誰でも1日だけ透明人間になる日
その日は、朝から妙に静かだった。
というより——
“見えない何か”で、ざわついている。
「今日だな」
スマホを見ながら、隣の席の同僚が言う。
「だな」
俺も短く返す。
画面には、ニュースアプリ。
《本日、第一回『透明日』が実施されます》
正式名称はやたら長かったが、
誰もそんな呼び方はしない。
“透明日”。
そのままだ。
「マジでやるんだな」
「実験らしいけどな。国と企業が共同で」
「いや、意味わからんだろ」
そう言いながらも、
誰も止めようとはしない。
理由は簡単だ。
一日だけ、透明人間になれる。
それだけで、
人間は十分に興奮する。
「お前やる?」
同僚がニヤつく。
「……どうだろうな」
「絶対やるだろ」
否定はしない。
やらない理由が、ない。
専用のアプリ。
認証すれば、午前九時から二十四時間。
自動的に透明になる。
技術的な説明はよく分からない。
量子だの光学だの、難しい単語が並んでいたが、
要するに——
“見えなくなる”らしい。
「犯罪とか大丈夫なのか?」
「一応、制限あるらしいぞ」
「どういう?」
「重い物は持てないとか、強い衝撃で解除されるとか」
なるほど。
完全な無敵ではない。
でも——
「バレないよな、基本」
その一言で、空気が少しだけ変わる。
「……まあな」
誰も否定しない。
見えない。
それはつまり、
見られていない。
そして——
証明されない。
「……」
そのまま時間が過ぎる。
時計を見る。
八時五十九分。
あと一分。
周囲の空気が、少しだけ張り詰める。
誰も口にしないけど、
全員が同じことを考えている。
「やるか」
スマホを取り出す。
アプリを開く。
大きなボタン。
《透明化を開始しますか?》
[YES]
指を置く。
一瞬だけ迷う。
でも——
押した。
九時。
「……」
何も起きない。
特に変化はない。
手を見る。
普通に見える。
「なんだよ、嘘か?」
そう思った瞬間。
「おい」
同僚の声。
顔を上げる。
その瞬間、
息が止まった。
「……え」
そこにいるはずの同僚が、
いない。
椅子だけがある。
「おい、ここだよ」
声はする。
すぐ近くから。
でも、姿がない。
「……マジか」
手を伸ばす。
空中に触れる。
「うわ、触んなよ」
確かに、そこにいる。
でも——
見えない。
「……」
ゆっくりと、自分の手を見る。
さっきまで普通だった。
でも今は——
輪郭が、消えている。
ぼやけて、
背景と混ざっていく。
やがて、
完全に見えなくなった。
「……」
息を呑む。
現実だ。
嘘じゃない。
透明になっている。
「やべえなこれ!」
誰かの声。
あちこちで同じような反応が起きている。
椅子だけが動く。
ドアが勝手に開く。
物が浮く。
笑い声。
驚き。
興奮。
オフィスが、一気に“非現実”になる。
「……」
立ち上がる。
歩く。
足音だけが響く。
誰もこちらを見ない。
見えないから。
「……」
妙な感覚だった。
自由。
でも、
少しだけ不安。
誰からも見られていない。
それは——
思ったよりも、
軽くない。
外に出る。
街。
人が減っている。
いや、
見えないだけだ。
音はする。
足音。
笑い声。
でも、
誰もいないように見える。
「……」
非現実。
映画みたいな光景。
その中で、
人々は好き勝手に動いている。
ぶつかる。
笑う。
叫ぶ。
そして——
誰も謝らない。
「……」
気づく。
見えないから。
誰がぶつかったか、
分からない。
つまり——
責任が発生しない。
「……」
コンビニに入る。
レジ。
商品が、
勝手に消えていく。
誰かが取っている。
でも、
誰も止めない。
止められない。
「……」
店員が困った顔で立っている。
でも、どうしようもない。
誰が持っていったのか、
分からないから。
「……」
外に出る。
空を見る。
青い。
何も変わらない。
でも——
世界は、確実に変わっている。
「……」
ポケットのスマホが震える。
