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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。

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Citrus meyerii

作者: 涼川怠惰
掲載日:2026/06/14


こちらの作品には一部、いじめ表現、食糞表現がございます。

苦手な方はご注意下さい。



Citrus meyerii


 ふと、鼻腔を擽る蜜柑の様な、檸檬の様な甘酸っぱい匂いがした。

 勿論自分が着けている香水の匂いでも無ければ、運転手の彼の匂いでもない記憶の中の香り。


 あの日の思い出が甦りそうになるのを必死に抑えながら、乱は彪の運転する車の中で人知れずため息を吐いた。

 地元に近づく度、言い様の無い寂寞感が胸の中を支配する。まるでいつまで経っても忘れられない思い出に縋り付いているかの様に。


「……乱さん、しっかりして下さいよ。帰っても仕事は沢山残ってるんですからね」


 そんな乱の心境を知ってか知らずか、彪がそんな言葉を投げかけて来た。今日は午前中に打ち合わせ、午後から溜まりに溜まった書類仕事の片付けに追われる予定なのだ。また理由を付けてサボろうとしたら今度こそは許さないと言う彪の心が透けて見えた気がして、乱は困った様に微笑んで応える。


「分かってるよ。て言うか彪君、いっつも俺に休めとか言ってきてないっけ?」

「それはそれ。これはこれです。今日は休んじゃダメです」

「何それ……」


 無茶苦茶な言い分を平然と言ってのける彪の態度に、ポツリと文句を溢して。二の句を継ごうとした唇は、窓の外に広がる光景を目にして思わず止まった。


「彪君、止まって」

「え」


 急ブレーキを掛けて止まった車から早々と降りれば、乱はバス停付近で屯している中学生五人の元へ歩み寄る。彪が慌ててその後をついて行けば、そこには泣き濡れた一人とそれを見て下卑た笑いを浮かべている四人の姿があった。二人とも、一瞬で事態を察知する。


「……あの、何ですか?」


 突然歩み寄って来た大の大人に流石に気圧されたのか、中学生の一人が恐る恐る声を掛けてくる。そうして子供らしく今更罪悪感に襲われたのか、可愛い花の刺繍の入った財布を慌ててポケットに突っ込んだ。残りの三人も、徐々に視線を落として行く。が、


「……それ、本当に君の財布?」


 逃さないと言わんばかりに、乱は優しくそれを言及した。あからさまに目の泳ぐ青年だったが、震える声で「そうですけど?」と言えば反対側のポケットに手を突っ込み、ーー目を見開いて顔を青ざめさせた。その青年に言うでもなく、今度は彪が態とらしく声を上げる。


「随分可愛い趣味の財布ですね。俺のはこんなんですけど」

「…そ、それ、俺の」

「は? 君のはそれでしょ? 中学生で財布二個持ちは流石に疑います」

「…や、あの…」


 しどろもどろになってしまい、返す言葉を失う青年。

 その時黙っていた三人の内一人が仲間の肩を叩き、恐怖に滲んだ声を漏らした。


「そ、そそ、その人っ、奉日本…奉日本組の、組長だ…ッ」

「は!? や、ヤクザ……ッ!?」


 そう言って改めて四人が乱を見る。乱の胸元にはきらりと光る代紋のピンバッジが着けられていた。それが何よりの答え。

 完全に萎縮してしまった青年達を見遣ると、乱は漸く溜め息を吐いた。そして彪からその財布を受け取ると、片手を差し出す。


「そっちの財布を返してくれる? そうしたらこれは返してあげるけどーー」

「は、はい! 返します、返します!」


 乱の言葉が言い終わらない内に、青年はすぐさま乱の手に可愛い財布を握らせた。

 だが乱は一向に青年の財布を返さない。約束が違うと青年が顔を上げた瞬間、ーーその表情が先程よりも青白くなる。



「…次、いじめたら本当にどうなっても知らないからね」



 殺気が辺りの空気を包み込む。背筋が凍る様な不気味さと寒さに襲われて、四人は声を上げる事も出来ずただ涙目で数回頷くばかり。

 彪でさえ肌がピリつくのを感じる。この人はそう言えば、例え子供でも容赦なく報復を受けさせるだろう。


 他人を何の理由もなく傷つける人間には、人一倍厳しいから。


 ふと、辺りの空気が緩んだ。

 乱はニコリと微笑むと「じゃあ今日はもう帰りな」と呟き、四人を他所にその財布を涙目で事の顛末を見つめていた青年に向かって差し出す。


「はいどうぞ。これ可愛いね、自分でやったの?」

「……あ、」


 震える手で受け取った青年は、まだどうしたら良いものか分からず困っている様だった。

 だが、目の前の人が自分の敵ではないと理解すれば、少し微笑んで「お母さんに、作ってもらったんです」とか細い声で応える。その答えに、少しだけ乱は表情を強張らせーー、そして何気ない笑顔をまた浮かべて見せた。


「そうなんだ、凄いねえお母さん。…大切にしなよ」

「は、はい。あの、ありがとうございます、助けて貰って」

「……別に助けた訳じゃありませんよね」

「へ…」


 和やかな空気は一転、彪の言葉でまた青年の顔つきが変わる。

 乱は青年の前に視線を合わせて屈み込むと、その手を強く握った。


「今日は助かったけど、また明日同じ事をされるかも知れない。今日みたいに強い大人がいないと分かれば今度はもっと酷い事をしてくるかも知れない。…いじめは、たかだか一回助かった位じゃ、絶対に終わらないんだよ」

「……じゃあ、ど、すれば」

「〝助けて〟って言うんだ。親に、教師に、周りの人に。自分はいじめられていますって。良い?」

「……」


 その言葉を聞いた瞬間、青年の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

 握られていた手を振り払い、嗚咽を漏らしながら泣きじゃくる。


「誰にも助けてもらえなかった!! 先生にも、言った!! お母さんにも、お父さんにも言った!! でも何も変わらなくて、他の人も見て見ぬふりで…ッ」

「……そう」


 分かりきっていた事だった。この悲痛な叫びは、二人とも嫌という程理解している。だって二人とも、同じ事を経験しているのだから。

 だから彪は道を外れた。だから乱は、道を外れた。

 この子にはそうなって欲しくはない。その思いで、もう一度彼の手を取る。


「……じゃあ、また頼って。俺が力になってあげる。学校に行くのが嫌なら行かなければ良いし、それが出来ないなら俺が説得するよ。いじめっ子達が追いかけて来るなら俺が痛い目に遭わせてあげる。だから、約束して欲しい」

「……」

「いじめっ子達や、何もしなかった親や大人を恨んで自分が〝化け物〟にならない事。…そして、君と同じ様に助けを求めている子の手を、これからの人生で君が掴んであげる事…良いね?」


 乱の気持ちが伝わったのか、青年はぐいと涙を拭き取り力強く頷いた。

 その姿を後ろで眺めていた彪は、何とも言えない気持ちに襲われる。


 乱の見つめる先には何時もその人達ではない、ーー遠くを見ている気がした。

 救えなかった過去の自分に、こう言う形で償いを施しているのだろうか。それとも、救って貰った誰かの背中を見つめているのだろうか。


 ーーこの人は、大事な事は何も話さないんだよな。


 手を振ってバスに乗り込む青年を見送り、「帰ろうか」と乱が微笑む。

 信用されていないのか、話をするのも憚られるのか。そんな事を考えて、彪は思考を振り払う。


 無駄な事はしない。

 他人の人生に、自分が踏み入ってはならない。


 心に決めたルールを復唱して、彪は乱の後を追った。


「乱さん、ーー」


 と、どこからともなく蜜柑の様な、檸檬の様な甘酸っぱい匂いが香る。

 ここには蜜柑畑もそう言った店もないのにどうして? そう思って前を向けば、誰かが乱と相対しているのが見えた。


 少し元の黒が見える程度に抜けた今様色の髪、紺色の瞳は何を考えているか分からない様な不気味さがある。

 派手な柄シャツに身を包み、白いスーツを肩掛けにしたその男は乱を見遣れば吸っていた煙草を踏み潰し、そして微かに微笑んだ。




「久し振り、……貴丞きすけ




 忘れていた傷が、一際大きく脈打った。






 海沿いの小さな喫茶店に二人で腰を下ろす。彪は「積もる話もあるだろうから外で待っています」と言って今様色の髪の青年には近づこうともしなかった。

 それもそうだろう。玖都や近隣のヤクザの顔はほぼ把握している自分達でも、この様な出で立ちのヤクザは見た事がない。かと言って静かな殺気を滲ませるこの風貌で、カタギの人間とは到底思えない。

 残るはただ一つ。玖都外の、ーー西部の大規模連合の可能性だけだ。


 乱は警戒されているにも関わらず、涼しい顔で珈琲を啜る彼をじっと見つめていた。

 確か彼はピアスをつけていたりしたけれど、髪は染めていなくて。独特の雰囲気の所為で誰からも避けられていたっけ。記憶の中の彼と目の前の男の面影が重なった時、漸くその男が口を開いた。


「……思い出したか? そんなに変わってないと思うけど」

「……変わったと思うよ。前は黒髪だったし、もっと幼かった」

「それは中坊だったからだろ」


 そう言ってふわりと彼が微笑む。乱もそれに釣られて表情を綻ばせた。


「久し振り、真夏まなつ。…十五年ぶり、かな」


 乱に名前を呼ばれ、彼ーー千堂真夏せんどうまなつは嬉しそうに「十五年と二ヶ月ぶりだな」と付け加えた。

 その顔を見る度に、昔の傷がジクジクと開いていく様な感覚に襲われる。一瞬眉間に皺を寄せたものの一呼吸置いて、乱は味のしない珈琲を流し込んだ。


「……どうしてこっちに? それに、その格好」

「玖都には仕事の打ち合わせで来た。心配するな、貴丞が繋がってる阿刀田さんの所で働いてるよ」


 阿刀田、その名前を聞いて乱は全身の力が抜けるのを感じた。西部の大規模連合〝千華連合〟は東部の極道組織〝連龍会〟とは敵対している組織だ。だがそこに属する冀翼会きよくかいのトップ・阿刀田恋司あとうだれんじとは縁あって情報を送り合う仲になっている。正確に言えば、殺されそうになった恋司を自分が助けた事で恩を売りつけ、半ば強制的に千華連合の情報を貰っているのだ。

 恋司が自分と繋がっていると言う事を知っていながら、態々自分に告げて来たという事は。


「……真夏も〝こっち側〟って事?」


 乱の質問に、真夏は無表情のまま口元に手を添えて「そうとも言う」と答えた。


「……別に、千華を潰したい訳じゃない。でもこの在り方には疑問を持っている、何とかしたいって考えなら貴丞と同じだよ」

「……そっか。……ねぇ、それ辞めてよ」

「どれ?」


 キョトンと態とらしく惚けて見せる真夏の視線を避けながら、乱はぶっきらぼうに述べる。


「名前、もうそっちは使ってない」


 岼貴丞ゆりきすけ。これが乱の本名だと知る人は余りにも少ない。故に人前でみだりに呼ばせる気がない事を、ーー呼ばれたら困る事を伝えようとしたのだが、真夏はその意図を汲んだ上で明確に拒否の言葉を発した。


「嗚呼……、嫌だ」

「……何で」


 徐々に苛立ちに似た感情が湧き上がり、乱の表情が険しいものになっていく。だが真夏はそれを気にも留めず、徐に身を乗り出せば彼の顎を掬った。

 びく、と電流が流れる様な感覚の隙間を縫ってあの頃の記憶が乱の身体を蝕み、一瞬の硬直を生む。それを真夏は見逃さなかった。


「……まだ慣れない?」

「……当たり前でしょ。分かってるならいきなり触らないで」

「ごめんごめん、……それ、痛くない?」


 乱の口調が厳しいものに変われば漸く真夏は手を離して、ーー然しマイペースに次の話題へ進んで行く。そう言えばこんな奴だったな、と乱は昔の記憶を思い出し辟易しながら彼が指差した自分の首に触れた。

 乱の首筋にはヴァンパイアピアスと呼ばれるものが着いている。その周囲の皮膚は赤く、酷い所で化膿してしまっていた。

 ピアスを開けたりすれば、皮膚の弱い人ならよくある事だろう。けれど、真夏はそうではない原因について言及している事に、乱は気づいていた。


「……良く揶揄われてたもんな、キスマークが付いてるって。あの時も貴丞、辞めろって言ってんのに掻き毟って……」

「昔の事を蒸し返しに来たなら、もう帰るよ」


 ばん、と机を叩く。コーヒーカップが音を立て、波紋を広げて行く。

 これ以上話したくない。そう目で訴えれば、真夏は漸くその口を閉じた。


「……元気そうで良かった。でも、もう昔の事は忘れたい。やっと気にしないで生きて行ける様にもなったの。あの時、あの地獄から助けてくれた事は本当に感謝してる、有難う。……でも、まだあの時の事を笑いながら話せる訳じゃないから、ごめんね」

