並んでいる。
『共同設計――高瀬悠真、水城美咲』
その横には、当時の僕が書いた一文も残っていた。
『帰ってこられる場所にしよう』
机の上でスマートフォンが震え、美咲からビデオ通話がかかってきた。
画面がつながると、彼女は興奮した様子でカメラを佐伯のパソコンへ向けた。新しい完成予想図では、洗面室の壁面がすべて変更されている。
「水栓だけ交換したら全体のバランスが崩れるって、蓮が言うの。洗面台とタイルも全部やり直したほうが、本国仕様のパーツが生きるんだって」
「あと、どれくらい壊すつもりなんだ?」
「工期はもう一度計算してもらう。でも、今よりずっとよくなるから」
僕は古い図面を丁寧に折り直し、引き出しへ戻した。
「美咲。婚約を解消しよう」
画面の向こうが数秒、静かになった。
美咲は隣にいる佐伯を見てから、スマートフォンを顔の近くへ寄せた。本気で言っているのか確かめようとしているようだった。
「まだ水栓のことで怒ってるの?」
「水栓だけの話じゃない」
「疲れているときに大事なことを決めないで。落ち着いてから、また話しましょう」
「もう十分考えた。五年間、延期されるたびに、次が最後だって自分に言い聞かせてきた。でも美咲が完成させたいのは作品で、僕が欲しいのは暮らしだ。最初から、見ていたものが違ったんだと思う」
彼女の笑みが少しずつ消えていった。
「そんなことを言って、私にデザインを諦めさせたいの?」
「もう何かを諦めろとは言わない。婚約を解消すると決めた」
「来月の結婚式は?」
「式は中止する。ただ、ホテルの会場と食事は残す。両家の親にも連絡するし、当日は招待した人たちにも、僕から婚約解消を申し出たと説明する」
式まで一か月を切っていた。今から取り消しても、会場費と料理代の大半はキャンセル料として発生する。遠方の親戚の中には、新幹線や宿をすでに手配している人もいた。
両親と相談し、婚宴を親族や友人へのお詫びを兼ねた食事会へ変更する。それが、現実的な選択だった。
美咲は画面を見つめたまま、馬鹿げた冗談を聞いたような顔をした。
「親戚や友達をホテルに集めて、みんなの前で別れたって発表するの? 悠真、いつからそんな子どもみたいなことをするようになったの」
「みんな、その日のために予定を空けてくれた。父さんも、体調を整えてきた。美咲が直前で基準を変えるたびに、周りまで振り回されるのは、もう終わりにする」
「それで私が折れると思ってるの?」
「妥協させるつもりはない」
美咲は深く息を吸った。声から、最後に残っていた温度まで消えていく。
「あなたは何も分かっていない。最高のものが手に入らないと分かった途端に、簡単に諦める。だから悠真は、一生、平凡な暮らししかできないのよ」
「平凡な暮らしが、僕の欲しかったものなのかもしれない」
それ以上は言い返さず、通話を切った。
僕は婚約解消の意思を両家の親に伝え、美咲にも電子メールで改めて通知した。一時の感情で口にしたと思わせないためだった。
美咲の父親はすぐに電話をくれ、何度も謝ったが、娘をかばおうとはしなかった。
ホテルの担当者には、挙式を中止し、宴会場と料理を親族・友人向けの食事会へ変更すると説明した。追加装飾はすべて僕の書面承認を必要とし、第三者からの依頼だけでは費用を発生させないよう、改めて確認しておく。
すべてを終えた頃には、日付が変わりかけていた。
父からメッセージが届いた。
『美咲さんとは話せたか? 俺のために無理をするな。延期でも中止でも、母さんも俺も受け入れる』
画面の明かりが自動で暗くなるまで、僕はその文字を見つめていた。
『婚約を解消すると、本人にはっきり伝えました。ただ、当日の食事会は予定どおり行います。父さんは医者に言われたとおり休んでいてください。あとは僕がやります』
送信したあと、連絡先を開いた。
六年間、自分から連絡していなかった名前を探す。
白石紗季。
大学時代、僕たちは三年間付き合っていた。卒業を控えた頃、紗季は県外の総合病院から事務職として内定をもらい、僕は父が経営する住宅設備会社へ入ることを決めた。
