今日も変わらず診療日和
昔から、こういう静かに人助けをするような主人公が好きでした。
ふと「自分だったら、どんな物語を読みたいかな」と思って、気ままに書き始めたお話です。
楽しんでもらえたら嬉しいです。
朝の光が石畳の路地を柔らかく照らし、小さな薬草の香りが風に乗って店の扉をくすぐった。カラン、といつもの鈴の音。
開け放たれた診療院の扉から、年季の入った大きな背中がのっそりと入ってくる。
「よォ、先生。今日も頼むぜぇ」
「おはよう、カルロスさん。……また飲みすぎたんですか」
ノアは眉をひとつ上げながらも、手慣れた動きで椅子を指差す。
「んーにゃ、最近は楽しんで飲んでるだけよ。昔みたいに嫌なこと忘れたくて煽ってた頃にゃ戻らねえ。けどよ、酒がうまいと、つい飲みすぎるのは変わんねえな」
カルロスはそう言いながら、苦笑いとともに椅子へ腰を下ろす。
肩をすくめるその動きに、かつて剣を振るっていた痕跡が残っている。
ノアは診療道具の並ぶ棚の前で少し息をつく。
朝からこれか、と少しだけ笑って、手元の小さな聴診器を取り出す。
「まあ、あんたの年でそれだけ飲んで歩けるのはたいしたもんだ。けど、肝臓も腎臓もそろそろ悲鳴あげてるぞ」
「へっ、あの戦争の地獄を生き抜いたこの体だ、ちょっとやそっとじゃ死なねえよ。……ってのは昔の話かねぇ。最近は、寝起きに腰も鳴るしな」
「ったく、丈夫なのか脆いのかわからん人だな……。よし、軽く診るからシャツ、ちょっと上げて」
聴診器を当てながら、ノアは目を閉じる。
心音のリズム。呼吸の音。
それから、彼だけが見える“光の流れ”を確認する。
脾臓、やや負担。腎臓、前回よりは安定。
でも、やっぱり酒の影響は抜けきってねぇな。
「ま、急を要する問題はなさそうだ。……いつもの二日酔いと、寝不足のダブルパンチってとこだな」
「ん〜、やっぱりな。昨夜も途中で起きちまって、昔の女の夢なんざ見ちまった。……あれは夢の中でもやかましいんだ、ほんとに」
「ほら来た。だから睡眠導入のやつも作っとく。胃の保護もセットでな。……っと、ちょっと待ってな、調合する」
ノアは奥の調薬机へ向かい、軽く手首を回しながら腰を落ち着ける。
薬草を砕き、粉を調合し、小瓶に流し込んでいく手元は無駄がない。
熟練の職人と、静かな誇りを宿す医者の指先だった。
「できたぞ。今回のは香りも良くしておいた。こっちのは寝る前に飲むと夢見も穏やかになるはずだ。……ただし、これを飲んでまた飲み歩くなら、もう処方しないからな?」
「それと、言っとくが、カルロスさんに合わせて作ったから、他人が飲んでも効果ないからな。」
「へへっ、わかっとるさ。先生が作る薬は、他の奴には効かんのがすごいんだよ。それにほら、なんつーか……体に染み渡るっていうか、ああ、これでまた生きていけるなぁ、ってなるんだよ。ありがとな、ほんと」
「感謝するなら、もうちょい休肝日ってもんを覚えてくれ。……じゃ、精算して、次回は飲む前に来てください。お大事に」
「次回は飲む前、ねぇ……それじゃ酔えないじゃねぇか、先生!」
そう言ってカルロスは朗らかに笑いながら、受け取った薬を胸ポケットにしまい込んだ。
ちりん、と扉の鈴が揺れ、ノアはその音に耳を傾けながら、ふっと笑った。
「元気なじいさんだ……。まあ、それが一番か」
――今日も、この街は元気だ。
――――
扉の鈴が鳴り、カルロスじいさんの背中が角を曲がって見えなくなった頃。
ようやく、診療所に静けさが戻ってきた。
診療机の前に肘をついて、軽く伸びをひとつ。
軋む背中が、今日という日の重みを訴えてくる。
「……まったく。あの歳で、よくもまあ毎日飲む気になるもんだ」
呆れたように笑いながら、俺は使い終えた器具を水でゆすいだ。
陽がさんさんと降り注ぐ窓辺から、薬草を干す匂いが漂ってくる。
俺の名前はノアディス。
この町じゃ「ノア」と呼ぶ方が通りがいい。
呼び名が短い方が、診察券の記入も手間が省けて助かる。……なんてのは半分冗談だけど、まあ、気軽に呼べる方が性に合ってる。
ここ辺境の地〈フェリア〉は、王都から見れば地の果てみたいな小さな町で、住んでるのは年季の入った人間ばかり。