「……」


 ついた傷は癒えない。今も目を閉じれば、深い闇に落ちて行きそうな感覚に襲われる。

 でも自分には彪や狗神、そして皇牙がいる。そう思って昔の記憶に蓋をして生きてきた。それこそ、掘り起こされてしまえばまた終わらない苦痛に泣き出してしまいそうになるから。


 弱い〝貴丞〟に戻ってしまうから。


 ガタリと立ち上がり、呆然とする真夏をそのままに店の出口へと向かう。

 一歩、歩いたその手が絡め取られ。驚いて目を見開く乱の身体を、真夏は容易く引き寄せて囁いた。


「……じゃあまだ、貴丞は闇の中にいるんだよな」

「な、にを」

「今日だけ」


 何時かの記憶が脳裏に蘇る。

 あの時もこうやって腕を引かれて、そして何かを言われた様な気がする。


 ーーのー、ーーれよ。

 あの時、何を言われたんだっけ。


「今日だけで良いから、貴丞の時間俺にくれ」


 そんな事を真剣な眼差しで言われてしまえば、思い出されようとした記憶は吹っ飛び、身体は言う事を聞かなくなる。彼と居ると本当に何時かボロを出してしまいそうで怖い。だが、今それを突っぱねてモヤモヤした気持ちを抱えたまま彪と書類仕事が出来るかと言われれば、それは全く自信がなかった。


 結局喫茶店を出た乱は、待っていた彪に駆け寄れば笑顔で顔の前で合掌して見せる。

 その所作を何度も見てきた彪は般若の如く形相で乱を見つめるが、原因が真夏だと言う事を察せばそれ以上の追及はしなかった。


「…仕方ないですね。その代わり迎えには行きませんからね、帰ったら乱さんの分の仕事は残っていると思って下さい」

「分かった分かった、ごめんね彪君。気をつけて」

「……ふん」


 彪は車に乗り込む際真夏を睨み付けるが、当の本人は無表情に彼の見送りをするだけだった。それが癪に障った様で、これでもかと言う位のスキール音を鳴らして去って行く。相変わらず短気だな、と心の中で呆れながら乱は溜息を吐くと真夏の方へ向き直った。


「で? 何処行くの。今日の俺の時間は何に使われる訳?」


 そう問い掛ければ、真夏はまた口元に手を添えて数秒黙った後悪びれる様子もなく、「ホテル?」と言い放った。

 これには乱も空いた口が塞がらない。一体中学の時に何を見てきたのだろうか。行きずりの女性とそう言う事になった経験は何回かあるが、男との行為はあれから一度も手を出していないし、出そうとも思わない。あり得ない、と言う表情のまま真夏を見つめる乱の顔を覗き込み、彼はそれでも真剣な面持ちで呟いた。


「……頼むよ。今日だけで良いからさ」

「………、…」


 だが。その縋る様な声音に、どうしようもなく応えてしまいたくなってしまう。

 誰かに求められる時は少なからず応じてきた。それが行為であっても、なくても。

 例えば仕事の時でも、笑いの時でも。今その時〝だけ〟必要とされているから、心の隙間を埋めてくれるのなら何でも良かった。そんな感覚で何もかもを応じてきた。どうせ相手にとってはその時だけの必要な存在で、自分も本気で必要とされていると思っている訳ではなかったから。

 返ってきたらラッキー。そうでないなら当てが外れただけ。


 でも彼は違う、そう理解している。

 だって真夏は。


「……、分かったよ。今日だけね」


 たった二週間でも、確かに親密な関係になった相手だったから。






 父親は俺が生まれた時にはもう既に居なくて。母は朝から夜まで働き詰めて、たった一人で俺を育ててくれた。

 昔の事は思い出したくない。今では〝悩みなんて無さそう〟、〝強くて金もあって幸せそう〟と口々に言われるけれど、そうなるまでにどんな事を経験して来たか彼等は知らないから。悪気がない羨みの言葉だと分かるけれど、それでも昔の自分を踏み躙られている様に思えて、気分が悪かった。

 だったら話せば良いのに、とも思われるだろうが話してどうなるんだろうか。余計に気まずい空気が流れて、もう俺を〝強くて頼り甲斐のある組長〟としては見てくれなくなるだろう。


 だから弱音は吐かない事に決めた。有難い事に実際弱音なんて吐く暇がない程、毎日が忙しい。

 このまま昔の記憶も自分も、この忙殺された毎日の中で消えてくれれば。


 そう思っていたのに。


 化野団地よりかなり小さい、二階建ての古びたアパートで目を覚ます。

 エアコンや扇風機は電気代が高くなるからと紙に母の字で〝使わない!〟と張り紙がされてあって。その所為で部屋の中には生温い空気が充満している、熱中症待ったなしの六畳一間の部屋。


 俺はどうしようもなく、泣き虫で、人見知りで、恥ずかしがり屋な子供だった。

 お化けは怖いし、雷も怖い。知らない場所に一人で行けないし、学校では誰とも話せなくていつも女の先生とくっついている様なそんな子供。大して珍しくはないだろう、父親の背中を見て育たなかったから男らしさと言うものは想像もつかなかったし。

 そしてそんな大人しい子供は、他の子供の標的になる事も良くあった。


 小学生のいじめだから今の時代とは違う、弄りや軽いパシリがほとんどだ。やれ皆のカバンを持って来いだの、宿題を全員分やっておけだのそれ位の事。たまに全員の前で面白い事しろとか、脱げとかはあったけれどそれを撮影してSNSに上げる、なんて事は無かった為、一時的な余興だと思えばそんなに苦しくはなかった様に思う。

 勿論当時は死ぬ程恥ずかしかったし、死にたい位辛かった。でも全部を経験した今だから言える。


 あの頃は多分、まだ幸せだった。

 いじめてた奴等も運動会やそう言う行事ごとでは何故か一丸となっていたし。そこへ俺を迎え入れてくれて、普通の友達の様に笑いかけてくれたし。そのお陰で先生に相談しても信じては貰えなかったんだけど…、兎に角彼等にとってこれはいじめではなく〝揶揄い〟の範疇だった事を理解した。


 俺にとって問題が大きくなったのは。

 尊厳を踏み躙られて、自尊心をズタズタに傷つけられたのは中学に入学してからの事だった。


 その日、俺は母に「良かったら全寮制の中学校に行かないか」と言う相談を受けた。全寮制、つまり知らない誰かと同室になって寝食を共にして、そのまま学校へ行って長く母に会えない生活が続くと言う事。勿論俺は首を横に振った。


「…、や、嫌だ。何で? お母さんと一緒に居たい」

「……」


 震える声でそう訴えれば、母は表情を歪ませ家の事情を全て話し始める。

 簡潔に言うとお金が無い、と言う話だ。幾ら安アパートでも家賃に光熱費や電気代、水道費を足して行けばそれは母の収入を軽々と越えてしまう程。加えて俺が居る事で夜勤が出来ず定時で帰らなければ行けないと言う状況も、収入を減らす一因となっていた。

 つまり俺が全寮制の中学に行けば、母は朝から深夜まで働けるし家を空ける心配もない。生活費で削れる所は削り、浮いたお金を俺のお小遣いにしようとさえしていた。


「きいちゃん、勉強頑張ってくれてたからここへは成績優秀者として寮代免除で入れるの。……高校はその代わり貴方の行きたい所へ行かせられる様、お母さん貯金も頑張るから、だからお願い」

「……」


 それに対して、俺は頷かざるを得なかった。今まで面と向かって母の身体を良く見ていなかったが、腕は痩せ細り血管が浮き出ていて白い顔は益々青白く、生気を失いつつある様子だった。そこまでしているのに、俺の我儘でまた苦労をさせてしまうと考えると、どうしようもなく自分が悪い子に思えて苦しかった。

 声を出したら泣いてしまいそうだったので、ゆっくりと首を縦に振る。抱きしめられたその身体はまるで板みたいに薄くて、力を入れたらこんな子供でも簡単に折ってしまいそうな位で。


 だからその時決意した。

 俺が大人になったら、絶対お母さんを幸せにする。

 母が苦労した分、俺が何倍にも苦労して返さないと。その思いで俺は地元の丙町ひのえまちにある私立菰淵こもぶち学園に入学した。


 のだが。


 周りが真新しい制服に身を包み、親に買って貰ったらしい携帯を手にして友人と部屋割りを見る中、俺は一人沈んだ表情で教室から動けずに居た。理由は簡単だ、この学校に居たのだ。小学生の時に俺をいじめーー否、〝揶揄って〟いた四人組が。


 そしてその内の二人と同室だと言う事実も聞いた。地元にある公立の学校に行ったとばかり思っていたが、何故態々全寮制に? 疑問が頭の中を駆け巡るが、ここに居たって部屋割りが突然変更される訳でもない。俺は深い溜息を吐いてその部屋に向かうしかなかった。と、


「お、来たか貧乏きいちゃん!」


 開口一番。まだ自己紹介も済んでいない同室一人を差し置いて、小学生の同級生・石橋いしばし東原うのはらが元気に声を掛けてきた。静まり返る空気の中、入り口で立ち尽くす俺の肩を組んでさっさと中に入ってしまう。


「これが岼、岼貴丞。ウチがくっそ貧乏だから全寮制に来たんだよな〜。成績優秀者って制度で」

「いや、普通に家に居ても邪魔だから捨てられただけじゃね?」

「……やめときなって…」


 盛り上がる二人を他所に、最初は嗜めていた同室の残り一人・はたもやがてその空気に飲まれてしまったのか、ただただその場で俺の事を笑い飛ばしていた。居た堪れなくてその部屋を何度か出て逃げようとしたけれど、すぐに理由をつけて連れ戻されてはまた笑い者にされる。

 最初はそんな所から始まった〝揶揄い〟だったが、小学校の時と違ったのは彼等が〝狡猾〟になったからだろうか。


 いじめグループの一人・桜井さくらいが携帯を持った事により、俺を縛る枷が増えたのは明白だった。

 今でこそSNSが普及して、どんなものでもすぐに大衆の目に晒され叩かれ。倫理観が問題視されているが当時はまだそんな危機感も無く。油断すればその動画は一気に世界に発信されてしまう、やられてしまうと言う気持ちが強かった為、俺は益々彼等の言いなりになるしかなかったのだ。

 その所為で親にも先生にも相談出来ず、友達も居なければ周囲は彼等と俺が友達だと思っている様で。


 完全に外堀を埋められ、身動きが取れない状況になってしまった。

 そして今日も。


「なぁマジで最近おもんなくね? 何かないもんかね〜」

「っ、…」


 これが合図。自分から動かなければ問答無用で殴られるし、自分で動いて場をしらけさせても殴られる。でも結局はやらないと永遠に解放されないから、兎に角笑顔で何かをするしかない。こう言う時流行りに乏しい俺だから、この合図で誰かを笑わせられた事は一度もないのだけど。


「もっと芸磨いてくれば〜? 昔の人で居たよな、お金なくて皆を笑わせて収入得てた人。あれ何だっけ」

「ピエロ? 何だっけ、つか御前はそれ以下の訳! サム過ぎて滑稽〜」

「辞めとけって、次はちゃんと仕上げてくるよな? な?」


 結局彼等は殴る口実が欲しくてこう言う事をしているだけで、本当は俺が誰かを笑わせられようが、笑わせられまいがどうでも良かったのだろう。尊厳を傷つけてハードルを上げて、俺が苦しむ姿を見たいだけ。そんな悪趣味な事をしている彼等に、嫌悪感が募る。でも一番嫌なのは、そんな奴等に都合良く飼われている俺だ。

 心の何処かで、こうしていた方が楽だと思っている自分が居る。

 彼等を下手に刺激しない様に、言う通りにさえしていれば三年。我慢すれば解放されるのだから。


 一通り俺を殴った彼等はスッキリしたのか、屋上から出て行く。最近、服で隠れる所と頭を殴られる様になった。こめかみとか、後頭部。血が出ても止血すれば髪で傷は見えないから都合が良いのだろう。それに頭を殴られれば抵抗するより先に、視界が揺らいで何も出来なくなる。

 それも彼等にとっては大変楽で。


 抵抗もしない、文句も言わないサンドバックとして俺は完成しつつあった。


「……、…ひっどい自虐」


 誰もいないその場で言葉を吐き捨てる。

 そしてふらふらと立ち上がり、治療の為に屋上を出ようとすれば先にその扉が開いて思わず数歩、後退さった。

 現れたのは黒髪の生徒だった。何を考えているのか分からないジットリとした視線を投げてくる彼は数秒、そのまま俺の事を見つめていたがやがて視線を逸らして俺の脇をすり抜けて行く。