父の会社は人手が足りず、僕は法人営業と工事日程の調整を担当することになっていた。お互いに相手の進路を諦めさせたくなくて、裏切りも大きな喧嘩もないまま別れた。
その数か月後、僕は美咲と知り合った。五年前に結婚を決めたとき、自分はもう過去を完全に手放したつもりだった。
今、僕が送ったのは短い一文だけだった。
『紗季、会えないか。謝りたいことがある』
返事が来たのは翌朝だった。挨拶も前置きもない。
『いいよ。でも、婚約を解消した後始末を誰かに押しつけたいだけなら、私は行かない』
その言葉は、昔と変わらずまっすぐだった。曖昧な関係を受け入れないところも、何も変わっていない。
『分かってる』
3. 中止しない食事会
その後の数日、美咲から連絡はなかった。
僕は親族や友人へ、予定していた挙式を中止し、同じ会場で食事会だけを行うと伝えた。驚かれはしたものの、父の顔を見に行くと言ってくれる人が多かった。感情的になっているのではないかと、遠回しに心配する人もいた。
僕は必要な予定だけを説明し、それ以上は語らなかった。
紗季と会ったのは、大学の近くに昔からある喫茶店だった。
短くなった髪に、ベージュのコート。向かいに座った紗季は、しばらく僕の顔を見てから、メニューを脇へ寄せた。
「昔より、ずいぶん疲れた顔をしてる」
「五年ぶりに会って、最初の一言がそれか?」
「事実だから」
婚約を解消したこと、新居の工事が五年も続いていること、予定していた式を食事会へ変更したこと。そのすべてを話した。
何度も妥協した自分のことも隠さず、美咲と佐伯だけに責任を押しつけることもしなかった。
「紗季と別れたあと、相手の理想に合わせ続ければ、関係はうまくいくと思ってた。でも本当は、また自分の選択が間違っていたと認めるのが怖かっただけなんだ」
紗季は黙って最後まで聞いた。誰かをすぐに責めることはしなかった。
「それで、当日、私に何をしてほしいの?」
「両親の近くに座っていてほしい。二人とも、今でも紗季のことを覚えてる。それから、直接謝りたかった。でも、誰かの代わりになってくれとは言わない」
「美咲さんに捨てられたから、私に連絡したの?」
「婚約の解消を申し出たのは僕だ」
目をそらさずに答えると、紗季はようやくコーヒーカップを持ち上げた。
「行く。ただし、友人としてね。私を使って美咲さんを刺激するようなことをしたら、その場で帰る」
「分かった」
食事会の四日前、美咲からようやく電話があった。
声は以前の落ち着きを取り戻していた。婚約解消を伝えたメールなど、最初から存在しなかったかのようだった。
「考えたんだけど、悠真のお父さんの体調が一番大事よね。日付は変えなくていいわ」
「ホテルには、挙式を中止すると伝えてある。当日は親族と友人の食事会だけだ。結婚式はしない」
美咲は聞こえなかったように、会場デザインの話を始めた。
自分がウェディングドレスを着てホテルへ行けば、僕は結局これまでと同じように折れる。そう信じているのだろう。
「今はまだ怒っているだけよ。完成した会場を見れば、私の選択が正しかったって分かる。新居が間に合わないなら、せめて式場だけは完璧にしなくちゃ」
電話の向こうが一瞬静かになり、すぐに続きが聞こえた。
「蓮が新しい案を思いついたの。ホテルの担当者の連絡先を教えて」
「教える。ただし、僕の書面承認がない追加発注を、ホテルは実行しない」
「まだ蓮を信用していないのね」
「契約管理の話だ」
担当者の連絡先を送り、佐伯には視覚的な提案権しかなく、僕の代理として変更契約や追加費用を承認する権限はないと、ホテル側へもう一度念を押した。
それから数日、美咲と佐伯は何度もホテルを訪れた。
宴会担当者から毎日送られてくる変更希望の一覧には、輸入花材への交換、背景布の再発注、照明の色温度変更、完成したばかりのステージ構造の撤去まで含まれていた。
僕はすべて却下し、当初の予算内でできる微調整だけを認めた。
食事会の前夜、紗季からメッセージが来た。
『明日は行く。もう一度だけ確認するけど、美咲さんには婚約を解消すると明確に伝えていて、決心は変わらないんだよね?』