通知。
《透明日、開始から一時間》
その下に、小さく書かれていた。
《現在、軽微なトラブルが報告されています》
「軽微、ね」
思わず笑う。
これはまだ、
“軽い方”だ。
誰もが分かっている。
この状況が続けば、
もっと大きなことが起きる。
でも——
誰も止めない。
止められない。
だって今日は、
透明だから。
「……」
そのとき、
遠くで悲鳴が聞こえた。
振り向く。
でも、
何も見えない。
ただ、
音だけが響く。
「……」
少しだけ、
嫌な予感がした。
でも、
まだ誰も、それを“問題”とは思っていない。
これはただのイベント。
実験。
一日だけの非日常。
明日になれば、
全部元に戻る。
誰もが、
そう思っていた。
その時までは。
最初にそれが“事件”として扱われたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
スマホの通知。
《透明日中のトラブルについて》
さっきと同じような文面。
でも、少しだけ違う。
《一部地域において、重大な事案が発生しています》
「……重大、ね」
軽く呟く。
でも、
その言葉の意味は、すぐに理解することになる。
街の空気が、変わっていた。
さっきまでの“お祭り”とは違う。
ざわつき。
苛立ち。
そして——
恐怖。
「……」
人の姿は見えない。
でも、分かる。
何かが起きている。
足早に歩く音。
怒鳴り声。
誰かを探すような声。
そして、
遠くでまた悲鳴が上がる。
「……」
近くの交差点。
人が集まっている“気配”。
でも、見えない。
ただ、
円を描くように、
誰もいない空間ができている。
「何があった?」
誰かの声。
「……分からない」
別の声。
「倒れてる……誰か……」
その言葉で、
空気が一気に冷える。
「救急車呼べ!」
「呼んでる!」
「誰だよ、やったの!」
誰も答えない。
答えられない。
見えていないから。
「……」
少しだけ近づく。
地面に、
何かが倒れている。
輪郭だけ。
ぼやけた“影”のようなもの。
それが人間だと分かるのに、
はっきりとは見えない。
「……」
その瞬間、
理解する。
これは——
誰かが“何かをした”結果だ。
でも、
誰がやったのか、
分からない。
証明できない。
目撃者がいない。
正確には——
全員が目撃しているのに、誰も見ていない。
「……」
その場を離れる。
足が速くなる。
心臓がうるさい。
「……やばいな」
呟く。
これはもう、
ただのイベントじゃない。
ルールが壊れている。
社会の前提が。
見えること。
認識されること。
それが、
全部なくなっている。
「……」
スマホを見る。
SNS。
タイムラインが荒れている。
「やられた」
「財布取られた」
「殴られた」
「誰か助けて」
全部、
同じ内容。
そして——
「犯人が分からない」
当然だ。
見えないんだから。
「……」
さらにスクロールする。
動画が上がっている。
再生。
道路。
突然、
誰もいないはずの空間で、
人が吹き飛ぶ。
倒れる。
でも——
誰もいない。
「……」
コメント欄。
「やばすぎ」
「これもう無理だろ」
「誰も止められない」
「……」
画面を閉じる。
分かっている。
これは止まらない。
だって、
バレないから。
「……」
そのとき、
後ろからぶつかられる。
「……っ」
よろける。
振り向く。
誰もいない。
「……」
苛立ちが湧く。
でも、
文句を言う相手がいない。
誰がやったのか分からない。
「……」
その瞬間、
頭の中に一つの考えが浮かぶ。
もし——
自分が何かをしたとしても、
バレない。
「……」
すぐに打ち消す。
くだらない。
でも、
その考えは消えない。
むしろ、
じわじわと広がっていく。
「……」
周りを見る。
見えない人間たち。
誰が何をしているのか、
分からない。
でも、
確実に何かが起きている。
奪われている。
壊されている。
そして——
誰も責任を取らない。
「……」