 俺もあんな風に目だけで、佇まいで威圧出来れば舐められなかったのかな。

 そう思ってももう遅いだろう、と心の中で自嘲すれば開け放たれた屋上の扉から自室へと向かった。


 石橋、東原、桜井、弓削ゆげ。そして同室の畠とその友人、大野おおの。中学に入って凡そ一ヶ月。俺をいじめるグループは六人に増えていた。

 その所為で何時、誰に合図を送られるか分からず常に神経を張り巡らせないといけないので先に俺の身体が限界を迎えてしまった。五月の半ば、廊下で倒れた俺は直ぐに病院に搬送され、胃潰瘍になっていた事が分かった。数日の入院を余儀なくされ、そして俺の身体を検査した医師は目を覚ました俺に問いかける。


「この怪我は、どうしたの?」


 チャンスだと思った。もういっその事全てを吐いて楽になってしまいたい。

 そう思い口を開いた瞬間、先生の携帯の着信音が鳴り響いた。「ごめんね」とだけ言って病室を出る先生と入れ違いに入ってきたのは、石橋と東原。

 喉から空気が漏れる。その時の俺は一体どんな表情をしていたのだろう。

 ただ余りにも彼等が楽しそうな笑みを浮かべている事だけは分かったので、きっとサンドバックらしい情けない顔をしていたんだろうか。


「……〝自分でやった〟よな?」

「〝ドジだからコケた〟んだよな、きいちゃん」


 それだけ言って俺の肩を叩き、さっさと病室を出て行く。

 俺に着ける枷はそれで充分だ。心の中に絶えず重い何かが圧し掛かって来る様な感覚に襲われながら、病室に戻って来た先生と向き合う。


 言え。

 楽になれ、頼む。


 心の中で何かに潰されそうになる俺がそう叫んでくる。

 最初で最後の抵抗だ。分かっている。


 でも。


「……自分がドジなので、良くコケたり、打ったりするんです。すいません」






 自ら地獄に落ちた、と言うべきか。

 それから彼等の行為は益々エスカレートしてきて、暴力なんて日常茶飯事。動けなくなる程殴られたり蹴られたり、お金を要求されたり根性焼きを至る箇所にされるだけで済む方がマシだと思える位には、俺の感覚は麻痺してしまった様だった。


 きっかけは学校のトイレでの出来事。

 何時もの様に個室で六人の無駄話を聞きながら、殴られる時間を過ごしていた俺に東原が不意に口を開く。


「……なぁ、きいちゃん。もっと面白い事しようぜ」


 一瞬何を言っているのか、東原以外誰も分からなかった。その様子を笑いながら横目で見つつ、東原は携帯の画面を見せる。そこにはいかがわしい体勢の男女がサムネイルになった動画が並べられていた。この頃は全く理解出来なかったが、これは所謂R18系の違法配信サイトだったのだろう。

 全員が息を呑む。


「これ、チップみたいな機能あってさ。配信中に投げて貰える事もあんのね。……俺欲しいスニーカーがあってさぁ」

「……あ〜、成程ねぇ。……じゃあ稼がないとな」


 誰かがそう言って乾いた笑みを溢し、そして視線が俺に注がれる。まるで新しい玩具の遊び方を見つけた様な、そんな目つき。

 俺はこの時初めて、世の女性の苦しみを知った。

 何時もニュースで流れてくる時も大変そうだなと思っていたが、実際その立場に立つと言葉にならない恐怖と絶望が湧き上がって来る。何もしていなくても、そこに居るだけで標的にされる事。そして自分の存在自体が底辺で、こんな事をする事でしか価値がないと思わされる事。この為に生まれて来たのだと、思わされる事。


 配信自体はこの数週間後に行われた。

 それまでに何度、肛門には異物が挿入れられた事か。他人のものではなく、最初は細いペン、次にどこから持って来たのか、未成年では買えないアダルトグッズ。配信の前にはそんなもの入らないと絶句する程の大きさのものまで。それらを挿入れられ学校生活を余儀なくされた。

 特にアダルトグッズに至っては授業中に面白がって電源を入れるものだから、声を抑えるのに必死だった。

 兎に角絶対バレてはいけない。ーー何故かあの時の俺はそう思っていた。


 今考えたら、もういっそ派手にぶちまけて学校生活自体台無しにしてしまえば、俺も楽になっていたのではないだろうか? ただ多分、それは俺が許せなかった様に思う。この頃の俺の脳内にはチラチラと外で頑張る母の姿が映っていた。折角母が通わせてくれているのに、今俺の為に頑張ってくれているのに。

 自分だけ楽になろうとは思えなかった。


 結果的にじっくり慣らされ、拡げられてしまった後ろは配信当日彼等のものを受け入れるのには充分ほぐれていて。

 機械や無機物じゃない熱を持ったそれが奥で動く度に、我慢出来ずにはしたなく声を上げ続けた。暴力や脅迫よりも心が踏み潰される様な感覚を肌で感じて。人前で辱めを受ける方が、余程辛くて苦しかった。


 一番辛かったのは飲酒を強要され、意識がなくなるまで飲まされてから配信を回された事だ。その時はまだお酒の耐性なんてついていなかったから、喉が焼き切れるんじゃないかと言う位飲まされ、頭も身体もふわふわして視界が輝いて、ーーその後の事は本当に覚えていない。

 ただ配信の中でどうにも淫語を連発して吐いて大変だったらしい。証拠を見せてやると笑って言われたが、覚えていない事を見せられてももう今の俺には恥ずかしさ等とうに無くなっていたのでどうでも良かった。


 そう。もう恥ずかしいとか、そう言う気持ちは無くなっていたのだ。

 この時の俺にあったのは何時彼等が捕まってくれるか、何時俺を捕まえてくれるかと言う気持ちだけだった。だから表面的に彼等に付き合って、冷めた心をーーもう心とか無かったかも知れないけど、隠すのにリソースを割いていたと思う。


 ただこの態度に気づいて、逆上してきた人間が一人居た。石橋だ。

 思えば小学生の時、最初に暴言を吐いて来たのもこいつ。何かと俺に噛み付いてきては、人を集めて俺を傷つけようとして来ていたと思う。

 だからこいつだけ、理性の箍が緩いのも理解していた。キレたら何をするか分からないのもこいつだけだった。


「痛っ、ぁ」


 もう使われなくなった旧館の体育倉庫の中に押し込まれて、なす術なく倒れ込む。そしてすぐさま思い思いの暴力が振るわれた。眼鏡は跡形もなく踏み潰され、視界に一気に靄がかかる。何度も床に頭を踏みつけられ、そのままの体勢で行為が始まって。ーーここまでは何時もとそんなに変わらないいじめの範疇で。

 でも、その日は。


「うわ、何それくさ…」


 東原が不意に声を上げた。次いで他の四人も口元を覆って顰め面を浮かべる。石橋の手には泥だらけのビニール袋が握られていた。

 先日雨が降ったから、その泥だろうか? そんな呑気な事を考えていた俺は、やっと利いてきた鼻に入ってきた〝あの臭い〟に目を見開いた。


「きいちゃん、ずっと俺らが面倒見てきてあげたじゃん。なのに最近やってあげてるみたいな態度でさぁ、…ムカつくんだよお前」

「……それ、一応聞くけど、人間の?」


 畠が思わず口を出す。

 石橋は横槍を入れられた事にイラついたのか、畠を睨み付けるが面倒臭そうに「土の上に誰かする訳?」と問い返した。石橋以外の全員が、漸く事の重大さに気づく。


「いや、それは不味くね? AVでも作り物って聞くし、泥なら…まだしも…じゃないけどさ」

「寄生虫…とか、」

「は」


 不意に石橋が笑い声を漏らした。そして、口ごもっていた畠の顔を思い切り殴る。畠の友人である大野斗、弓削が畠に駆け寄って初めて石橋に対して恐怖の視線を向ける。

 張り詰めた空気が場を支配していた。

 それでも俺は、ただ黙ってその光景を見守るしかなかった。


「…何? これの擁護? お前らそっちの味方な訳?」

「そうじゃ、ないけど」

「なら黙ってろ。おい、それ上に括り付けて」


 畠を黙らせた石橋が、東原に何かを指示する。取り出したのは大縄だった。それを東原が器用に倉庫の上の梁に括り付けて行く。

 輪っか状にしたそれがだらりと垂れる。ーー何をするかは、予想がついた。

 東原以外の四人は流石に息を呑み、その異常な光景を見つめる。俺は、どんな顔をしていたんだろう。


「きいちゃん」


 恐る恐る石橋の方を見る。彼はこんな状況でも、笑っていた。






「俺らに感謝するなら、誠意を見せな。それが出来ないなら、今ここで遺書書いて死ね」







 据えた臭いと、吐き気。腹痛。意識が朦朧とする中で、俺は一人倉庫の中で蹲っていた。

 結果的に首を吊ると言う事態は避けられたけれど、代わりに何か、何か大事なものを失った様な気がする。尊厳とか、価値とかそんなものよりもっと根底の、人間としての何かを。


 あれから吐いて暴れる俺を見て、石橋と東原だけが笑ってカメラを回していた。残りの四人はただただそこに立ち尽くすだけで、その後の暴行にも行為にも、加担する事なく。ただひたすら俺を、憐れんだ目で見つめていた。

 そんな目をして見る位だったら、初めから手を貸さなければ良かったのに。

 そうして俺もその四人を憐れんだ目で見つめ返してみせた。こいつらは結局石橋と東原の言いなりになっていただけだった。この二人に目を付けられるのが怖くて、自分達よりも立場の弱い俺をいじめていただけ。それに気づいた時、初めて彼等の前で本当に笑った様な気がする。


「何笑ってんの? きっしょ」

「頭イカれたんだろうねぇ。それとも癖になったんじゃね、食糞」

「やっべ〜、親が見たらどう思うよ。なぁ?」


 石橋の声に、びくりと四人が肩を震わせる。暫くは全員無言だったが、やがて桜井が「ほ、本当になぁ! 泣いちゃうんじゃね!」と笑って駆け寄ってきた。そうして三人も顔を見合わせて引き攣った笑みを浮かべながら輪の中に入って来る。


 悪い事だと気づいているのに。

 もう辞めたいと思っているだろうに。

 「辞めよう」という言葉が言えなくて、またズルズルと罪を重ねる奴等。


 滑稽だ。醜い。

 排泄物を食った俺よりも汚くて、生きてる価値もない、ゴミみたいな人間。


 彼等が立ち去った後、俺の視線は括り付けられた大縄に目が行った。もう彼等の行いを全てバラすには、これしかないのかも知れない。

 置いて行かれた紙に、震える手で鉛筆を握って文字を書き始めた。いじめられていた事、その内容、全て覚えている事全部余す事なく。鉛筆を走らせる手は段々と速くなって行き、その最期の文字を殴り書いた瞬間、ーー力のままに鉛筆を床に叩きつけた。


 苦しい。何で自分が死ななきゃ、あいつらの罪は公にならないんだろう。

 あいつらが罪を認めて、悪かったって思ってももうその場に自分は居ないのに。


 跳び箱をよじ登り、輪っかをぐ、と引っ張ってみる。俺くらいの体重なら最後まで千切れたり、解けたりする事はなさそうだ。安堵してその輪の中に首を入れる。ここから飛び降りれば、全部終わる。痛い事も苦しい事も、もうしなくて済む。



 最期に心残りなのは、お母さんを置いて先に死ぬ事。

 どうか、この遺書がちゃんとお母さんに届きます様に。





 そうして俺は、跳び箱から身体を地面に、降ろした。






 ふと、鼻腔を擽る蜜柑の様な、檸檬の様な甘酸っぱい匂いがして目が覚めた。

 視界に広がるのは二段ベッドの上の段の木目。痛む身体に鞭打って、首を回せばそこにはかつて屋上で見かけた黒髪の男性が紙切れを持って座っていた。


「……こ、こ」


 蚊の鳴くような声に気づいたのか、その人は紙切れから顔を上げて俺に近寄る。

 相変わらず何を考えているのか分からないその目が、じっと俺を覗き込んで来た。そして一言。


「ごめん」


 と、呟いた。

 一瞬、彼に何故謝られたのか理解出来なくてそのまま固まってしまう。そんな俺を見て気づいたのか、彼は次いで言葉を紡いだ。


「…嗚呼、あの。…死のうとしてたのに、邪魔したみたいで」

「……あ、そう言う、事。…いや、大丈夫……どうせ、」


 本当に死ぬ気なんて無かったから、と言おうとした俺の唇が動かなくなる。近寄って来た彼の手に握られていたのはあの時俺が殴り書いていた遺書だ。

 読まれた、見られた。バレた。死んでしまっていたらそんな事思わなくて済んだだろうがこうして生き永らえた今、ありのままの内容をそこにぶち込んででしまった為どう彼と話せば良いのか途端に分からなくなる。


「…岼?」

「あ、いや…」


 彼は二の句を継げない俺の様子に違和感を覚えたのか、尚も顔を覗き込んで来る。と漸く自分の持っている紙切れに気づいたのか、暫し無言のまま固まりーーそして、変わらぬ表情のまま呟いた。


「読んだけど、何か不味かった?」

「……不味いよ、もう…」


 余りにもスローペースでマイペースな彼に、思わずそんなツッコミをしてしまう。

 自殺を止めて、然も部屋で治療までしてくれてそしていじめの全容を知った。そんな彼が取れる選択肢は実質一つだろう。


 彼等の輪の中に入る事だけ。


 これを先生に相談しても、状況が改善するとは思えない。もし彼が一人で石橋達に楯突こうなら彼も同じ目に遭わされてしまうだろうから。それに誰かに言うにも、ーー俺だって違法サイトの配信に加担した一人だ。然も泥酔配信までして。今更どうにも出来ない、ならば。


「…お願い、黙っていて。どうしようもないから、もう」


 そう懇願する事しか、俺には出来なかった。今まで通り知らないフリで。そうすれば全て丸く収まるだろうから。

 きっと彼も面倒事は避けたい筈。

 そう思い、その瞳を見つめたものの彼から返ってきた答えは俺を絶望させた。


「………、嫌だ」

「…は、え、なん、……何で?」


 嫌? 無理とかじゃなくて、嫌?