『本人と両家の親に伝えてある。変えるつもりはない』
『それならいい』
スマートフォンを置いた。
翌日を迎えることが怖くないと思えたのは、初めてだった。
4.結婚式だったはずの日
秋の三連休初日は、よく晴れていた。
婚礼写真を使ったウェルカムボードはすでに撤去されている。ホテルの入口には、白と紺だけの簡素な案内板が置かれ、『高瀬家親族・友人食事会』と記されていた。
スタッフも入口に立ち、予定されていた挙式は中止になったと、到着した人たちへ説明している。
僕は濃紺のスーツで入口に立ち、一人ずつ頭を下げた。
父は予想以上に元気そうだった。母は終始表情をこわばらせていたが、父の隣で昔からの知人たちに挨拶をしている。
紗季は両親に近い席へ座っていた。ネイビーのワンピースに淡いグレーのジャケットを羽織り、目立つ装いはしていない。
食事会が始まる十分前、美咲が姿を現した。
あとで知ったが、彼女はドレスショップの着つけ予約を取り消していなかった。僕が婚約を解消する意思を本気で固めたことも、最後まで認めようとしなかったらしい。
この日を、僕に譲歩させる最後の機会だと考えていたのだ。
美咲は予定していたウェディングドレスを身につけ、隣にはスーツ姿の佐伯がいた。
二人はまっすぐ宴会場へ入り、ステージを見たところで同時に立ち止まった。佐伯は背景布へ近づき、指先で生地を確かめる。
「僕が指定したのはイタリア製のベルベットです。これは国産のポリエステルでしょう。照明の色温度も違うし、花材もオランダから取り寄せるはずだったチューリップではありません」
美咲は完成した会場を見回し、露骨に顔を曇らせた。
「どうして私たちのデザインどおりになっていないの?」
宴会担当者が確認書を差し出した。
「高瀬様から追加発注の承認をいただいておりません。現在の装飾は当初契約の内容に沿っており、花材も事前に合意した同等品を使用しております」
佐伯は、専門を理解しない相手にあきれたように首を振った。
「もう同じ作品ではありません。こんな会場で式を行うべきではない」
美咲は僕のところへ来ると、これまで延期を求めたときと同じように腕をつかんだ。
「悠真、今日はやめましょう。ホテルに全部やり直させてから、日を選び直せばいい」
「婚約を解消すると伝えたメールは読んだか?」
彼女の指が固まった。
「あれは、あなたが意地になっているだけでしょう」
「両家の親にも伝えた。入口の案内にも書いてある。今日は結婚式じゃない。事情を説明するための食事会だ」
「そんな小さなことで、五年間の関係を終わらせるつもり?」
「五年の間に、小さなことは一つもなかった。ただ僕が、積み重なっていないふりをしていただけだ」
周囲の人たちも口論に気づき、宴会場は次第に静かになった。
僕はステージへ上がり、司会者からマイクを受け取った。
「本日はお越しいただき、本当にありがとうございます。予定していた挙式は中止となりました。僕は水城美咲さんに、婚約を解消する意思をすでに伝えています。皆さんに詳しい事情を事前にお話しできなかったことは、僕の責任です。今日の食事代はすべて僕が負担しますので、親族と友人の集まりとして過ごしていただければと思います」
低いざわめきが広がった。式次第が何もなかった理由を、ようやく理解した人も多かったのだろう。
美咲はステージの下で青ざめていた。この瞬間になって初めて、僕がもう譲らないと分かったようだった。
「悠真、降りてきて。これ以上、恥をさらさないで」
「恥ずかしいのは式を中止することじゃない。いつ完成するかも分からない条件を、これ以上みんなに待たせることだ」
母が席を立ち、ステージのそばまで来た。父の隣に立ち、僕が話し終えるのを待っている。
美咲の両親も近づき、娘を連れて帰ろうとした。
佐伯はなお会場デザインについて説明しようとしたが、ホテルの責任者から、これ以上進行を妨げないよう注意された。
「帰ろう、美咲。ここでは僕のデザインが何ひとつ尊重されていない」
佐伯が先に背を向けた。
美咲は数秒、僕を見つめたあと、その後を追って会場を出ていった。
