02話 本当に強いんですか?
部室を出た後、横を歩く小鳥遊さんの声が弾んでいる。
「ちょっと怖いけど……すごいね。
1年生が試合に出られちゃうんだね」
廊下には他の1年生たちの話し声や靴音が響いている。
「三条さん上手だから、レギュラー取れちゃうかも?」
「うん、取らなきゃいけないんだ」
そのために、私はここにいる。
心中は穏やかじゃないけど……ここで引くわけにはいかない。
* * *
翌日、部室に集まった1年生は昨日より少ない。私を含めて10人。
小鳥遊さんの姿もある。手を振りあう。
猪ノ瀬先輩に更衣室を案内され、ジャージに着替えた私達はグラウンドの隅に集合した。赤い布地が整列する。
「今日からは通常メニューだ。まず準備運動」
先輩の声に従って、屈伸やストレッチを繰り返す。体育の時間に散々やった動作。
「次はランニングだ。10周。行け」
1年生たちから口々に不満の声が上がる。猪ノ瀬先輩の圧に押されて、強くは言えない。
グラウンドは400mだそう。つまり10周で4km。文化部がいきなり走破するには厳しいだろう。
「競走じゃあない、遅くても自分のペースいい。
走りきることだけを考えろ。さあ行け!」
中学時代、部活で走り回っていた頃の私なら、何てことはない。
半年間のブランクがあっても、いい慣らしだ。
でも、今の私には別の問題がある。
みんなが渋々走り出す中、私はまだスタートラインに立っていた。
深呼吸を3度。足を踏み出す。
左膝の前と裏が、同時に張るような気がした。
一本の長い棒がそこにある。筋肉が曲がらない。前に出ない。
息が浅くなる。視界が狭まる。口の中が乾く。
ああ、やっぱりダメだ。
私は座り込んでいた。座るときには、足も勝手に動くのに。
バラバラに走る赤いジャージが、1つ、また1つとコーナーを過ぎていく。
私だけが進めない。
「おい、どうした。大丈夫か」
猪ノ瀬先輩の影が落ちた。でも声は遠くから聞こえる。
「立てるか?」
わずかに首を横に振る。
「チッ、捕まれ」
* * *
外が赤くなっている。いつの間にか眠ってしまった。
「起きた?」
丸眼鏡の顔が、私を覗き込んでいた。
保健室のベッドの横に椅子を並べ、朧谷先輩が座っている。
慌てて上体を起こした。
「ごめんなさい!」
「謝らなくていいよ。蘭花が無理させたんでしょ?あとで怒っておくから」
「いえ、そうではなく」
指先が布団の縁をつまんでいる。わずかに汗で湿っていた。
「中学の頃、バスケの試合中に怪我をしました。
その後からずっと、その、走れないんです」
事実だけを、端的に伝えた。
「そうなんだ……。だから、うちの部に来てくれたの?」
突然の質問に、言葉に詰まった。先輩が続ける。
「バスケ部の子たちが言ってたよ。
『すごい選手が来た』『全国に出た子だ』って。
あなたのことでしょ?」
中学時代の試合の光景が脳裏にちらつく。胸が痛む。
「さあ……」
振り払うように、首を横に振った。
「会いたい人がいるんです」
「会いたい人?」
「友達。怪我をした後にエートレにハマって、そのとき一緒に遊んだ子。
ゲーム内のフレンドだったから、顔も知りません」
遠くに金属音が響いた。ソフトボールのバッティング練習だろう。やけに大きく聞こえる。
「仲良くなったけど、一緒に飛んだのは2ヶ月の間だけ。
受験のときに、その子のアカウントは消えてしまって……
でも『高校のeスポーツ部でAces’ Trailを続ける』と言ってました」
一緒にゲームをしながら、他愛もない話をしていた記憶が蘇る。
「どこの高校かは分からない。
でも、試合に出続ければきっと、いつか会える。だから私は……。
『また一緒に飛ぶ』って約束したから」
話しながら手に力が籠る。布団の端の皺が濃くなった。
「また、会えるといいね。その子、他に情報はある?良かったら教えて」
「えっと。私と同じ学年で、名前は那由多。あとは……」
一呼吸置く。記憶を辿る。
「機体の尾翼に、黄色い無限大のマークを描いていました」
先輩が目を閉じて頷いた。
数秒の沈黙が続いた後、おもむろに先輩が口を開いた。
「蘭花、盗み聞きしてないで入っておいでー」
入口の方に視線を動かす。同時に、スライドドアが音を立てて開いた。
「人聞きの悪いこと言うな。ほら、お前の荷物だ。今日はもう帰れ」
猪ノ瀬先輩が少しだけ近づいて、私の鞄や着替えを放るように渡した。
私がそれらを受け取ると、先輩は私から目線を逸らし、口ごもりながら続けた。