 相手の意図が分からず、狼狽える俺に彼は彼なりの言葉で一つずつ理由を話していく。


「…どうしようもなくは無いと思う。黙ってて、状況は悪くならないかも知れないけど、良くもならない。で、岼はどうしたいの?」

「ど、え? ど、どうしたいって、だから」

「本当にどうしようもないって思ってる? このままで良いって心の底から思ってる?」


 彼は俺が書き殴った紙切れを目の前に差し出す。

 無我夢中で書いてそのまま死のうとしたから。内容なんて碌に見ていなかったそこには、乾いた水の跡と〝助けて〟と言う文字が繰り返し書き綴られていた。


「……」

「このままで良いって思ってる奴は、死のうとなんかしない。泣きながら助けてなんて書かないと思うよ」

「…でも、じゃあ、どうするの?」


 ゆっくりと上体を起こして彼を見つめる。

 確かに心の底ではどうしようもない、このままで良いなんて微塵も思っていない。でも、だからってどうしたら良いんだ?


「俺が君に助けを求めてもどうしようもないでしょ!? たった一人で何が出来んの!! あいつら全員殺してくれる訳!? 俺だって犯罪の片棒担がされてんのと同じなんだよ、バレたら捕まるかも知れないし、て言うか、何で? 見てみぬフリすれば良かったじゃん!! そうしたらこんな面倒臭い事に巻き込まれずに済んだのに!!」


 息を荒げてそう叫べば、彼は微かに眉間に皺を寄せて口を開く。


「……見てみぬフリすれば良かった訳? 俺に、あの虐めてた奴らと同じになれって言いたい訳?」

「ち、違う、違うけど…」

「もう良いよ」


 言葉を掻き消す様に、彼が強い口調でそう言った。と、同時に自分は何て事をしてしまったんだろうと激しい後悔に襲われる。

 この人は初対面の俺を態々助けてくれたのに。もっと、ちゃんと素直にお礼を言いたいのに、どうしてもあいつらに着けられた枷が邪魔をする。何もかもを変える、その勇気が出ない。と、


「もう傷つけなくて良いよ、自分の事。大丈夫だから、言って」


 優しく声が掛けられる。驚いて顔を上げれば、そこにはやはり何を考えているか分からない瞳の彼が居て。

 控え目に、俺の手を握ると言葉を続ける。


「…言葉は、口に出さないと伝わらない。多分、そう出来ない理由があった事は分かる。でも結局、何かを変える為にはまず、自分が動かなきゃいけないんだと思う」

「……」

「大丈夫、俺が受け止める。だから言って」


 そうだ。何時も俺は、あの二人に邪魔されて来て。

 でもそれはそう思い込んでただけで実際は幾らでも。親でも、先生でも、誰かにでも言う機会はあった。声を上げなきゃ気付かれない。自分が今ここに居るんだって事を叫ばないと、誰にも気付いて貰えない。

 多分、そう叫んだ所で誰にも受け止めて貰えないのが怖くて、足踏みしていたんだと思う。でも今は。




「……い、苦しい、もう、助けて、」




 俺は搾り出す様な声でそれを伝えた瞬間、今まで我慢してきたものが堰を切って溢れ出てきた。

 やっと言えた。菰淵学園に入学してから約九ヶ月。


 季節はすっかり冬になり始めた頃、俺は漸く全ての重圧から解き放たれた。


 





 あの後。俺は自分の寮には帰らず、彼ーー千堂真夏の部屋で過ごす事になった。

 真夏は隣のクラスに所属していたが、何時も人気のない場所を探しては自分達が居て困っていたらしかった。最初は同じサボりかと思って深くは関わろうとはしなかったが、こう何度も鉢合う度に彼等の違和感に気づいて行ったのだと言う。


「きっかけは貴丞と屋上で鉢合った時かな。明らかに血じゃね? って言う跡があったのと、まぁ初めてちゃんと貴丞の顔見たら察したって感じ。そこからずっと見てはいた」

「……ず、ずっと? もしかして、配信の時も?」


 俺がそう問い掛ければ、彼はさも当たり前かの様に頷く。


「あいつらの屯してる場所は凡そ見当がついてたから。妙に羽振りも良いし、絶対良くない事やってんなぁと思ったね」

「……あ、嗚呼、そう…」


 余りにも真夏が表情を変えず言うものだから、俺の方が困惑してしまった。

 仮にもその光景を目にしているのだから、何かしらフォローを入れたりするかと思っていたが。彼は本当に気にしていないのだろうか、と俺がしどろもどろになっていると、真夏はその様子に気付いて漸く何かを理解したのか頭を掻く。

 

「…嗚呼、いや別に、気にしてないって言ったら嘘になるけど。…別に態々蒸し返されたくもないかなって。気にしない方が、気遣わないで良いかなって思ったんだ。…無愛想だったらごめん」

「え、あ、そ、そうだったんだ。ごめん、有難う…」

「だって言われたくないだろ。貴丞が石橋に無理やりアナルプラグを抜かれて…」

「ちょっと!! 蒸し返されたくないって!!」


 真夏の爆弾発言に思わず大きな声が出る。先程まで話していた気遣いの話はどこへ行ったのか。と言うかそんなに詳しく見られていたのか、と気付けば恥ずかしさで顔が熱くなる感覚がする。なのに当の本人は「あれ良く入ってたな」と尚、独りごちていた。

 全くマイペース過ぎるのか、気遣いが裏目に出てしまう人なのか。兎にも角にも俺の学校生活は真夏に助けられてから180度景色が変わり、ーー大分息がしやすくなっていた。

 勿論自殺未遂をしてから数週間、今尚元の部屋には帰れず学校にも行けていないけれど。

 誰にも知られず一人で過ごす時間が、こんなにも穏やかなのは久し振りだった。


 だけど、時間が過ぎていく度に解決しなければいけない問題があり、それに向き合わなくてはいけないと日に日に思う様になった。


 一つは学校に行く事。

 もう一つは、彼等にいじめを辞めてもらう事。


 どちらも、到底解決しそうにない問題だった。学校に行けばまたいじめられる。然も今俺は彼等から逃げている状況だ。捕まって今まで何処に居たのかと問い詰められるに決まっている。そんな状況でいじめを辞めてくれと懇願しても、彼等は聞き入れるつもりなど毛頭ないだろう。

 どうすれば一番平和に解決するのか。

 そんな事を考えながら一ヶ月が過ぎたある日、部屋に帰ってきた真夏が俺の鞄や制服を持っているのが分かった。本から顔を上げた俺はそれに気づいて、ーー思わず心臓が跳ねる。


「…それ、持って来たの?」

「教科書もノートも全部持って来た。もう大丈夫だと思うから、明日から学校行ってみると良い」

「……どう言う事?」


 全く理解出来ない。真夏にそう問い掛けても「行けば分かる、大丈夫」と言って本当の事は話して貰えなかった。不安と緊張が身体を支配する。然し、心の何処かで冷静に物事を考えている自分も居て。

 俺は布団の中で思考を巡らせる。

 真夏は俺の部屋から俺の荷物を全て取ってきた。然も学校が終わって帰宅する際に寄ったのなら、同室の三人が居る筈。真夏は俺の部屋の鍵を持っている訳ではないし、と言う事は畠に開けて貰った? 石橋と東原なら執拗く俺の居場所を聞いて離さないだろうから。

 じゃあ畠は安全? 一抹の希望が脳裏を過ぎる。だがぶんぶんと首を振り、その思考を払い除けた。


 これまでにも畠や大野が今までの事を謝って騙し討ちをしてきた事は何度かあった。その度に人を簡単に信じてしまう自分に嫌気がさして、もう次は誰も信じないと心に決めてまた優しさに漬け込まれて。…今回もその線が濃いだろう。あろう事か真夏に対して友好的な態度を取るなんて。

 そう考えるとぐっと腹の中に良い知れぬ不安が溜まる。どうしよう、次に真夏が標的になってしまったら。


「…」


 そう思えば、俺はのそりと布団から顔を出して向かいの二段ベッドの下段で眠る真夏を見やった。

 この一ヶ月ずっと付きっきりで面倒を見てくれて、たまに眠れなくなって過呼吸を起こす俺を落ち着くまで宥めてくれて。何でそこまでしてくれるんだろうとか、もしかしたら裏があるんじゃないかとか思った事は何度もあったけど。

 多分真夏は本当に心の底から助けようとしてくれていただけなんだと、一ヶ月ずっと一緒に居て理解した。


 無償の愛に、何か返さなきゃ。

 ふぅ、と深呼吸を一つ。俺は冴えた頭を誤魔化す様に目を閉じて明日を待った。



「………」



 そして今日。震える足を教室にまで向かわせて、目にしたのは畠と大野。それだけだった。

 あの四人の席が、名前がクラスから消されてしまっている。然もそれを気にも留めず、畠と大野以外のクラスメイトは「岼君久しぶり」だなんて声を掛けて来た。あの六人以外から声を掛けられるなんて初めてに近いものだから、ちゃんと挨拶を返せていたかは分からないが。


 何が何やら分からぬまま、ホームルームを終えて授業が進む。学校で過ごす時間は至って平和に流れていった。


 ………。

 いや、そんな事で納得出来る訳ないし!!


 俺は心の中で盛大にツッコミを入れた後、昼休みのチャイムが鳴ったと同時に大慌てで隣のクラスに駆け込む。と、


「貴丞」


 彼は俺が飛び込んでくるのを知っていたのだろうか。クラスに入る一歩手前で抱き留められ、思わず身体が硬直する。これが後遺症、みたいなものだろうか。真夏はそれに気づけば直ぐ様身体を離して、「悪い、吃驚させた」と手を握り直して来た。急激に速まった拍動が、ゆっくりと落ち着いて行く。


「…話すよ。こっち」


 そう言って手を引かれ、俺達は誰も居ない空き教室に入った。

 少し埃っぽい匂いがして、何だか懐かしい感覚がする。この懐かしいは、二度と味わいたくない感覚だけれど。


「…あの四人は退学処分になった。俺が煙草の事とか、飲酒とか諸々証拠を押さえてSNSでバラしたから」

「な、」

「勿論いじめやサイトの事は言ってない。それは貴丞に許可を取ってからじゃないとと思っていたから。これで四人に何の罰も与えれられなければ、貴丞に相談するつもりだった。でも芋づる式に過去、いじめられていた人とかが出て来て学校にかなりクレームが入って、……あの四人は無期限謹慎処分、実質退学を喰らった訳。いじめ被害者が起訴するんじゃないかって話も出てる。酷い事やられて、引っ越ししたみたいだしな」

「……そ、うだったんだ」


 そこまで聞いて不意に二人の事を思い出す。

 同じタイミングで、真夏が口を開いた。


「あの二人は、ーーあの日、首を吊らせようとした後に俺に〝岼を助けてくれ〟って言ってきたんだ。後は煙草や飲酒の証拠押さえの時、二人は居なかったから告発出来なくてな。勿論そんな事で許せる訳ないと思ってる。だからあいつら二人を許すかどうかは貴丞が決めてくれ。許せないなら罰を受けてもらう」