食事会は、二人が去ったあとも続いた。
僕は改めて全員に頭を下げた。父は席からノンアルコールの飲み物を少し掲げ、静かにうなずいた。
その日、誓いの言葉も、新しい約束も交わされなかった。
ただ、五年間先延ばしにされ続けた婚約が、ようやく終わった。
食事会が終わると、両親はホテルの入口で紗季に礼を言った。
「今日は私たちのそばにいてくれて、ありがとう。悠真がまたあなたを傷つけるようなことをしたら、私たちに遠慮しなくていいからね」
「今日は友人として来ただけです」
「それでいいの」
両親が車で帰ったあと、ホテルのラウンジで紗季を見つけた。廊下には、宴会場を片づけるスタッフの物音だけが残っている。
「ステージで突然、私の名前を呼ばなかったことだけは褒めてあげる」
「約束したから。紗季を利用しないって」
少し間を置いた。彼女に触れようとはしなかった。
「婚約のことも、お金のことも、全部片づいたあとで……また連絡してもいいか?」
紗季はしばらく僕を見た。
「まずは友達からね」
僕はうなずいた。
本当の関係は、一人が際限なく待ち続けることで成り立つものではない。まして、大勢の前で相手に決断を迫るものでもなかった。
5.公表された事実
翌朝、スマートフォンには何十件もの着信履歴が残っていた。
美咲は最初、どうして大勢の前で恥をかかせたのかと責め、その後は婚約解消についての説明を削除するよう求めてきた。
佐伯は自分のSNSに長い文章を投稿し、芸術を理解しない依頼主から排除されたデザイナーとして、自分を語っていた。
食事会に来ていた一人が、会場でのやり取りをスマートフォンで撮影し、その一部をSNSへ投稿していた。動画は僕がステージへ上がったところから始まり、入口の案内板も、僕が事前に婚約解消を伝えていた事実も映っていない。
いくつかのウェブメディアが、すぐにその短い動画を転載した。
見出しはひどく刺激的で、僕が結婚式直前に突然婚約者を捨てた男であるかのように書かれていた。
美咲も、佐伯と図面を見ている後ろ姿の写真を投稿した。添えられた文章は一文だけだった。
『完璧を求めることまで、捨てられる理由になるのね』
僕はすぐには反応しなかった。感情が最も高ぶっているときに、二人と言い争うつもりもなかった。
大学時代の友人が、今は弁護士をしている。
僕は婚約解消を通知したメール、ホテルとのやり取り、リノベーション契約書、公開された記事をすべて渡した。
資料を確認した友人は、事実を示すために必要な範囲だけを公表し、住所や口座番号、争点と無関係な私的会話は伏せるべきだと助言した。
施工会社も説明に協力し、保管していた工事記録を弁護士へ提出した。
五年間で、佐伯が要求した大幅な設計変更は十八回。それによるやり直しは十九回で、予算は当初見積もりの三倍近くまで膨らんでいた。
工事の中断、解体、追加発注には、すべて書面が残っている。
プロジェクト契約では、オンラインの設計会議は録音中であることを画面に表示したうえで保存され、参加者は最初の会議で記録方法に同意していた。そのため、施工会社のシステムには会話が自動保存されていた。
ある会議の終了後、美咲と佐伯は接続を切らず、そのまま話し続けていた。
「悠真が気にしているのは、いつ住めるかだけよ。完成された空間には時間が必要だって、全然分かってない」
「気にしなくていいよ。僕のデザインを理解してくれるのは美咲だけだ。この家は、僕たちが一緒に完成させる作品なんだから」
愛を告白するような言葉はなかった。
それでも、僕が費用を支払っている部屋が、二人の中ではすでに僕たちの暮らしの場所ではなくなっていたことは、十分伝わった。
弁護士は僕の名義で事実関係をまとめた文書を公表した。
僕がいつ婚約解消を申し出たのか。ホテルが事前に挙式中止の連絡を受けていたこと。佐伯には、僕の代理として追加工事を契約する権限がなかったこと。
施工会社は金額や個人情報を伏せた工事変更の集計を同時に公開し、ホテルも、会場設営は当初契約に沿っており、施工上の不備はなかったと説明した。
文書の最後に、僕は一文だけ残した。