「あー、その、なんだ。すまなかったな」
でも次の瞬間には、私を真っ直ぐ見ていた。
「いいか、明日からは特別メニューで鍛えてやる。覚悟しとけ!」
それだけ言い残し、足音を響かせながら退室した。
傍らで朧谷先輩の肩が揺れ、クスクスと押し殺した声が漏れた。
* * *
1年生に課せられるのはランニング、腕立て、腹筋、背筋。
その後に視線の訓練。先輩が左右に動かすペン先を、目だけで追う。
さらにA4のプリントを渡された。『航空戦術の心得 基礎編』と太字で印刷されている。
「先に見つけ先に撃つ」「速度を捨てるな」「戦局は視界・位置・速度で決まる」
そんな文言が箇条書きで並んでいる。何度か音読。
そこから1項目を取り上げて、実戦でどう役立つのかディスカッション。
木曜、金曜、土日を飛ばして月曜。
日によって訓練内容に違いはあったものの、ずっとこんなだった。
私は、ランニングの部分を別メニューに置き換えられた。
まずスクワット。20回×4セット。
そのあとは階段の昇降運動。20分。1段だけ、上って、下りて、その繰り返し。
朧谷先輩が置いていった電子メトロノームに合わせて、リズミカルに。
終わる頃には、最後尾の小鳥遊さんがランニングを終えていた。グラウンドの隅っこで肩を大きく動かし、呼吸を整えているのが見える。
火曜日。
「また走るの?いい加減にしてよ~」
「もうずっと筋肉痛だよー」
「いつになったらゲームするの?」
更衣室では、1年生たちの不満の声が日に日に増えていった。
「ただゲームするだけの部活で、何がランニングだよ」
今日は一段と、文句の言い合いが盛り上がっている。
「全国3位っていうからわざわざ来たのに。
ゲームのこと何も教えてくれないじゃん」
「早く上手になってフレンドの男の子たちにモテたいよ~」
他にも
「大学の推薦が狙える」
「学校で堂々とゲームができる」
「汗臭い部活はもう嫌だ」
など。
図らずも、他の1年生たちの入部理由が耳に飛び込んでくる。
愚痴は嫌い。でも、本音は聞ける。
「あの2人、本当に強いの?ゲームしてるところ見ないけど」
「でも全国3位だよ?」
「メガネ先輩、全然強そうに見えないじゃん」
「怖い先輩は?」
「ゲームよりも喧嘩が強そう。わかった!あの先輩が裏で相手を脅してたんだ!」
「あはは!そうかも!」
愚痴は嫌い。でも、あの2人の力量には私も興味ある。
「じゃあ、仕掛けてみる?」
つい、そんな言葉が口を突く。
ランニングと筋トレの後、部室に集まった私たちは次の訓練を待っていた。
準備を進める先輩たちに向け、私は手を上げようとして、躊躇した。
一度膝の上に戻した右手を、数秒の後、再び上げた。
「あの」
「どうした」
鋭い目線が私を向く。少しだけ怯んだ。
「えっと……先輩たちの力を知りたいと思って」
私の言葉を皮切りに、1年生から次々に文句が噴出した。
「だって全然ゲームしてないし」
「先輩たちって、本当に強いんですか?」
「全国3位なんて、マグレなんじゃないですか?」
猪ノ瀬先輩の眉間の皺が一際濃くなった。
「あ……?」
短い一言で、みんなの口が一斉に閉じた。
猪ノ瀬先輩が半歩踏み出す。肩に力が入って固まった。呼吸が止まる。たぶん、みんなもそう。
沈黙。時計の秒針が進む音を2回か3回聞いた。
「まあまあ、抑えて抑えて。蘭花も。ね?」
朧谷先輩が相変わらずニコニコしながら、両手を上下に動かす。
「じゃあ、みんなでゲームしようか。
でも今日はごめんね。明日までに準備しておくから」
胸の前で両手を合わせて、微笑んだ。
私は息を吐いていた。
「月子。その予定はまだ……」
「いいじゃんいいじゃん。これも親睦を深めるためってことで。
みんなで楽しもうよ!私、手配してくる」
「いい、あたしが行く」
「じゃあ、お願い」
猪ノ瀬先輩が部屋を出て、足音が遠ざかって行く。
帰り際、少し太めの子が「サンキュー、よく言ってくれた」と、私の肩を叩いた。
みんな「やっとゲームができる」と浮かれている。
小鳥遊さんは終始周りをキョロキョロ見回していた。
目がうっすら濡れている。
険悪にするつもりはなかった。今更言っても言い訳でしかない。
何と声をかけようか迷ってるうちに、彼女は行ってしまった。
でも今は、明日のことが気になる。
「全国3位か……」
私は呟いていた。
鞄の肩紐を強く握った。期待と不安が行ったり来たりする。
胸の奥で、鼓動が速く打ち続けていた。