「……」


 そう言えばあの時、あれを食べさせようとした石橋を最初に止めたのは畠だった。

 だからと言って当然許すつもりもないけれど。あの四人が退学した今、俺に接触して来てないのならもうそのままで良い。


 正直に言えばもう、関わりたくなかった。


 真夏にそう伝えれば、彼は少し物足りなさそうにしながらも「分かった」とだけ呟いて持って来たパンの袋を開けた。俺もそれに続いて買ってきたお弁当の蓋を開ける。

 このまま何もなく、過ぎれば良い。あの日々の出来事が二度と起こりません様に。


 そう願うばかりだった。






 季節は流れ、二月。

 学校でのいじめはすっかり無くなり、年末年始は母と共に穏やかな日々を送った。真夏を友人として紹介する事も出来たし、初めて友達と遊びに行くなんて事も出来た。その全てが輝いて見えて、ーー気づけば真夏に言い知れぬ好意を抱いている事に気付いて。


 俺は絶賛、葛藤中だ。


 相談出来る友人なんて真夏以外に居ないし、母に打ち明けてもどうなるか分からない。もしかしたら受け入れて貰えないかも知れないし。それに何より、真夏自身にこの思いを打ち明けて拒否なんてされてしまったら。それならもうこのままでも良いと言う思いと、ーー真夏の隣に誰かが立ってしまう事の嫌悪感に揺さぶられて、俺は毎日悶々とした日々を送る他なかった。


 せめて中学卒業まで待つべきか? とも考えたものの、以前校門前に他校の女子生徒が待ち伏せしていて真夏に手紙を渡していた事もあった為、卒業までに誰かの告白を受ける可能性も十分ある。この思考は危険だ、と思い直したがかと言って行動に移す訳にも行かないし。


 そもそも俺、真夏のどこが好きなんだろう。

 マイペースだし、何考えてるか分からないし、気遣いは裏目に出るし、デリカシーがないし。この間なんか人がシャワーを浴びてるのに勝手に扉開けてくるし、ダメだって言ってるのに抱き締めて来るし。そもそもの距離が近い。かと思えば自分の意見はまっすぐ伝えてくるし、嫌味は感じないし、優しいし、うわ、恥ず。

 冷静に真夏の好きな部分を挙げていけば、何だか自分が思春期の女子みたいな事をしているのに気付いて思わず机に顔を伏せる。と、


「貴丞」

「うわぁっ!?」


 慌てて飛び起きれば、眼前には件の真夏が居て。はっと気付いて辺りを見回せば教室にはもう俺しか残っていなかった。然も時刻は十九時を回りそうになっている。

 つまり、ホームルームが終わってからずっと真夏のことを考えていたと言う事になる。恥ずかしすぎて合わせる顔がない。


「…帰って来ないからまさかと思ったけど、何やってんの?」

「や、まぁ…考え事……」

「ふぅん? 進路とか?」

「そ、そんな感じ、……ぁ」


 何とか誤魔化そうと笑みを繕い真夏の方を見れば、その手には白い封筒が握られていた。見たくないのに、視線がそこから動かせない。封筒の隅には女の子らしい名前が書かれてあって、それがラブレターだと言う事に瞬時に気がついてしまった。

 その視線に気付いて、真夏が机の上にそれを投げる。


「…嗚呼、何かさっき貰ったんだよ。〝明日遊びに行きませんか〟だってさ」

「え、…へぇ、凄い。やっぱモテるんだね」

「断ろうとしたんだけど、明日待ってるからそこで教えて下さいって言われて、これも押し付けられた」

「……行ってみれば? もしかしたら、馬が合うかも知れないよ」


 言ってから、自分の馬鹿さ加減に溜息が出てしまう。馬が合ったら困るのは自分なのに、まだ〝良い友達〟のフリをしている。

 真夏は少し黙り込んで、封筒から紙を取り出しそれを読み始めた。


「一目惚れだってさ。……本当に行って良いの? 断るつもりだったんだけど」

「…だ、だってここは男子校だし。出会いなんて超貴重じゃん。…勿体無いよ」


 勿体無い。たかがこんな地味な自分と一緒に居るより、女の子と一緒に居た方が楽しいかも知れない。

 ふと、いつぞやの真夏の言葉を思い出した。


 ーーもう傷つけなくて良いよ、自分の事。


「貴丞?」


 その言葉を思い出した瞬間、涙が止まらなくなって。

 俺は真夏が制するのも聞かないまま教室を飛び出した。


 やっぱり俺は自分の事は大っ嫌い。

 大人になっても今もこれからもきっと、こんな自分は一生好きになれないと思う。

 弱虫で、情けなくて、泣き虫で、恥ずかしがり屋で、大事な時に素直になれない厄介な人間。人には向き合わなきゃいけない事を教えるのに、自分は逃げてばかり。自分が辛い思いをすれば良いかと全部背負って、そして誰にも助けを求められなくて潰れかけてしまう、馬鹿な奴。


 結局その日、消灯時間ギリギリに寮の部屋に帰ってきた俺はすごすごと自分の布団に潜り、何もかもが終わってしまうであろう明日を迎える事となった。


 真夏とは気まずくて朝から一言も話していない。

 こんな形で誰かに奪われてしまうのか。否、後押しをしたのは俺で紛れもなく自己責任、因果応報なのだけれど。後悔先に立たずなんて言うけれど、本当にその通りだ。こんなに悲しくなるなら、あの時勢いで伝えれば良かった。

 思い出してまた涙が出そうになるのを、顔を上げて我慢しようと思った時。その目の前に真夏が居た。


 ……何で?


「…真夏、もう下校時間だよ…?」

「お互い様だろ。そんな事より、ほら行くぞ」


 ぶっきらぼうにそう言えば、真夏は強い力で俺の腕を引っ張る。理解が出来ない俺はただ言われるがままに引っ張られるしかない。

 行くって何処に? 何で俺? 聞きたい事は山程あったが真夏の行き先に辿り着けば、質問は頭から吹っ飛んでいた。


「あ、…真夏、君」


 隣町の女子校の制服だ。つまり彼女が真夏にラブレターを送った本人。大人しそうではあるが可愛い。その周囲には彼女の友人らしき女子が数人固まっている。ニヤニヤしながら見守っている所を見ると、真夏が受けると分かっているのだろうか。何でこんな所に連れて来られたんだろう。

 こんな形で心を踏み潰されるなんて、前代未聞だ。多分あのいじめよりも苦しい。俺は彼女達を直視出来なくて地面の砂を見つめる。と、



「ごめんけど、今日遊びには行けない」



 そんな真夏の声が響いた。女子達が、息を呑む音が聞こえる。

 思わず顔を上げれば、もう既に泣き出しそうになっているその子の顔が視界に映った。

 確かに断ろうとしていた真夏だけれど、俺の言葉で行く気になったんじゃないのか? 困惑する俺を他所に真夏は言葉を続ける。


「後、告白も受けられない。俺は好きな人居るから」

「え?!」

「は?!」


 校門前がざわついた。これは俺も初耳だ。反射的に声を漏らせば、真夏が振り向いて俺の名前を呼ぶ。


 その瞬間、全てを察した。

 ちょっと待ってくれ、今この校庭には部活中の生徒も居る。勿論隣町の女子校の生徒も居る。そう考え、後退る俺の腕を痛い位強く引いた真夏はーー笑っていた。



「ごめん、逃さない」



 そう言って、手を絡めて。



「貴丞のこれからの時間、俺にくれよ」







 それからどんな言葉を返して、どうやって寮に帰宅したかは全く覚えていない。

 ただ全く整理出来ない感情が心の中でぐちゃぐちゃに混ざって、自分でも今どんな気持ちなのか理解出来なかった。でもこれだけは言える。


 間違いなく、この時俺は自分の人生の中で一番、幸せだった。


「…て言うか、俺のどこが好きになったの? 好きになられる要素なんてどこにも無かったと思うんだけど」


 そんな出来事があってから丁度一週間が過ぎた辺りだろうか。寮の部屋でのんびりと過ごしていた時、俺は意を決して真夏にそう問い掛けた。真夏は寝そべった状態のままスマートフォンから顔を上げて、又視線を戻してポツリと呟く。


「守りたかったから」

「…それだけ?」


 その返答に少しだけ物足りなさを感じたのは贅沢だろうか。こう、普通は格好良いだったり、可愛いだったり。或いは一緒に居て楽しいだとか気楽だとかあるんじゃないのか? 何だか自分自身に魅力が無いと言われているみたいで、思わず返答に詰まった。然し。


「何? 好きな所を挙げていけば良い訳?」


 真夏はその思惑すらも見越していたかの様に上体を起こし、にこりと微笑んで、そして。


「まず可愛い。顔もだけど、性格も。一人で抱え込もうとするのはいただけないけど。後体育の時、髪の毛結ぶ方も好き。首細いのは心配になる。大人しい所も好き、うるさいのは嫌いだし。かと言って静か過ぎないのも良い、適度に会話してくれるから凄い居心地が良い」

「あ、あーもう、もう良いです、あの」

「誘った所全部で本当に楽しそうにするから嬉しい、意外と可愛いもの好きで可愛い。後は」

「もう良いってば!!」


 してやったりみたいな表情を浮かべてこちらを見てくる真夏に、何も言い返せない。そうだ、こいつはそう言う男だった。

 でも、こういう馬鹿みたいな質問に真剣に答えてくれる所が男らしくて憧れもした。だから自然と惹かれて行ったのかも知れない。


 そうして真夏の腕が伸びてくる。控え目に、けれど視界に映るように。思えば、彼は絶対に眼前に勢い良く腕を伸ばしに来なかった。きっと無意識に俺が殴られると思って身体を硬直させる事に気づいていたのだろう。頬をするりと撫で、まるでそうするのが当たり前かの様に距離が縮む。


 この二週間と、正確には二日ちょっとは本当に幸せだった。今思い返しても、これ以上の幸福は人生で味わった事はない。

 だから絶望の淵に立たされても、きっと耐え抜けたんだろうと思う。


「今終わったから、向かうね。三十分位になりそう、…うん。じゃあ」


 学校の委員会活動が少しだけ長引いて。先に待ち合わせ場所で待っている真夏の元へ急いで向かう、初夏の夕方。

 今日は何やら見せたいものがあると話しており、何時にも増して上機嫌だった。俺には全く見当が付かなかったのだが。でも。


 でもそんな日に限って、神様は笑う。


 大通りで信号待ちをしていれば、突如轟音を響かせて黒いハイエースが目の前に停まった。他の人も唖然としており、勿論俺も何が起こっているのか理解が出来ず固まってしまっていた。そんな中、出て来た刺青だらけの屈強な男性達が迷いなく俺の腕を掴む。


「こいつで間違いないか?」

「ん〜、あの子達から貰った写真通り。その子が岼君だねぇ」

「よし」


 名前を呼ばれて、そして。鋭く、重い拳が頭を揺らした。それだけで意識が遠のきそうな位。身体の自由が奪われ、ずるずると車の中に押し込まれれば、ハイエースは又何事もなかったかの様に動き出した。

 ギリギリと細くて硬いもので両腕を拘束される。車の中では「修理代はこれ位か」だとか、「全部売ったらお釣りが来る」だとかそんな話で持ちきりだ。

 やがて車はどこかの雑居ビルの前で停まる。連れ出されて歩いた先の、エントランスの看板には〝御菩薩池みぞろげ組〟と書かれていた。勿論自分はこんな組知らないし、何かをしでかした記憶もない。なのに彼等は止まる事なく俺を小さなオフィスまで連れて来ては、乱雑にソファの上に投げ捨てた。


「痛、っあの、何」

「何じゃねぇよ。ウチの会長の車に傷つけやがって、然も何も言わずにお友達を捨てて逃げるなんてなぁ」

「……お、お友達……?」


 一瞬真夏の事かと思ったが、彼がそんな事をする訳ない。それ以外に友達なんて…と思っていれば、オフィスの奥から出て来たのは治療はされているものの、顔面が腫れ上がったーー石橋と東原だった。呼吸が止まり、冷や汗が滴り落ちる。何で、ここに? 否、それより。

 彼等の顔を見た瞬間、全部を察した。彼等は俺を売ったのだ。然も、自分達を見捨てて逃げたと言うありもしない嘘をでっち上げて。

 怒りなのか恐怖なのか分からない感情が脳を支配する、俺は向かいのソファに優雅に座る、ヤクザには見えない白いスーツを着こなした深緑色の瞳の男に向けて声を張り上げた。


「違います! こんな人達知りませんっ、俺は何もしてませ」

「この子達を虐めて、退学にまで追いやったらしいよねぇ君。可愛い顔してやる事えげつないなぁ」

「はぁ!? 違います、いじめ……」


 言い掛けて止まる。あの時の恐怖が全身を包み込んだ。痛みも、苦しみも自分の方が理解っている。なのに、それを言葉にする事が出来ない。組員達はそれを言い訳と解釈したのか、「まぁその事は良いのよ。本題はこっち」とあっさり切り捨て、一枚の紙を差し出して来た。