『五年、十八回の設計変更、十九回のやり直し。彼女が理想を追う権利は尊重します。ただ僕は、いつ始まるかも分からない未来のために、これ以上金を払い続けることをやめます』
世間の見方が、一夜ですべて変わったわけではない。
それでも、僕を一方的に婚約者を捨てた男と決めつけていた記事は、少しずつ見出しを書き換えた。過激なコメントを削除する人も現れ、以前に佐伯へ仕事を依頼した人たちから、施工会社へ問い合わせが入るようになった。
同じような方法で工事費を増やされた可能性はないか、と。
紗季は仕事帰りに僕の部屋へ寄り、コンビニで買った弁当を二つ持ってきた。
「ひとつ問題が片づいた人の顔には見えないね」
「勝った人なんていないからな」
「じゃあ、まず食べよう」
紗季は箸を差し出した。
美咲の消息を尋ねることも、この機会に気持ちを証明しろと迫ることもなかった。僕たちはローテーブルの前に並んで座り、誰も急いで未来について話さなかった。
紗季と一緒にいると、沈黙をどちらかが必死に埋める必要はない。
そのことに、僕は初めて気づいた。
6.返還と精算
婚約解消後の金銭問題は、ネット上の騒ぎより複雑だった。
マンションの所有名義は最初から僕で、車も僕の個人所有だった。美咲へ渡した不動産や自動車を取り戻すような問題は存在しない。
整理が必要だったのは、結婚を前提として美咲へ渡した百万円、婚約指輪、二人で購入したものの未使用の家具、美咲が個人名義で佐伯へ依頼した追加デザイン料、そして式の変更によって生じた費用だった。
弁護士は、返還と分担を求める項目を列記した、配達証明付きの内容証明郵便を美咲へ送った。
彼女はすぐには応じず、両親を通じて、自分も五年間を費やしたのだから費用を負担する理由はないと伝えてきた。
内容証明郵便を受け取ったあと、美咲も婚約解消後の金銭問題を処理するため、弁護士へ依頼した。
双方の代理人が数回協議し、最終的に財産精算に関する合意書を取り交わした。
美咲は婚約指輪と百万円を返還し、個人名義で佐伯へ依頼して実際に発生した追加デザイン料を負担する。さらに、式の変更に伴う損失の一部も支払うことになった。
施工会社は、僕の書面承認を欠く追加請求を取り下げた。すでに施工され、双方が利益を受ける可能性のある工事については、合意した割合で僕と美咲が分担する。
僕は使用者を区別できない家具費用の一部を請求しないことにし、双方は今後、過去の婚約関係を理由に新たな請求を行わず、私的な連絡もしないと確認した。
合意書がまとまったあと、美咲の両親は僕の両親の家を訪れ、改めて謝罪した。
父は責めず、二人に座るよう勧めた。
「子どもたちはもう大人です。自分で選んだことは、自分で引き受けるしかない。いつまでも親御さんが頭を下げなくてもいいんです」
母もまだ腹を立ててはいたが、家同士の体面を持ち出すことはなかった。
「これからは、美咲さんが自分の生活を立て直せるよう支えてあげてください。こちらから何か言うことは、もうありません」
すべてが片づくと、母は祖母の真珠のネックレスを再び引き出しへしまった。
その頃、僕と紗季は週に一、二度会っていた。仕事帰りに食事をし、父の通院に付き添うこともあった。
それでも紗季は、婚約を終わらせることと、新しい関係を始めることは別だと、何度も念を押した。
「今は、美咲さんと正反対に見えるから、私の何もかもがよく思えているだけかもしれない」
「分かってる」
「だから、急いで何かを証明しようとしないで。好きなのが今の私なのか、六年前の記憶なのか、ちゃんと確かめて」
「分かった」
相手が決めた境界を受け入れることは、関係を遠ざけることではなかった。
結果を急がなくなったからこそ、僕たちはこの六年間に互いがどう変わったのかを、少しずつ知ることができた。
7.自称・天才デザイナー
施工会社の内部調査は、一か月以上続いた。
現場監督が発注記録を洗い直したところ、佐伯の指定した複数の仕入先は、相場より明らかに高い価格を設定していた。
「英国輸入品」「ドイツ特注品」と記載された金物の一部は、実際には国内の小規模工場で作られた製品だった。包装だけを取り替え、数倍の価格で請求書が発行されていた。
