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二十年仕えた王女が私を敵に売った。それでも守ることにした

作者: セッシー
掲載日:2026/03/05

王女殿下が私を売ったのは、二十年間の護衛の末だった。


 私は牢の中でその事実を知り、一分ほど考えて、逃げることにした。


 理由は単純だ。


 殿下の目的を、まだ果たしていないから。


---


 牢は地下三階にあった。


 石積みの壁、鉄格子、古い藁。手枷と足枷は鉄製で、重いが作りは粗い。左の手枷に力を加えると、溶接の甘い接合部がわずかにたわんだ。


 時間をかければ外れる。


 外れた後の話も既に考えてある。


 守衛は二時間おきに巡回する。前の巡回から三十分が経った。次の巡回まで九十分ある。牢の入口から地上まで、急いで動けば二十分以内だ。地上の出口は三つ。そのうち二つは確実に見張りがいる。残る一つは厨房の裏口で、この時間帯は使用人の出入りが途絶えている。


 私は手枷に力を込めた。ゆっくりと、音を立てないように。


---


 手枷を外すのに二十分かかった。


 足枷は石壁の角を使えば外せた。石畳を腹這いで進み、上階への階段に差し掛かったとき——足音が聞こえた。


 予定より早い。巡回の間隔が変わっている。


 私は物陰に体を押し込んだ。松明の明かりが近づいてくる。守衛が一人、階段を降りてきた。


 横を通り過ぎる。足音が遠ざかる。


 呼吸を整えて、上階への階段を登った。


 廊下、厨房の裏路。扉に手をかけて、ゆっくりと押した。


 外に出ると、夜の冷気が顔を打った。


 城壁の影を伝い、南の城門まで移動した。予備の兵装と資金は、二年前から城外に分散させていた。護衛騎士として働く間、最悪の事態を常に想定していたからだ。


 最悪の事態がどんな形で来るかは、予想していなかったが。


---


 城から半日離れた村の宿で、私は初めて腰を落ち着けた。


 ランドルフ・ヴェーン、三十七歳。王国第二王女エリス殿下の専属護衛騎士、二十年。


 殿下に仕えたのは、私が十七歳のときだった。


 当時の殿下は十二歳。侍女二人と護衛騎士一人を持つだけの、宮廷では存在感の薄い王女だった。第一王女に権力が集中していた時代で、第二王女の地位は微妙だった。


 だが、殿下は賢かった。


 政治を学び、人の心を読み、表には出ないところで人脈を作り続けた。二十年かけて、殿下は宮廷の中でひっそりと、しかし確実に力をつけていった。


 私はその全てを、傍で見ていた。


 護衛として。


 殿下が最初に私に言ったのは、「あなたは私の剣になってください」だった。二十年後、その言葉の意味を私はようやく理解し始めている。


---


 ひとつ、忘れられないことがある。


 仕えて三年目の春、殿下と共に南翼の廊下を歩いていたとき、壁際の花瓶が倒れた。殿下の袖が誰かの肘に当たったはずみだった。


 花は床に散った。廊下にいた侍女の一人が、小さく笑った。殿下の不注意を笑った。


 殿下は唇を引き結んだ。私は花を一輪拾い、花瓶に戻した。


 だが翌朝、その廊下を通ると、花瓶は元の位置に戻されていた。新しい花が活けてあった。殿下が手配したのだと、後で侍女が教えてくれた。


 誰が笑っても、殿下は静かに手を動かした。怒りを口にせず、行動で答えた。


 その日から、私は殿下の判断を信じ続けた。


---


 裏切られた経緯は、こうだ。


 三日前、城の廊下で第一王女派の密偵と接触した。接触というより、待ち伏せされた。彼らは言った。「エリス殿下が、あなたの情報を我々に売った」と。


 信じなかった。罠だと思った。


 だが翌日、殿下の側近が私の部屋を捜索し、私は牢に入れられた。


 殿下は、黙って見ていた。


 遠くで私が連行されるのを、殿下は廊下の端から見ていた。目が合った。殿下は一瞬、何かを言いかけた。だが口を閉じた。


 その一瞬が、今も頭にある。


 裏切りに見えた。そう判断するのが自然だ。


 だが——私は二十年間、殿下の目を見てきた。


 あの目は。怒りでも、嫌悪でも、軽蔑でもなかった。もっと違う、もっと複雑な——痛みに近いものだった。


---


 宿の主人に地図を借りた。


 現在地から国境まで五日。そこから先は王国の管轄外になる。逃げるなら、そこまで辿り着けばいい。


 でも、私は地図を折り畳んだ。


 北に、王都がある。


 殿下が、いる。


 私を売った理由が、どこかにある。


 二十年間。どんな局面でも、殿下の判断には理由があった。遠回りに見える選択も、後になれば意味が分かった。今回も——そうではないか。


 私を売ることで、殿下は何かを守ろうとしたのではないか。


 確認する方法はひとつしかない。


 戻って、殿下に会うことだ。


 私は地図を返し、夜の道を北へ向かった。


---


 王都の外れに、殿下が秘密裏に使っている連絡所があった。


 私だけが知っている場所だ。殿下が二十年前に教えてくれた。「何かあったときに、ここで待っていてください」と。


 扉を押すと、中に明かりがあった。


 殿下が、一人でいた。


 私を見て、目を見開いた。驚いた顔だった。だが——安堵の色もあった。


「……ランドルフ。逃げなかったのですか」


「逃げる理由がありません」


「裏切ったのに?」


「裏切ったかどうかは、まだ分かりません」


 殿下は私を見た。長い沈黙があった。


「……あなたを売ったのは、事実です」


「知っています」


「理由を聞きますか」


「聞くために来ました」


 殿下はため息をついた。それから、椅子を引いて座った。


「座ってください」


 私は立ったままでいた。


「——第一王女は、あなたを殺そうとしていました」


 部屋の中が静かになった。


「私があなたを売らなければ、あなたは一週間以内に、第一王女派の暗殺者に殺されていた。証拠もあります。だから——先に、私が動いた」


「売って、牢に入れることで?」


「牢に入っていれば、暗殺者は動けない。そして私が動ける時間が、少し増える」


 私は殿下を見た。


 殿下は真っ直ぐに私を見ていた。


「あなたを危険に晒した。謝ります。でも、他に方法がなかった」


 沈黙が続いた。


「……殿下」


「なんですか」


「次からは、先に教えてください」


 殿下が目を瞬いた。


「……怒らないのですか」


「怒る理由はあります。ただ——殿下の判断を、二十年間疑ったことがない」


 部屋の中が、また静かになった。


 殿下は俯いた。


 長い間があった。


 それから殿下は顔を上げた。私が二十年間知っている、あの顔だった。計算が動き始めるときの、静かで鋭い目だった。


「……ありがとう、ランドルフ」


 私は頷いた。


「では、次の手を教えてください。まだ、終わっていないでしょう」


「——ええ。まだ終わっていません」

 殿下は机の上の書類に目をやった。封蝋に、見慣れない紋章が三つ押されていた。

「……既に、動いていたのですか」

「あなたが来ると思っていました」

 私は——二十年間、ずっとそうだったことを、今更のように思い知った。

投稿日:2026年3月5日

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