「これね、請求書。会長の車は結構古くて良いモンなのよ。まぁ古過ぎて修理代がいちいち高いのね。んでこれが君に払って欲しい金額。俺らは修理代さえ貰えれば次から気を付けな、で終われるからさ。……払ってくれないかなぁ」


 机の上に置かれた紙切れには何やら難しい事が書かれていて。その下に合計金額らしい、俺にはとても支払えそうにない金額が記載されていた。

 と言うか、中学生にこんな金額払える訳がない。彼等も分かっているのだろう。彼等の目的は修理代を貰う事ではなく、目上の人物の所有物に傷をつけた人間に苦しみを与え、そして自分達に手を出せば子供でも容赦しないと言うイメージをつける事なのだろう。

 ヤクザと言う組織に身を置いた今の自分なら分かる気がする。自分はそんな事、する必要はないと思っているけれど。


「まぁ、払えないか。それなら……、身体で払って貰うしかなさそうだね」


 周囲に立つ組員がくすくすと微笑む。その言葉は知っている。嫌な予感が脳裏を過ぎったと同時に、「嗚呼、違うよ?」と白いスーツの男が声を掛けた。


「別にそう言う商売もしてるっちゃしてるけど。君の場合はすぐ壊れそうだし初めてじゃないでしょ? 臓器だよ臓器。身体の中の全部抜かせてねって話」

「……ぞう、き…」

「払えないんだから仕方ないでしょ? 君のお母さんには別の道で手伝って貰おうかな。子供の失敗は、親が責任持たなくちゃね」

「え、か、母さんは、やめてください、あの、俺一人でどうにか、」

「岼君ごめんね」


 優しい声音が、俺の言葉を止める。ヤクザとは思えない位の柔らかい声色なのに、有無を言わせない圧が全身に掛かって俺は息を呑んだ。


「俺達はヤクザ。君が泣いても叫んでも、メンツの為に苦しんで貰うしかない訳。…じゃあ後は任せるよ」

「はい」

「え、ッい、嫌だ待って下さい! お願いします母さんだけはやめて下さいッ! お願いしま、ッ」


 そこで、首筋にちくりとした痛みが広がる。ふわふわとした高揚感が襲い掛かり眠気に勝てず、ーー俺の意識は途切れた。

 別に酷い暴力を受けた訳じゃない。組員のサンドバッグにされた訳でもない。一日に二回、俺と同じ位の青年が扉の窓からパンと水だけ入れてきて。それ以外は一切光も音も入って来ない小さな部屋で俺は一人で過ごしていた。


 今になって思うけど、派手な暴力や人の暴言の方がマシなんじゃないかなって思う。

 生活感のない壁に囲まれた部屋で、音もなく陽の光も浴びれず。孤独で、死を待つだけのこの時間が、俺にとっては絶望そのものだった。時計も無いから今が何日で、何時なのかも分からない。外が見えないから、今頃母親がどうなったのか、真夏はどうしているのか。警察は動いてくれているのかも分からない。


 一分一秒と、息の詰まった空間で、俺は次第にどう死ぬのかを考えて、恐怖で身体が震えて訳もなく叫んで暴れて壁を引っ掻いて、頭を打ちつけて。

 自分が自分じゃなくなって行く感覚が恐ろしかった。

 セカイから隔絶されて忘れ去られてしまったんじゃないかと思って。

 会いたい、母さんに。

 真夏に。

 抵抗しなきゃ。


 全部諦めたら、彼等が来る。

 本当に俺を殺しに来る。


 諦めなければきっと何時か会えるから。

 だから諦めたらいけない。


 壁に血まみれの傷が増えても。

 床に髪の毛が散らばって行っても。

 指先の感覚がなくなっても、もう食べる事自体が億劫になっても。


 生きなきゃ。

 抵抗して、お願い。


 


「ーーーッッ!?」




 そうして何週間かが経った日のこと。とうとうガタン、と部屋の扉が開けられた。

 奴等が来た、そう思ったけど空腹で視界が霞む中見えたのは、青灰色の瞳に長い黒髪。杖をついて来た血だらけのその人はいの一番に俺の元へ歩み寄ると、ゆっくりと抱き締めて来た。何時もは知らない人に身体を触れられたら吃驚してしまう筈なのに。


「……頑張ったな、大丈夫。お前の母ちゃんも無事だよ」


 何故かその人から母の匂いがして、安心してしまって。

 漸く、眠りに就いた。


「……お前はどうすんだ。告発して、御菩薩池組も無くなった。一人で生きて行けんのか?」


 貴丞が眠りに就いたのを確認して。彼は後ろに居る青年に声を掛けた。

 琥珀色の瞳に空色の髪の青年は青ざめた表情をして、震える声で何とか応える。


「……オレは、オレも、死ぬんじゃないんですか?」


 こうしたのはほんの気まぐれだった。日に日に痩せ細り、発狂して抵抗を辞めていく人間等彼は何人も見てきたのだ。御菩薩池組の裏の掃除係として、組員がやりたがらない事を行なってきた彼は、今回も抵抗するまで見届けるつもりだった。けれど。

 ずっと貴丞は諦めなかった。通常なら一週間程で諦めて倒れてしまうのに。そうして倒れた人間を解体して、臓器を抜いて金に変えて。

 そんな事をし続けてきた彼だったからこそ、貴丞の諦めない姿勢を見て何かーー心の底で罪悪感とでも言うのだろうか。そんなものが芽生えて、引っかかってしまってそうして。

 連龍会直参天宮城うぐしろ組組長、天宮城聖うぐしろひじりに助けを求めたのだ。


「……お前が何しでかしてきたかはもう理解した。同時にお前は〝もう死んだ人間〟だ。お前を裁く事は出来ねぇよ、だからどうするって聞いてる」

「……オレ、は…どうしたら」


 何時も彼の行動や思考を決めてきたのは兄、御菩薩池組組長の御菩薩池藤麻みぞろげとうまだった。深緑の瞳をした、白いスーツの男。だがもう今はオフィスで血溜まりの中に倒れてしまっている。誰も彼の意思を決める者はいない。と、その態度に嫌気が差したのかしどろもどろになっている彼の胸ぐらを聖は掴み上げた。


「知らねぇよ。お前の道位、お前が決めろ。オレはお前の保護者でも無ければご主人様でもねぇし」

「……」

「お前がオレに告発してきたのは何でだ? こいつをどうして助けたくなった? 理由があんだろ」

「……それは、…何て言うか…」


 自分が抵抗を諦めた最初の被害者だったから。心の中で誰かがそう叫んだ時、彼の中でスッと蟠りが消えた気がした。

 幼少期に死亡届を出され、組の裏側で厄介事を引き受けてきて、十数年。もっと力をつけろ、と無理やり飲まされた黒い薬の所為で化け物にも変えられた。この黒い血が御菩薩池組と繋がっている枷。自分はどう足掻いたってこのまま独りで、誰にも見つけて貰えないまま死ぬのだと思い込んでいた。

 そして、この部屋に入れられた人間も自分と同じだと思っていた。無意識に彼等を仲間だと思い込み、そうして死に逝く仲間を見て〝良かった、自分はまだ生きている〟と心のどこかで見下して安寧を保っていたのだ。


「……だから、強いあいつが、羨ましくなった…」

「成程ね。まぁ強い奴に憧れる気持ちは分からねぇでもねぇな。で、どうにかしたいと思った訳か?」


 聖の問いかけに、青年は首を振った。


「そんな、綺麗事じゃないです。……オレも抜け出したかったのかも知れません、あわよくば、全部終われば良いのにって」

「……ふぅん、そう言う事。……じゃ、行くか」

「……え?」


 彼の意思を聞いた聖が、そう言って徐に手を引く。青年はイマイチ状況が掴めず、手を引かれても尚困惑した瞳を聖に向けていた。

 貴丞を抱えた聖は彼に屈託ない笑みを見せながら、力強く。



「お前も来いよ、連龍会。折角なら新しい事やってみようぜ」



 そう言って、二人は地獄から抜け出した。

 




 俺が目を覚ましたのはそれから数時間後。

 い草の香りが肺を満たし、ーーそこで意識が完全に浮上した。今まで居た所は鉄錆と、泥の様な臭いが充満していたから。慌てて起き上がって周りを見回して。ここが先程の部屋とは比べ物にならない位広くて、清潔感のある部屋だと理解した瞬間。俺の瞳からボロボロと涙が溢れ出た。と、


「…お、目ぇ覚めたか貴丞。お前マジで災難だったなぁ」


 意識が途切れる前に聞いた男の声がして思わず振り返る。

 明らかに寝間着だろう衣服を着て、杖をついている黒髪に空色のインナーカラーの男。先程助けに来てくれた人と相違ないが、改めて見れば第一印象は〝病人〟だった。何故こんな人があの場所に? 考える前に、その男の後ろから前に出て来た女性が口を開く。


「岼貴丞、だな? とりあえず自己紹介をしよう。私は化野祈愛あだしのきさら。玖都化野団地を管轄する極道組織連龍会会長代理だ。そしてこいつが」

「連龍会直参天宮城組組長、天宮城聖。いやぁ久しぶりにこんなに暴れたねぇ〜」

「暴れるなとあれ程言ったのに殆ど一人で片付けて…後でみよしに詰められても知らないからな、と…話が逸れた」


 祈愛と名乗ったその女性は俺の方へ視線を戻す。と、その表情が一瞬呆けたものに変わった。

 そして口角を緩めて微笑んで見せる。


「……嗚呼、そんなに怯えた顔をしなくても私達はお前を売りはしないし、また監禁する訳でもないから安心してくれ」

「や、あの、だって…え、れ、れれ、連龍、会…? あ、あの!?」


 きっと俺の反応は正しいものだろう。この大郷で首都とされる統京とうきょうの隣、その次に大都市と認知されている玖都の顔とも呼べる東部最大の極道組織の会長代理が目の前に居るのだから。然もその組織が態々俺を助けてくれた。

 一体どんな報復や見返りを求められるのか、恐怖で仕方がない。それでも祈愛さんは笑って全てを否定した。


「何も見返りは要らないし、報復もしない。お前が捕えられた御菩薩池組は、……私達と余り関係の良くない組織と繋がっていてな。丁度おいたが過ぎたから灸を据えてやろうと思っていた所だったんだ」

「そうそう。だからお前は何の心配も要らねぇよ。ただ一個、取引でもしねぇかなと思ってよ」

「……と、取引?」


 俺が身構えると、祈愛さんは静かに口を開いた。


「お前と、お前のお母様の事だ。先程も言った通り、御菩薩池組は私達と余り関係の良くない組織と繋がっていた。偶然とは言え、昔お前を虐めていた奴等が彼等の会長の車を傷つけたそうだな。彼等二人だけじゃないんだろう? お前を虐めたのは」

「……」


 ぐるぐると視界が揺らめき、吐き気が競り上がるのを何とか抑え込みながら俺は頷いた。

 それを見て祈愛さんは話を続ける。


「……組長一人が動いたのも良くなかったし、勝手にそこの人間を連れて帰ってきた事も不味い。殺してないんだろうお前」

「え? はい。だって殺しはダメって言ってたじゃないですかぁ」

「いっそ殺してくれた方がマシだったかもな…」

「ええ?!」


 聖さんが「なら全員ぶち殺したのに!」と文句を垂れる中、祈愛さんは何を理解すれば良いのか分からない俺に向き直り、話を戻す。


「つまり。御菩薩池組は私達と余り関係の良くない組織、西部にある千華連合と繋がっていた。千華は有益な人間をみすみす逃す真似はしないだろう、色々話すと混乱するだろうから割愛するが、私達の情報を抜ける組織が一つ減ったんだ、彼等は手を替え品を替えまた誰かと繋がろうとするだろうな。そして、たかが住民一人に動いた天宮城組の組長に目をつける。組長を動かした人間として、……お前はまた利用されるかも知れない」

「……何で?」

「私達の目標が、玖都に住む全ての人間を守る事だからだ。だから私達はお前達を見捨てられない。彼等は何の接点も持たない人間から情報を抜く事はしないだろう、それよりも連龍会と接点を持った人間を狙う。理由は私達はそう言った人間を簡単に切り捨てられないから。必ず誰かが前に出て来ざるを得なくなり、連龍会にとって不利な状況を作ろうとする」

「……じゃあ、どう、したら」

「ここで取引だ」


 祈愛さんが言葉を切った。

 その真剣な表情から、俺は安心感を覚えた。

 何かを守りたいと言う気持ちと、ーー何かに巻き込んでしまうと言う罪悪感が目に見えたからかも知れない。


 もう戻れなくなった俺を、この人達は本気で救おうとしてくれている。


「連龍会に入れ。聖の元で鍛錬を積み、利用されない人間に、連龍会の為に動ける人間になれ。……そしてこれは、お前のお母様の為でもある」

「…母さんの為?」

「連龍会に入ってしまえば、あいつらは簡単に手を出せないからだ。あいつらが欲しいのは〝連龍会と接点を持った操りやすい外の人間〟であり、〝連龍会の人間〟ではない。現時点でこの中にスパイを入れられるかと言ったら難しいだろうし、今は連龍会と正面戦争する気はないだろうからな」