見積書や発注書には、虚偽の原産国が記載されていた。佐伯は一部の顧客に、偽造した輸入証明書まで提示している。顧客たちはその書類を信じたからこそ、市場価格を大きく上回る代金の支払いに同意していた。
さらに、仕入先の一部は、差額の一部を佐伯が代表を務めるコンサルティング会社へ送金していた。
送金記録と設計変更の時期は一致している。
佐伯は単に高価な素材を好んでいたのではない。設計を繰り返し変更し、指定業者から購入させることで、やり直しのたびに利益を得ていたのだ。
施工会社はまず佐伯との提携を打ち切り、調査資料を弁護士と警察へ提出した。
過去の顧客も次々に資料を持ち寄った。彼らの工事にも、輸入元の虚偽、重複請求、必要のない解体と再施工が見つかった。
佐伯は、自分が『ロンドン国際デザイン学院』を卒業したと宣伝していた。
調査の結果、それは短期のオンライン講座を提供するだけの民間スクールで、正式な学位を授与する教育機関ではないことが分かった。
問題は、学位を持っていないこと自体ではなかった。
短期講座を受けただけなのに、英国の専門大学で建築やインテリアデザインを学び、卒業したかのような経歴を使い続け、顧客を誤認させていたことだった。
調査が広がると、佐伯と美咲はすぐに責任を押しつけ合った。
佐伯は、高額な提案はすべて美咲の同意を得ており、希少な材料を求め続けたのは彼女だと主張した。
美咲は、自分は契約や仕入れに詳しくなく、専門家を信用しただけだと言った。
二人が誇っていた理解と信頼は、責任が生じた途端、あっけなく消えた。
半年後、佐伯は、複数の顧客に輸入品を使うと偽り、虚偽の書類を示して工事費を支払わせた行為などについて、詐欺罪で起訴された。
顧客たちが起こした民事訴訟も並行して進み、彼の個人事務所は営業を停止した。業界の取引先も、次々に契約を解除していった。
その後のことは、弁護士や施工会社から必要な範囲だけ聞いた。
僕は詳しい事情を自分から調べず、新しい声明も出さず、美咲にも連絡しなかった。
二人が招いた結果は、僕がそばで見届けなくても起きる。
その夜、僕は紗季と、まだ再着工していないマンションを見に行った。
室内には、何度も解体と再施工を繰り返した痕跡が残っていた。非耐力の間仕切り壁は、造っては壊され、床の端には未使用のサンプルが積まれている。
洗面室には、あれほど嫌われた国内仕様の水栓が、何事もなかったように取りつけられていた。
「まだ、ここに住みたい?」
紗季はリビングを一周し、窓辺で足を止めた。
「美咲さんの痕跡を全部塗りつぶしたいだけなら、私は住みたくない」
「じゃあ、どうしたい?」
「設計し直す。でも、過去を隠すためじゃない。使えるものは残して、ほかは二人で決めたい」
僕は書類ケースから、五年前の最初の間取り図を取り出した。
紗季は長いこと眺め、ゲームスペースとして描かれた場所を指した。
「ここが一番明るいのに、どうしてパソコンだけ置くの?」
「紗季なら、何を置きたい?」
「二人で使える長机。悠真が仕事をして、私が本を読む。同じ部屋にいても、どちらかが出ていかなくていい場所にしたい」
僕は図面のその場所を見て、うなずいた。
「そうしよう」
今度は、すべての細部を作品にしようとする人はいない。
僕たちは、どう暮らしたいのかを話しているだけだった。
8.もう一度、知り合う
工事を再開すると、進み方は過去五年のどの時期よりも速かった。
週末には紗季とショールームへ行き、床材や設備を確認した。
紗季は明るいオーク材を好み、僕は濃いウォールナットに慣れている。サンプルの前で三十分ほど意見を交わし、最後は中間色のスモークオークを選んだ。
ショールームを出ると、紗季が笑った。
「悠真も譲れるんだね」
「昔から、ずっと譲ってきたつもりだけど」
「それは違う。前の悠真は、自分の意見を言うことを諦めて、最後に一人で怒ってただけ」
紗季の一言は、僕が認めたくなかったことを正確に突いていた。