コンビニに戻る。
さっきの店。
中は、
めちゃくちゃだった。
商品が散乱している。
棚が倒れている。
店員の声。
「やめてください!」
「やめてって言ってるでしょ!」
でも、
誰に言っているのか分からない。
返事はない。
ただ、
物が動く。
落ちる。
壊れる。
「……」
その光景を見て、
はっきりと思う。
これは——
人間の本性だ。
見られていないとき、
人はこうなる。
「……」
そのとき、
スマホが震える。
ニュース速報。
《透明日、緊急中断を検討》
「……遅いだろ」
思わず笑う。
もう遅い。
一度壊れたものは、
簡単には戻らない。
「……」
外に出る。
空は変わらない。
でも、
地上は違う。
音だけが増えている。
怒号。
悲鳴。
衝突音。
そして——
笑い声。
「……」
背筋が冷える。
楽しんでいる。
この状況を。
誰にも見られない。
何をしてもバレない。
その自由を。
「……」
そのとき、
肩を掴まれる。
「……っ!」
振り払う。
何もない。
でも、
確かに触れられた。
「……」
息が荒くなる。
見えない。
誰がいるのか分からない。
何をされるか分からない。
「……」
その瞬間、
理解する。
これはもう、
“自由”じゃない。
恐怖だ。
「……」
スマホを見る。
時間。
まだ、半日以上残っている。
「……長すぎるだろ」
呟く。
この状態が、
まだ続く。
誰も止められないまま。
責任も、
証明も、
存在もしないまま。
「……」
そのとき、
ふと気づく。
さっきから、
妙に静かな場所がある。
人の気配がない。
音もない。
「……?」
近づく。
そこには——
何もなかった。
誰もいない。
完全な空白。
「……」
違和感。
この街に、
こんな“無音”の場所があるはずがない。
「……」
一歩、踏み込む。
その瞬間、
自分の足音が、
消えた。
「……え?」
もう一歩。
無音。
完全な静寂。
「……」
振り返る。
街の音が、遠くにある。
でも、ここだけ違う。
切り取られている。
「……なんだよ、ここ」
呟く。
その声すら、
聞こえない。
「……」
口は動いている。
でも、
音がない。
世界から、
切り離されている。
「……」
嫌な予感がする。
これは、
ただの透明じゃない。
もっと、
根本的な——
“消失”に近い。
音が、ない。
完全な静寂。
さっきまで確かにあった街の喧騒が、
ここには一切届いていない。
「……」
声を出す。
出しているはずなのに、
聞こえない。
口の動きだけが、自分で分かる。
「……」
一歩、後ろに下がる。
戻るはずだった。
元の場所に。
でも——
何も変わらない。
無音。
無風。
無人。
「……なんだよ、これ」
焦りが一気に押し寄せる。
走る。
出口を探す。
でも、
どこまで行っても同じだ。
景色はある。
建物もある。
道路もある。
でも、
“人間だけが存在しない”。
「……」
立ち止まる。
息が荒い。
でも、その音すら聞こえない。
「……」
スマホを取り出す。
画面をタップする。
反応はある。
でも——
音がない。
通知音も、
バイブも、
何も感じない。
「……」
SNSを開く。
タイムライン。
さっきまでの混乱。
暴力。
悲鳴。
それらが、
一切表示されていない。
「……は?」
更新する。
変わらない。
投稿が、止まっている。
まるで——
世界が止まっているみたいに。
「……」
違う。
止まっているんじゃない。
切り離されている。
自分だけが。
「……」
その考えが、頭に浮かぶ。
そして——
否定できない。
「……」
歩く。
街を抜ける。
どこまでも、
同じ空間。
人がいない世界。
音がない世界。
自分だけが、
ここにいる。
「……ふざけんなよ」
口を動かす。
でも、
何も返ってこない。
怒鳴っても、
叫んでも、
世界は反応しない。
「……」
そのとき、
ふと気づく。
影。
自分の影。
地面を見る。
「……」
ない。
影が、
ない。
「……は?」