若者は冒険に、職を求めて、もっと賑やかな土地へ旅立ってしまう。
この診療所は、そんな町中にある小さな店だ。
それでも、今日も誰かが扉を叩く。
頭痛を訴える鍛冶屋、古傷を隠す冒険者、パン屋を営む老婦人。
この目で“視て”、この手で“調べて”、それぞれに合った薬を調合する。
棚に並べて売るのではなく、必要な分だけ“処方”する──それが、俺のやり方だ。
俺はこの静けさが気に入ってる。
風が通り、緑が揺れて、耳に入るのは誰かの笑い声と薪を割る音。
都会の喧騒と違って、やわらかく時が流れる町だ。
──俺は、異世界から来た“よそ者”だ。
前の人生では、そこそこ大きい病院で働いていた。
前の世界では、そこそこ大きな病院で働いていた。診察、手術、当直、会議、救急対応……気づけば、一日が終わっていた。職場の空気は殺伐としていて、誰が倒れても可笑しくない、そんな世界だった。
死んだ時の記憶は、正直あいまいだ。
ただ、気づいたら倒れてて、目が覚めたらこっちにいた。
たぶん──いや、十中八九、過労死だろうな。そのうち、何かの数値がレッドゾーンを突破して、ぽきんと折れたんだろう。
まぁ、そんなわけで前世では死ぬほど働いて、実際死んで。今世は、もう少し穏やかに生きてみたいなと思ってる。
できれば、昼にコーヒーを飲んで、夜には眠れる程度には。
診療所はもともと、親父が営んでいたポーション店だった。
俺がものごころつく前に病であっけなく逝って、店だけがぽつんと残された。
親父のことはほとんど覚えていないけど、街の連中は彼をよく覚えている。
無愛想だったが、いい薬を作る男だった。面倒見がよくて、腕っぷしもそこそこあって、なんだかんだで頼れる奴だった……と、みんな口をそろえて言う。
そう言われ続けると、こっちはどうにもやりにくいが。
母さんもその口だ。
親父に惚れて、冒険者をやめてこの町に根を下ろしたらしい。
けれど、数年前に同じ病にかかり、俺がどうにか原因を突き止め、薬を処方して快復した。今じゃその反動か、また自由奔放に旅をしている。
元気がありすぎるのも考えものだ。
こないだは、「砂漠の遺跡で呪いの首飾りを拾ったの! 今度送るね!」と、妙にテンションの高い手紙が届いた。いや、いらないから。
俺には“病を視る”力がある。
身体の異常を、煙のように視認できる特殊な目。
身体の奥の異常を、煙のように視認できるこの目で、俺は診て、調べて、調合して、それぞれに合わせた薬を渡す。
だから、棚にポーションの在庫は置いていない。
ここでは“売る”んじゃない。“処方する”んだ。
今日も一日、街の誰かが少しだけ楽になるように。
地味で、派手さはないが、俺にはこれがちょうどいい。
……まあ、そうやって、俺の周囲は今日も騒がしく、愛おしい。
――――
とある限界患者
最近の自分の顔を鏡でまともに見た記憶がない。
目の下の隈はずっと居座ったままで、肩こりはもはや持病の域。集中すればするほど視界が狭まり、吐き気すら覚える。ポーションは限界量まで飲んだが、効果はもはや気休め以下。いっそ気絶でもしてしまえば楽なのにとすら思う。
だが、そんな贅沢を許してくれる職場じゃない。
職場に行けば、まだ終わっていない仕事が、机の上に山を築いている。
報告書、調査記録、依頼の書類。片付けるそばから、次の案件が容赦なく舞い込んでくる。
そして、これからさらに増える気配すらある。
この町には初めて来た。地図とにらめっこしながら仕事先へ向かう途中、ふと目に入ったのは、地味な色合いの木製の看板。古めかしい建物の軒先にぶら下がっているそれには、手書きでこう記されていた。
――ノア薬舗・診療所
飾り気はない。そもそも営業しているのかも怪しい。だが、奇妙なことに、足が勝手にその方へ向かっていた。疲労がピークに達すると、人は判断力を失う。その扉を叩いたのも、何か明確な理由があったわけじゃない。
ただ、どこかで「今の状態をどうにかしてほしい」と思っていた。それだけだった。