僕は沈黙を思いやりだと思い込み、不満をためることを責任だと勘違いしていた。耐えられなくなったときになって、突然関係を終わらせた。
「これからは、嫌なことはその場で言う」
「私も言う」
「じゃあ、床の色はもう一度考え直せる?」
「無理。もう発注書にサインしたから」
紗季は僕の腕を引いて歩き出した。
意見がぶつかっても安心できることを、僕は初めて知った。
再着工から三か月後、僕と紗季はもう一度付き合うことになった。
特別な演出があったわけではない。普通の夕食を終えたあと、僕が沈黙で問題から逃げなくなったと確認して、紗季がもう一度向き合うと決めてくれた。
すぐに結婚の話はせず、同居もしなかった。
今度こそ、問題が起きたときに、どちらかが相手の気持ちを勝手に決めない。それだけを約束した。
しばらくして、美咲が僕の勤務先の前に現れた。
以前より痩せていた。化粧は変わらず整っていたが、疲れまでは隠せていない。
建物から出た僕を見つけると、早足で近づき、袖をつかんだ。
「悠真、話がしたい」
「合意書では、今後は私的な連絡をしないと確認したはずだ」
「お金の話じゃない。やっと分かったの。蓮はずっと私を利用していた。輸入品も、学歴も、仕入先も、見せられたものは全部嘘だった」
「二人の問題は、もう僕には関係ない」
「あの人が、もっと上を目指し続ければ完璧な生活が手に入るって思わせたのよ。私は、専門家を信じすぎただけなの」
「最初の数回なら、知らなかったと言えるかもしれない。でも五年間の工事中断も、追加請求書も、全部見ていただろう」
美咲の手から力が抜け、顔から血の気が引いた。
「私が愛していたのは、ずっと悠真だけよ」
「美咲が必要としていたのは僕じゃない。金も手間も全部引き受けて、何をしても疑わない相手だ」
「紗季さんは、私への当てつけでしょう? 冷静になったら、私たちのことを忘れられていないって気づくはずよ」
「紗季とはまだ結婚していないし、誰かに自分の選択を見せつけるために付き合っているわけでもない。だからこそ、今の自分が何を選んでいるのか、前よりよく分かってる」
僕はそれ以上立ち止まらなかった。
もう、彼女が責任を別の誰かへ押しつける言葉を聞くつもりはなかった。
その夜、紗季は約束どおり僕の仮住まいに来ていた。
キッチンで野菜を切っていた彼女は、帰りが遅くなった理由を尋ねず、もう一枚のまな板をこちらへ押した。
「魚は悠真に任せる」
手を洗い、隣に立った。
「美咲が会社に来た」
紗季の手が一瞬止まり、すぐにまた動き始めた。
「何て答えたの?」
「僕たちは終わったって」
「それから?」
「それから帰って、紗季と夕飯を作ってる」
紗季は僕を見て、ようやく笑った。
窓の外は暗くなり、鍋の中でスープが小さな音を立てている。塩をどれくらい入れるかで少し意見が分かれ、二人で味見をして調整した。
家は、意見の食い違いがない場所ではない。
言い合ったあとも、同じキッチンに立っていられる場所なのだ。
9.婚姻届
マンションが完成したのは、翌年の春だった。
新しい部屋に高価な輸入壁紙はなく、見栄えを優先して収納を減らすこともなかった。リビングには二人で選んだソファがあり、窓辺には同時に使える長机が置かれている。
洗面室には、日本の住宅設備に合う、あの水栓をそのまま残した。
工事が終わると、まず僕一人が引っ越した。紗季は自分の部屋に住み続け、週末だけ遊びに来た。
入居から三か月後、僕は家で紗季にプロポーズした。
ホテルも、カメラマンも、招待客もいない。テーブルには、冷めてしまったコーヒーが二杯あるだけだった。
指輪を目の前へ置いても、紗季はすぐには手を伸ばさなかった。
「今度は、本当に結婚したいから? それとも、部屋が完成したから?」
「部屋が完成したのは、作品にすることをやめたからだ。結婚したいのは、紗季と一緒に暮らしたいから」
「これから、私が悠真の考えに反対したら?」
「話し合う。結論が出なくても、どちらかが黙ったり、身を引いたりする必要はない」
紗季は長いこと僕を見つめたあと、手をテーブルの上へ差し出した。
「これから、よろしくお願いします」
僕たちはすぐに大きな結婚式を挙げず、まず婚姻届の準備をした。