もう一度見る。
太陽は出ている。
光もある。
なのに——
自分の影だけが、
存在していない。
「……」
理解する。
これは透明じゃない。
もっと深い。
存在のレイヤーから外れている。
「……」
手を見る。
見える。
でも、
どこか現実感がない。
輪郭が、
少しだけ曖昧になっている。
「……」
怖くなる。
急に。
さっきまでの恐怖とは違う。
もっと根本的な——
“消える恐怖”。
「……」
走る。
出口を探す。
どこかに戻れるはずだ。
元の世界に。
人がいる場所に。
音がある場所に。
「……」
どれくらい走ったか分からない。
時間の感覚も、
曖昧になっていく。
そして——
突然、
音が戻った。
「……!」
立ち止まる。
ざわめき。
車の音。
人の声。
振り返る。
街。
いつもの風景。
人がいる。
見える。
「……戻った?」
声を出す。
聞こえる。
自分の声が。
「……」
安堵が一気に広がる。
戻ってきた。
元の世界に。
「……はあ……」
膝に手をつく。
息を整える。
助かった。
そう思った。
その瞬間。
「すみません」
後ろから声がする。
振り向く。
女性。
普通の通行人。
「はい?」
返事をする。
でも、
女性は、
そのまま通り過ぎた。
「……?」
止まらない。
こちらを見ない。
反応しない。
「……おい」
声をかける。
聞こえていない。
完全に無視されている。
「……」
周りを見る。
人がいる。
でも——
誰一人、
自分を見ていない。
「……」
近くの男にぶつかる。
すり抜ける。
「……え?」
触れたはずなのに、
感触がない。
相手も、
何も感じていない。
「……」
心臓が強く打つ。
呼吸が乱れる。
「……」
スマホを取り出す。
画面を見る。
カメラを起動する。
自分を映す。
「……」
何も映っていない。
背景だけ。
自分の姿は、
どこにもない。
「……は?」
手が震える。
何度も確認する。
でも、
結果は同じ。
映らない。
記録されない。
認識されない。
「……」
理解する。
遅すぎるくらい、
はっきりと。
透明じゃない。
“存在していない”。
「……」
思い出す。
あの空間。
音が消えた場所。
人がいなかった場所。
あれは、
“消えた側”の世界だった。
「……」
じゃあ、
今の自分は——
どっちだ。
「……」
答えは、
もう出ている。
誰も反応しない。
触れられない。
見えない。
記録されない。
「……」
そのとき、
スマホが震える。
通知。
唯一、
反応するもの。
画面を見る。
《透明日、終了まで残り一時間》
「……」
笑う。
乾いた笑い。
「終わったら、戻るんだろ」
誰に言うでもなく呟く。
聞こえる。
自分には。
でも、
それだけだ。
「……」
ベンチに座る。
人が通る。
誰も気づかない。
時間だけが過ぎていく。
「……」
そして、
そのときが来る。
スマホの表示。
《透明日、終了》
九時。
元に戻る時間。
「……」
息を呑む。
待つ。
数秒。
何も起きない。
「……」
手を見る。
変わらない。
見えないまま。
触れられないまま。
誰にも認識されないまま。
「……は?」
声が震える。
「おい……」
誰も振り向かない。
「戻れよ……」
何も変わらない。
「……」
そのとき、
スマホの画面に、
小さな文字が表示される。
《一部ユーザーにおいて、認識エラーが発生しています》
「……」
指が止まる。
続き。
《現在、修正対応中です》
「……ふざけんなよ」
笑う。
でも、
声は震えている。
「……」
周りを見る。
世界は、いつも通りだ。
何も変わらない。
でも、
自分だけがいない。
「……」
誰も気づかない。
誰も覚えていない。
最初から、
存在していなかったみたいに。
「……」
静かに目を閉じる。
音が遠ざかる。
いや、
最初から届いていなかったのかもしれない。
分からない。
ただ一つだけ、
はっきりしている。
透明になったのは、
体じゃなかった。
存在そのものだった。