「……連龍会に入れば、……今度こそ母さんを守れる?」


 正面戦争? 千華連合? 今の俺には全く理解が出来なかったが、これだけは聞きたかった。

 ここに入って役に立てば、少なくとも母はもう、辛い目に遭わなくて済むんじゃないだろうか。

 もし断ってまた利用されれば、母に悲しい思いをさせる事になる。一ヶ月も居なかったのだから、またこんな事が起こるのではないかと不安にもさせてしまうだろう。だから、折角掴んだチャンスなら、俺の願いは一つだけだった。


 母を守りたい。それだけだ。


「…お前が死ぬ気で頑張れば、少なくとも。お母様に苦労を背負わせる事はもう二度とないだろう」


 祈愛さんの答えに、俺は心の奥底で何かが決定した様な、すっきりした様な感覚を覚えて。

 僅か中学二年生ながら、俺はヤクザの世界に足を踏み入れる事となった。




 その後俺は母に聖さん、祈愛さんに支えられながらも勉学に連龍会の仕事に鍛錬、生活の全てを教え込まれる事となった。

 母はと言うとあの後部屋に入ってきて、ボロボロの俺を抱きしめて小一時間程泣き通してから、祈愛さんと話をして。ひとまず連龍会の離れに一緒に住まわせて貰う事になり、これで漸く心の重荷が解かれた感覚を覚えた。


 その上で。

 俺は高校には進学しない事を決めた。


 理由は三つある。まず連龍会で生きると言う決断をした以上、高校に行く余裕はないと判断したから。学費の事は心配ないが、と祈愛さんが言ってくれたが俺はそれでも首を横に振った。

 それっぽい理屈を並べたとしても、結局は怖いのだ。

 またあの空間で一人、取り残される様な事になったら? 俺を虐めた人間がまた同じ高校に入っていたら? 俺はその時点で、退学を決意するだろう。


 そして最後。あの日から真夏とは会っていないから。

 連龍会で約一ヶ月療養して、母と聖さんと共に寮の荷物を引き取りに来た際担任がポツリと呟いたのだ。


「仙堂君も貴方が居なくなってから数日経った後に突然居なくなってね。鏡都の方から退学届が送られて来た時はビックリしたわよ」

「……、鏡都?」


 聖さんがやけに神妙な面持ちでそう問い返す。

 この時の俺は知らなかったが、鏡都の島原には連龍会と対立している組織・千華連合がある。だからこそ聖さんは警戒したのだろう。そしてその読み通り、真夏は十五年後にヤクザの人間として姿を現していた。


 あの時真夏に何があったのか。

 どうして何も言わずに消えてしまったのか。


 一人で置いて行かれたショックよりも〝何で?〟の方が気持ちが強かった。だから真夏の居ない高校生活も全く気乗りがしなかった為、俺は進学を諦めて連龍会で実力を伸ばす選択をした。

 苦手な血も暴力も、慣れなければいけないのはかなり過酷だったが。


 だってそうだろう。

 暴力で人を支配する事に散々疲れ切った俺が、今度は加害者側に立つなんて。


 最初の頃は、人を殴れない俺に聖さんの部下達は皆呆れ果て、やがて教える事を放棄した。そりゃそうだろう。聖さんや会長代理にまで助けて貰って「怖くて無理です」なんてどの立場で抜かしているのか。

 だけど聖さんは、それでも見捨てなかった。


「なぁ〜にしみったれてんの」


 杖の音もさせず、声がした時にはもう聖さんは隣に居て。俺が驚いている間にすとんと横に座る。


「……、人を殴れないんです。怖くて」

「は?」


 決死の覚悟で伝えた言葉は容易く一蹴された。

 その反応が自然だろう。部下の人達から聞いた聖さんはまさに〝暴力の権化〟みたいな人なのだから。俺と同じく中学一年生の頃に兄弟共に先代の組長に拾われ、それ以降組長に楯突く者、邪魔になる者全て暴力で黙らせて来た。

 だけど十九歳の時に、撃たれそうになった組長を守ろうとして自分が頭に被弾。進行性核上性麻痺と言う病に犯され、今では杖の補助が無いと段差でつまづいたりこけたりするんだとか。

 …だったら、以前助けに来てくれたあの血は、かなり無茶をしたのでは? と今更ながらに考えていると、聖さんが次の言葉を繋いだ。


「じゃあ殴らなきゃ良いんじゃね?」

「は?」


 数秒の沈黙。

 頭が理解を拒んだのか、それでも聖さんの言っている事は理解出来なかった。彼は何かおかしな事言ったか? みたいな表情を浮かべて固まっている。俺と同じ様に。


「…いや、じゃ、じゃあどうやって敵を倒すんですか? 殴らないと駄目って…」

「嗚呼、成程? じゃあ教えてやる。立て」


 言われるままに聖さんと共に縁側から立ち上がり中庭を進む。組員達の鍛錬場と言う事で整備されたそこに立てば、聖さんは杖で地面に軽く叩き俺と向かい合った。

 その立ち姿だけで威圧されているみたいで、急激に息苦しくなる。


「殴りたくなきゃ殴らなきゃ良い。御前は元々〝暴力〟を知ってるもんな。…御前はただ対話をして、それでも聞かなかった奴等を分からせりゃいい、ほら殴りかかって来い」

「え、ええ…」


 やっぱり何を言っているのか理解出来なかったが、それでも一応と俺は精一杯聖さんに向かって殴り掛かった。流石に病気の人に本気を出してはいけないと無意識に思ったのか、腕に乗る重力もかなり軽く思えた。と、


「そうなると実践した意味ねぇだろ本気で来い」


 気付けば俺は地面に寝ていた。

 青空が視界に広がる。聖さんは呆れた様な表情で立っていた。

 …どういう事?


「い、今何を? 何も見えなかった…」

「それを理解すんのが御前の訓練だ。もう一回」


 慌てて起き上がり問いかけた俺の言葉を、聖さんはあっさり切り捨てて。

 そこから、俺は数ヶ月聖さんに転ばされ続ける毎日を過ごした。


 まず頭に浮かんだのは〝合気道〟。聖さんが俺の力を利用して制している事は分かったのだが、俺の拳が聖さんの身体に当たるその直前まで、〝聖さんは何もしない〟。動きを見ているのだろうが、視線が、体勢が全く動かないのだ。だから何をしたのかが一切分からない。

 分からないままいなされ、身体を倒されてしまう。


 届かない。

 朝から夜まで聖さんに向かって行っては倒され、それを見かけた組員達が呆れ笑いで茶々を入れてくる。

 誰かの、もう無駄なんじゃないっすか?と言う言葉が頭を殴って。

 人々の笑い声が俺の努力を踏み躙って。


 この数ヶ月で俺の精神はどん底に叩き落とされていた。


「成長しねぇな〜。まだ分かんねぇの?」


 何時もの様に投げ飛ばされ続けた後、縁側で視線を落とし蹲る俺に聖さんが声を掛ける。だって分からないものは分からない。身体で覚える事が苦手過ぎるのだ。


「…俺にはもう才能無いんですよ。殴れもしないし、超人技も出来ない…俺は無能だ…」

「チッ…めんどくせぇ…。じゃあ言葉で教えてやる。相手の気と自分の気を合わせるんだよ」

「それは知ってますよ! 合気道なんだなぁみたいな事は分かります! でもそれが出来ないんです!」

「そりゃ御前、相手を見てねぇからだ」

「……相手を、見る?」


 顔を上げて聖さんを見る。彼は「そう」と言えば空を見上げた。


「風は強弱の差があれどほとんど休む事なく吹いてる、流れてんだよ。人間も同じだ、体の流れがある。喧嘩中は常に動い《流れ》てる。まず御前は敵を見ろ、流れを見ろ。御前がやるのは嫌いな暴力じゃない、相手を受け止めて躱す事。そうしたら勝手に相手が自滅してくれる」

「……、自滅…」

「これをすんのも御前は暴力で支配する為じゃない。自分の居場所や大切なモンを守る為だろ? 理由のねぇ暴力、理不尽な暴力じゃない。だからもう無意識に敵を見ねぇフリすんのはやめろ。向き合って、流せ」

「………、…向き合って、流す」


 その一言で、何かが腑に落ちたような気がした。

 それからと言うものの相変わらず聖さんには敵わなかったが、その中でも自分の流れと相手の流れを合わせられるチャンスを掴み、着実に。

 確実に成長している感覚がして、嬉しかった。


 そうだ。

 石橋や東原達みたいに暴力で支配したい訳じゃない。

 大野や畠みたいに見てみぬフリをしたい訳じゃない。

 俺は最初、暴力を振るえば加害者になると思い込んでいた。


 受け止めて、受け入れて、向き合って、守る事。

 敵を傷つけたい訳じゃない。理由のない暴力を振るいたい訳じゃない。

 だから、流す。


 これが、自分の中の〝力の在り方〟な気がした。






 そうして一年、二年が経ち季節は秋。俺は十七歳、恐らく高校に行っていれば二年生になっていて進路を本格的に決める年頃になっていた。

 勿論進路先は連龍会だし、これからもそこで頑張るだけなのだが。


「ねぇきいちゃん、今日はね大事な話があるの」


 駅地下のショッピングセンターで隣を歩く母が、やけに嬉しそうな表情でそう声を掛けてくる。実は今日、買い物に誘ってくれたのは母だった。連龍会で保護された後、組で掃除や食事の準備をする裏方として働き始め、余裕のある生活になったからか近頃の母は一人でどこかに遊びに行く事が増えた。

 一人といっても何時どこで誰に狙われるかは分からない為、遠出の際は自分の部下を尾行させてはいるのだがそこで部下から〝男と一緒に居ました〟と報告された時は、ーー目が飛び出るかと思った。


 何時も仕事ばかりで女っ気も、ーー母に対して思う事ではないが正直無かった為、もう恋愛は諦めているのかと思った。

 心境的には嬉しい。けれどどんな男なのか、何時報告してくれるのか。報告する前に騙されていたら? と言う不安が、どうにも純粋に祝福させる事を阻んでいた。

 が、今日。恐らく母は仲良くしている男を紹介するのだろう。そんな気がしていた。


 たまに一緒に出かけたりする事はあるが、かなり身なりを整えて良い所のレストランを予約していると聞かされたものだから分かる。


「大事な話? 何それ」


 俺は話を合わせる事にした。内緒で尾行してましたなんて母が知ったら多分怒るだろうから。


「ふふ、内緒。レストランの予約時間までまだあるから、ちょっと買い物してから行きましょうね」

「ええ? まぁ良いけど…」

「ほら、そう言えばきいちゃん冬服がなくて困ってたじゃない。もう兄弟頭さんなんだからしっかりしないと!」

「…声大きいよ、普通で良いってぇ…」


 母は諌める俺を無視して、手を引いて向かう。

 漸くだ。思えばここまで長かった様な気がする。子供の頃にした約束をやっと果たせそうだ。


 ーー俺が大人になったら、絶対お母さんを幸せにする。


 この笑顔を見れただけで、俺は幸せだ。後は母が頻繁に会っている男と結婚して幸せになってくれればそれで。

 そんな事を考えていたその時。母が笑顔で振り向いた。


「きいちゃん、そろそろ予約の時間だし行きましょうか」


 そう言って案内板を見る。突き当たりの区画、喧騒から少し離れた場所にそのレストランはあった。料理の写真も載っているがかなり気合が入ってそうだ、と人知れず微笑んだ。


「…で? その大事な話ってまだ教えてくれない訳?」


 揶揄う様に言えば母は暫くしてから仕方ないわね、と言う風にため息を吐いて口を開いた。無論、嬉しそうである。

 だからこそ、俺は母の次の言葉を静かに待っていた。


「…今日はね、お母さんの」



 その時。

 地面が揺れた。



 ミシミシと音を立てて、建物全体が嫌な音を響かせる。

 最初は地震かと思ったのが、数分様子を見てみればその予想は的外れだった事が分かった。地上へ出る為の入り口のシャッターが、既にほぼ閉まろうとしている。


 誤作動か? 地上へ出ると危ないからと言う手段か? そんな事を考えている内に目の前の廊下も防火シャッターが降りていく。人々が取り残されてシャッターを叩いているのを見て、母が呟いた。


「な、何? どういう事…?」

「…分からない。兎に角情報を集めて避難した方が良い」

「そ、そうね…」


 震える母の手を強く握って、俺はなるべく人が集まる所へ向かった。一刻も早く今どんな状況になっているのかを共有したかったのだ。然し。

 店と店の間、休憩スペースのような広い場所には沢山の人が倒れていた。

 一気に冬の様な寒さが押し寄せ、母が白い息を吐く。微かに凍りかけている地面には一見すれば歪んだ丸印の様な、はたまた桜の花びらの様な、不安定感の残る落書きみたいなものが赤い何かで描き殴られている。


「母さん、ここで待ってて」

「え、だ、駄目よ! 危険じゃない! きいちゃん一人で行かせられない!」

「でも危ないって…」

「貴方が危険になるじゃない!!」


 俺がそう言っても、母は一緒に行く事を辞めなかった。親としての責任だろうか。断ろうとした俺の脳裏にもし一人で避難させて、そちらで何か起こってしまったら? と言う不安が心臓を掴んで、結局俺は母を連れて行くことにした。


 恐る恐る倒れ込む人の近くへ寄る。彼等は皆、首を切りつけられており、その傷口は凍っていた。益々意味が分からない。

 寒さは中心へ向かう程に厳しくなっていた。防火シャッターの閉まった地下の空間で、誰かが意図的にエアコンを滅茶苦茶利かせているのか、とそんな事位しか思いつかない。


「……さむ」


 これ以上は危険な気がする。

 やはり一旦母を安全な場所へ待たせてからの方が良いだろう、と思った俺は踵を返して振り返った。

 そこに、母の首は、なかった。




「は」




 気づいた瞬間、その身体が他の倒れている人と同様崩れ落ちる。

 その反動で、買ってもらった冬服の入った紙袋が俺の肩から滑り落ちた。

 何? どう言う事?