婚姻届には二人で必要事項を記入し、僕の父と紗季の母に、成人の証人として署名してもらった。
日を決めて市役所へ行き、戸籍窓口に提出する。職員が内容を確認し、婚姻届は正式に受理された。
僕たちは同じ窓口で、婚姻届受理証明書も申請した。
市役所を出ると、紗季が振り返った。
「想像していたのと、少し違うね」
「どんなものを想像してたんだ?」
「せめて音楽くらい流れていると思ってた」
僕はスマートフォンを取り出し、大学時代によく聞いた曲を再生した。
「これでいい?」
「ぎりぎり合格」
その夜、両家の両親が小さなレストランで祝ってくれた。
母はようやく、あの深い青色の箱を取り出し、祖母の真珠のネックレスを紗季へ渡した。
「高瀬家の何かを背負ってほしいという意味じゃないの。ただ、私が大切にしてきたものを、あなたにも預かってもらえたらと思って。気に入らなければ、無理につけなくていいからね」
紗季はすぐには身につけず、箱を両手で受け取り、母へ丁寧に礼を言った。
父はノンアルコールの飲み物を掲げた。一年前よりずっと顔色がよくなっている。
「結婚したからといって、何もかも同じ意見になる必要はない。言いたいことを言い合えるほうが、ずっと大事だ」
僕と紗季は顔を見合わせた。
永遠に完璧であることより、僕たちにはふさわしい祝福だった。
10.本当の家
新居へ落ち着いたあと、両家の両親を招き、新居のお披露目を兼ねたささやかな食事会を開いた。
紗季はスープとサラダを担当し、僕はメイン料理を作った。母は何度かキッチンへ入ろうとしたが、そのたび紗季に笑顔で席へ戻されていた。
父は窓辺に座り、何度も書き直された昔の間取り図を眺めた。
「前に来るたび、永遠に完成しないモデルルームを見学しているみたいだったな。ようやく、人が暮らす家になった」
「まだ完全には終わってないけどね」
僕はリビングの隅に置かれた、未組み立ての本棚を指した。
紗季が料理をテーブルへ運ぶ。
「それでいいんです。暮らしながら決めればいい。家は、住む人と一緒に変わっていくものですから」
その後、佐伯の事件については、弁護士から時折進展を聞いた。
刑事事件では複数の詐欺行為について有罪判決が言い渡された。同時に、顧客たちが提起した民事訴訟でも判決が出て、佐伯は代金の一部返還と損害賠償を命じられた。
彼が経営していた事務所も、完全に閉鎖された。
美咲は仕事を変え、以前住んでいた部屋から引っ越した。
僕を失ったからといって、すべてを失ったわけでも、世間から消えたわけでもない。
ただ、もう自分の選択をすべて「完璧」という言葉に預けることはできなくなった。
ある日、紗季と百貨店へ食器を買いに行ったとき、化粧品売り場の近くで美咲を見かけた。
整った制服を着て、客に商品を説明している。以前より口数が少なく見えた。
短い間だけ視線が重なったが、彼女は近づいてこなかった。僕も足を止めなかった。
車に戻ると、紗季がシートベルトを締めた。
「惜しかったって、思う?」
エンジンをかけ、夕方の車列へゆっくり入った。
「前は、五年間を全部無駄にしたと思ってた。今は、そう思わない」
「どうして?」
「譲り合うことと、黙り込むことは違うって分かったから。それに、家は完璧にならなくても、暮らし始めていいんだって知った」
紗季がセンターコンソールの上へ手を置き、僕はその手を握った。
窓の外では、街の明かりが一つずつともり始めている。車内には、静かな昔の曲が流れていた。
家へ帰ったら、ずっと後回しにしていた本棚を組み立てる予定だ。
夕食は、スーパーで買った総菜だけになるかもしれない。床には時間とともに傷がつき、どちらかが皿を洗い忘れて、キッチンが散らかる日もあるだろう。
けれど、それらはもう、壊して作り直さなければならない欠陥ではなかった。
本当の家は、最も高価な素材や、珍しい家具や、二度と変更できない完璧な設計図で作られるものではない。
こちらの言葉を聞き、必要なときにはきちんと「違う」と言ってくれる人と、平凡な毎日を積み重ねていく場所なのだ。
——完——




