二十年仕えた王女が私を敵に売った。それでも守ることにした
王女殿下が私を売ったのは、二十年間の護衛の末だった。
私は牢の中でその事実を知り、一分ほど考えて、逃げることにした。
理由は単純だ。
殿下の目的を、まだ果たしていないから。
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牢は地下三階にあった。
石積みの壁、鉄格子、古い藁。手枷と足枷は鉄製で、重いが作りは粗い。左の手枷に力を加えると、溶接の甘い接合部がわずかにたわんだ。
時間をかければ外れる。
外れた後の話も既に考えてある。
守衛は二時間おきに巡回する。前の巡回から三十分が経った。次の巡回まで九十分ある。牢の入口から地上まで、急いで動けば二十分以内だ。地上の出口は三つ。そのうち二つは確実に見張りがいる。残る一つは厨房の裏口で、この時間帯は使用人の出入りが途絶えている。
私は手枷に力を込めた。ゆっくりと、音を立てないように。
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手枷を外すのに二十分かかった。
足枷は石壁の角を使えば外せた。石畳を腹這いで進み、上階への階段に差し掛かったとき——足音が聞こえた。
予定より早い。巡回の間隔が変わっている。
私は物陰に体を押し込んだ。松明の明かりが近づいてくる。守衛が一人、階段を降りてきた。
横を通り過ぎる。足音が遠ざかる。
呼吸を整えて、上階への階段を登った。
廊下、厨房の裏路。扉に手をかけて、ゆっくりと押した。
外に出ると、夜の冷気が顔を打った。
城壁の影を伝い、南の城門まで移動した。予備の兵装と資金は、二年前から城外に分散させていた。護衛騎士として働く間、最悪の事態を常に想定していたからだ。
最悪の事態がどんな形で来るかは、予想していなかったが。
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城から半日離れた村の宿で、私は初めて腰を落ち着けた。
ランドルフ・ヴェーン、三十七歳。王国第二王女エリス殿下の専属護衛騎士、二十年。
殿下に仕えたのは、私が十七歳のときだった。
当時の殿下は十二歳。侍女二人と護衛騎士一人を持つだけの、宮廷では存在感の薄い王女だった。第一王女に権力が集中していた時代で、第二王女の地位は微妙だった。
だが、殿下は賢かった。
政治を学び、人の心を読み、表には出ないところで人脈を作り続けた。二十年かけて、殿下は宮廷の中でひっそりと、しかし確実に力をつけていった。
私はその全てを、傍で見ていた。
護衛として。
殿下が最初に私に言ったのは、「あなたは私の剣になってください」だった。二十年後、その言葉の意味を私はようやく理解し始めている。
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ひとつ、忘れられないことがある。
仕えて三年目の春、殿下と共に南翼の廊下を歩いていたとき、壁際の花瓶が倒れた。殿下の袖が誰かの肘に当たったはずみだった。
花は床に散った。廊下にいた侍女の一人が、小さく笑った。殿下の不注意を笑った。
殿下は唇を引き結んだ。私は花を一輪拾い、花瓶に戻した。
だが翌朝、その廊下を通ると、花瓶は元の位置に戻されていた。新しい花が活けてあった。殿下が手配したのだと、後で侍女が教えてくれた。
誰が笑っても、殿下は静かに手を動かした。怒りを口にせず、行動で答えた。
その日から、私は殿下の判断を信じ続けた。
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裏切られた経緯は、こうだ。
三日前、城の廊下で第一王女派の密偵と接触した。接触というより、待ち伏せされた。彼らは言った。「エリス殿下が、あなたの情報を我々に売った」と。
信じなかった。罠だと思った。
だが翌日、殿下の側近が私の部屋を捜索し、私は牢に入れられた。
殿下は、黙って見ていた。
遠くで私が連行されるのを、殿下は廊下の端から見ていた。目が合った。殿下は一瞬、何かを言いかけた。だが口を閉じた。
その一瞬が、今も頭にある。
裏切りに見えた。そう判断するのが自然だ。
だが——私は二十年間、殿下の目を見てきた。
あの目は。怒りでも、嫌悪でも、軽蔑でもなかった。もっと違う、もっと複雑な——痛みに近いものだった。
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宿の主人に地図を借りた。
現在地から国境まで五日。そこから先は王国の管轄外になる。逃げるなら、そこまで辿り着けばいい。
でも、私は地図を折り畳んだ。
北に、王都がある。
殿下が、いる。
私を売った理由が、どこかにある。
二十年間。どんな局面でも、殿下の判断には理由があった。遠回りに見える選択も、後になれば意味が分かった。今回も——そうではないか。
私を売ることで、殿下は何かを守ろうとしたのではないか。
確認する方法はひとつしかない。
戻って、殿下に会うことだ。
私は地図を返し、夜の道を北へ向かった。
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王都の外れに、殿下が秘密裏に使っている連絡所があった。
私だけが知っている場所だ。殿下が二十年前に教えてくれた。「何かあったときに、ここで待っていてください」と。
扉を押すと、中に明かりがあった。
殿下が、一人でいた。
私を見て、目を見開いた。驚いた顔だった。だが——安堵の色もあった。
「……ランドルフ。逃げなかったのですか」
「逃げる理由がありません」
「裏切ったのに?」
「裏切ったかどうかは、まだ分かりません」
殿下は私を見た。長い沈黙があった。
「……あなたを売ったのは、事実です」
「知っています」
「理由を聞きますか」
「聞くために来ました」
殿下はため息をついた。それから、椅子を引いて座った。
「座ってください」
私は立ったままでいた。
「——第一王女は、あなたを殺そうとしていました」
部屋の中が静かになった。
「私があなたを売らなければ、あなたは一週間以内に、第一王女派の暗殺者に殺されていた。証拠もあります。だから——先に、私が動いた」
「売って、牢に入れることで?」
「牢に入っていれば、暗殺者は動けない。そして私が動ける時間が、少し増える」
私は殿下を見た。
殿下は真っ直ぐに私を見ていた。
「あなたを危険に晒した。謝ります。でも、他に方法がなかった」
沈黙が続いた。
「……殿下」
「なんですか」
「次からは、先に教えてください」
殿下が目を瞬いた。
「……怒らないのですか」
「怒る理由はあります。ただ——殿下の判断を、二十年間疑ったことがない」
部屋の中が、また静かになった。
殿下は俯いた。
長い間があった。
それから殿下は顔を上げた。私が二十年間知っている、あの顔だった。計算が動き始めるときの、静かで鋭い目だった。
「……ありがとう、ランドルフ」
私は頷いた。
「では、次の手を教えてください。まだ、終わっていないでしょう」
「——ええ。まだ終わっていません」
殿下は机の上の書類に目をやった。封蝋に、見慣れない紋章が三つ押されていた。
「……既に、動いていたのですか」
「あなたが来ると思っていました」
私は——二十年間、ずっとそうだったことを、今更のように思い知った。
投稿日:2026年3月5日