 今、何が起こってる?


 断面は真っ白に凍りつき、血は一滴も出ていない。首だけがポトリと落ちた様なそんな状況だ。握った手は離れない。その代わり熱はもう、何処にもなかった。


 ーーねぇきいちゃん、今日はね大事な話があるの。




「……母さん、…?」


 震える身体も、寒さも、異常な現状も今はどうでもいい。俺は膝をついて必死に母の身体をゆする。心のどこかで〝首を切り落とされているのに生きている訳ない〟と言う気持ちと〝これは寒さが見せた幻覚なのかも知れない〟と言う気持ちが綯い交ぜになって、もうどうしたら良いか分からなくなっていた。

 溢れ出す涙は寒さのせいで顔に張り付いて、垂れた鼻水も無様にその場で凍り付く。



「…まだ、聞いてないよ、俺。レストラン、行くんじゃないの…」



 守れなかった。

 どうすれば良かった?

 やっぱりあの時、一人で待たせてたら。


 俺の判断で、母さんを殺した。


 ぼーっとその場で膝をついたまま過ごしていればちらほらと休憩スペースの外でも、寒さで座り込む人達の姿が見える。

 これを止めないと、このまま自分達は凍死してしまうだろう。でもどうすれば良いのか分からない。と言うより、もう。



 どうでも良かったのかも知れない。

 母さんが死んだ。俺が殺した。



 だってちゃんと力もつけた、立場も上になった。以前よりは怖いものも少なくなったのに。

 まだ届かないのか、まだ弱いままなのかな。


 掴んでいた手が離れて、意識が闇に落ちそうになったその時、ーー突然誰かに肩を掴まれた。


「こんな所で寝んな!! 死にてぇのか!?」

「……、え……だ、だれ…」


 寒さで唇が動かない。深い紫色とビビットな赤色のツートンヘアの少年は俺の言葉を聞く事なく、そのまま休憩スペースの外へ身体を引きずっていく。母と離れてしまう、そう思っても彼の力はかなりのもので、全く抵抗出来なかった。


風舞太刀かまえたち、…かなり面倒なもんを召喚したな。こんな所でやるか普通…」

「か、かま…何?」

「うるさい、お前に話してない」

「…」


 ツートンヘアの少年はぶつぶつと一人で何かを整理している様子だった。よくよくみれば首や鎖骨、髪で隠れて見えない左の顔半分は焼け爛れた様に皮膚が変色している。明らかに普通の人間ではない。俺は黙ってその場を見守る事にした。すると、


「防火シャッター、開けてきたぜ。エアコンも暖房に切り替えた」


 そう言って俺の目の前に、その男がやって来た。

 自分と同じ青丹色の髪、今様色の瞳。そっくりな顔立ち。


 直感で母が紹介したい男はこいつだと思った。

 そしてまた直感で、これが俺の〝父親〟なのだと理解した。ーー理由は分からないけれど、何故かそんな気がした。ツートンヘアの少年は溜め息を吐き、首を振ると自分よりも年上な筈のその男に向かって馴れ馴れしい口調で話す。


「…手遅れだわ。完全に召喚されちまったモンは流石に戻せねぇな」

「御前でも無理なのか? 天下の白蝶ジンディエ様に憧れた呪術師君よ」


 男は揶揄う様に問い掛ける。ツートンヘアの少年は一瞬男を睨み付けるが、すぐに真剣な表情に戻り淡々と答えた。


「神格の退散は俺一人じゃ無理。どっかに閉じ込めるなら出来なくはねぇけど、器がしっかりしてねぇと入ってくれねぇし」

「ふぅん…あ、ベンチとか観葉植物は?」

「無理だろ…器として不適合過ぎる…直ぐ抜け出すんじゃねぇの。……」


 ツートンヘアの少年がそう言いながら、徐に天井を見た。次いで男も、釣られて俺も上を見る。そこには未だに機能している監視カメラがあり。

 少年は静かに〝解決策〟を口にした。


「そいつが器になれば良い。御前、連龍会の人間だろ?」

「え?」


 突然会話の中に自分が入れられた。先程までの会話は全てを理解出来なかったが、恐らく彼等は何かの〝身代わり〟を探している。そして、それを俺にやらせようとしているのだ。

 が、俺が何かを言う前に男がツートンヘアの少年の胸倉を掴み上げる。その瞳には怒りが滲んでいた。


「貴丞は関係ないだろ」


 正直彼が何故こんなに怒っているのか理解出来なかった。だって自分は恐らく、彼の愛する人を殺した。なのに何故? そんな事を思っている間にも二人の話は続く。


「関係なら今作られた。……今後夜淵との衝突も出てくるだろ。人間じゃ直ぐ死ぬぜ」

「っ、だからって」

「黒血にはならねぇ。それだけで、力が貰えるんならお得だろ。〝最悪の結果〟より〝最善の方法〟。御前も言ってなかったか?」

「……」


 男は暫く固まっていたが、やがて力無くその胸倉を離した。彼にとっては合意の合図だったのだろう。ツートンヘアの少年はシャツを伸ばすと、俺の前に屈み込む。


「おい、御前。名前は?」

「……ゆ、岼…貴丞ですけど……」


 そう答えれば、彼は何かを唱えた。聞き取れない、何処かの国の言葉。

 刹那、心臓が無理やり引き絞られる様な感覚に枯れた声が喉を通る。何かに〝枷〟が嵌められた様な、そんなイメージ。

 荒い呼吸を繰り返す俺に、ツートンヘアの少年が続ける。


「その名前は今からもう使えねぇ。これは契約になるからな、勿論呼んだって違反になりゃしねぇが、その分御前の精神が削れるぜ」

「は? な、何、どういう……一から説明してくれませんか!?」

「悪ぃな」


 俺の叫びも彼には届かず。

 たった一声で潰してしまえば、少年は寒さも厭わず地面に描かれた落書きの真ん中に俺を連れて立つ。

 そうして広げられた汚れた巻物に、自分の血で何かを描き始めた。




「……、御前はこの力が必要になる。守れよ、今度こそな」




 その指が止まったのと同時に。

 俺の身体が、体内を巡る血が、骨が、あり得ない速度で冷えていく。嗚呼、死ぬんだと思う暇すらない急速な寒さ。

 召喚されたと言われる〝神格〟と、一体になっている感覚。


 今から何が起こるのか。

 この力が必要になるとはどう言う事なのか。


 とうとう何も、何一つ理解出来ないまま。


「……悪かったな、貴丞」


 そんな声を聞きながら、俺は今度こそ本当に眠りに落ちた。




「…夜淵の子組織が作り上げた神格の召喚。地下と言う空間を利用しての、無差別な人間の殺害。……これも、生贄になるのか?」


 貴丞を抱き上げ、男は静かに口を開く。

 だがツートンヘアの少年はふるふると首を横に振った。


「……いや? 生贄になるのは〝玖泉を体内に取り入れた奴等〟だけだよ。恐らくその意図を知らねぇで勝手に暴走したんだろ。この中にオレの知ってる幹部は居ねぇな」

「……あっそ。…運が悪かった、って事ね」


 それを聞けば男は誰に言うでもなく言葉を落とした。

 今日は付き合っていた彼女、岼紗和ゆりさわーー貴丞の母親と共に、貴丞に挨拶をする予定だった。

 彼女とは遠い昔一夜を共にした相手。事情があり離れなければ行けなくなってそれっきりだったが、最近再会し子供も居ると聞いて今からやり直さないか、と復縁を持ちかけたのだ。


 だが駅地下に怪しい影が入っていくのを見てしまった彼は、更に同じく怪しい影を尾行していたツートンヘアの少年とも合流した。事態が一刻を争うものかも知れないと思った彼は紗和に連絡を入れたものの繋がらず、ずっと二人を探していたのだ。


 結局、守れなかったのは俺なんだよ。

 防火シャッターが閉まって行く中、せめて二人は外に抜け出せています様にと祈りながら。空調管理室と制御室に居た、今回の事件を引き起こした人間を倒して戻ってきたらこの有様だ。


 遅い。何もかも遅過ぎた。と、


「……宮津、悪かったよ。要石に、しちまって」


 ツートンヘアの少年が、申し訳なさそうに呟く。

 宮津、と呼ばれた男はそれでも、ーー暗い表情を見せる事は無かった。


「……否、御前の判断は正しかった。俺がこうなっている以上こいつにも迷惑かける事になるだろうからな。…狛菩はくぼ、恩に着る」






 こうして。

 何もかも失って、得体の知れない神様と半ば無理矢理契約させられた俺は。


 木刀でも振るえば肉を、骨を、鉄を、両断出来る様になった。

 その力を応用して自身の身体能力も大幅に伸ばす事が出来た。勿論、聖さんに教えてもらった事は今も継続して続けているし、この力を使う際にかなりの体力を消耗するので日々の鍛錬は欠かせない。


 そして俺はこの力のお陰で、自分の組を持つ事が出来た。二十歳だった。

 部下は相変わらず殺気高い。俺はそんなに好きじゃないのに、今では奉日本組は拷問が一番得意なんて言われちゃって。


 そりゃ確かに、誰もやりたがらないならやるしかないけどさ。

 壱番街だって、そこに住んでいる人達を守るって大義名分があるからやってられるけどさ。


 でも。

 本当に守りたかったものはあの日。


 本当に呆気なく、無くなっちゃったから。



 


「真夏も、またどこかに行くんだ」


 うっすらと、遮光カーテンの隙間から白い光が差し込んでいる。

 既に身支度を済ませた真夏は、部屋を出ようとしていた。ゆっくりと振り返れば、相変わらず無表情で何を考えているか分からない瞳が俺を捉える。


「……俺は、千華の人間だからな。あんまり連龍会の人間と馴れ合うのも問題だろう」

「……じゃあ、何で会いに来たの?」

「…そ、れは」


 真夏の言葉が詰まる。

 ただ表情は変わらない。以前より人間らしさが消えてしまったみたいだ。


「何であの日、…何も言わずに鏡都に帰ったの。真夏に何があったの」


 真夏は答えない。

 表情は暗く読み取れず、本当にどこかで線引きされてしまったみたいだ。

 俺が失ってきた十五年間の間に、真夏も何かを失って、……それで俺の所に来たのだろうか。どうしても真夏の考えている事が分からなくて、焦ってしまう。


 俺は彪君みたいに、理論で詰められない。皇牙君みたいに行動で示せない。狗神みたいに純粋じゃない。結局、臆病で弱い。それだけだ。

 でも。


 その一歩を踏み出さなくちゃ、答えは出ない。

 言葉は、口にしないと伝わらないから。


「貴…」

「俺はもう闇の中に居ないよ、真夏」


 そう言って部屋の扉のノブに手を掛ける真夏の袖を掴む。

 嗚呼、分かった。今理解した。


「〝真夏が〟、まだ闇の中に居るんだよね」


 真夏の表情が揺らいだ。崩れかけの、子供の様な視線。

 もうこれは何回だって見た。だから皆、手を引いて来た。居場所ならここにあると、笑って言ってあげる。ーーそれが、皆に手を引かれて闇から抜け出した、俺に出来る事。


 鼻腔に甘い、穏やかな香りが広がる。

 俺は未だに驚く真夏の瞳を真っ直ぐ見据えて囁いた。





「じゃ、今度は真夏のこれからの時間、俺にくれる?」







真夏編に続きます。

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