扉を開けると、微かなハーブの香りと乾いた木の匂いが鼻をくすぐった。目に入ったのは、簡素な木の棚。だが、その棚に並んでいるべきもの――色とりどりのポーション――は、ほとんど見当たらない。
(田舎の店だから補充が追いついてないのか?それとも……)
そんな風に首を傾げたところで、奥の方から足音が聞こえた。暖簾をくぐって現れたのは、白衣のような服をまとった男。目は鋭く、けれどどこか親しげで、口元には一筋の笑み。
年のころは── 十代半ばか、二十手前。青年と呼んでも差し支えないくらいの年齢だ。
ただし、雰囲気は年齢よりもずっと落ち着いていた。薬屋というより、職人に近い空気を纏っていた。
「いらっしゃい。
……顔色が悪いな。準備するから、そこに座ってて」
聞かれる前に口を開かれたことに、一瞬だけ警戒心がよぎった。だがその声に強引さはなく、見た目に反して、不思議と逆らえない重みがあった。
「……ポーションを、一つ……いや、効くやつを。強い、やつ」
ようやく絞り出した言葉に、男は眉ひとつ動かさず、言った。
「お目当てのポーションは、置いてないんだ。うちじゃ処方式さ。まずは、診察からだ」
「いや、あの……俺は、ただポーションを……」
「いいから座れ。話はそれからだ」
そう言って、彼――ノアは背後の診察台へと身振りで誘導した。
強引とも取れる口調だったが、不思議と反発する気が起きなかった。気づけば自分は、反論もせず従っていた。むしろ、脳のどこかが“この人に任せればいい”と呟いていた。
部屋は静かだった。風の通る音、カーテンがかすかに揺れる音、そしてハーブがほんのりと香る空気。診察台は硬くもなく、柔らかくもなく。ちょうど疲れた身体を預けるのにいい塩梅。
言われるがままに診察台に腰掛けると、ノアがぐっと顔を覗き込んだ。
「顔色、目の濁り、首筋の張り……寝てねえな。ポーション、いくつ飲んだ?」
「……五本。これ以上は……死ぬって、わかってます」
「賢明な判断だ。だが、そこまでギリギリで来たなら、もう賭けに出るしかない」
そう言って、ノアは無造作に後ろの棚を開け、いくつかの小瓶と草を取り出した。
「このまま横になって。首の後ろに指当てるぞ。
……凝ってるな、筋が石みたいだ。これじゃポーションも効かないだろう。
……ちょっと失礼」
首元に冷たい指が触れ、そこから流れるように肩、背中へと手が動く。圧が深く、的確で、妙に安心する指の動きだった。
――あれ、なんだこれ……気持ち、いい……。
一点に刺さるような痛みのあと、じわじわと熱が広がる感覚。痛みでうめき声を上げそうになるが、不思議と嫌ではなかった。むしろ、心地よかった。痛気持ちいい感じだ。
「痛いか?」
「……効いてる証拠だって、言われたことがある」
「これは、重症だな」
男はそう言って、わずかに口元を緩めた。どこか皮肉めいていて、それでいて手つきは優しい。
やがて、言葉も思考もフェードアウトしていく。
気づけばうつ伏せのまま、静かに意識を手放していた。
何年ぶりだろうか、薬も使わず、深く眠りに落ちたのは――。
――――
ふと目を覚ました瞬間、空気の質感が変わっていた。
陽の光が差し込む落ち着いた室内。窓から差し込む光の角度は、ほとんど変わっていない。
なのに、身体の奥に溜まっていた重さがすっと抜け落ちていて、肩も、目も、嘘みたいに軽かった。
まるで数時間、ぐっすりと眠ったあとのような感覚だった。
けれど――
「……やばっ」
飛び起きて辺りを見回す。
次の予定までに、そう時間があるわけじゃなかったはずだ。
完全に寝落ちしていた。下手をすれば、何時間も――
「大丈夫。十五分しか経ってないよ」
低く、落ち着いた声が背後から届いた。
驚いて振り返ると、白衣のような服を着たここの店主が、静かに湯気の立つカップを手にしていた。
その声には、妙な説得力があった。
時間を正確に把握しているというよりも、「そうである」と言われれば自然と信じてしまう、そんな響き。
「あんまり無理すると、すぐガタがくるぞ。身体ってのは、正直だからな」
彼は俺の前にカップを置くと、軽く笑って、また奥に戻っていった。
その背中を目で追いながら、胸の奥で何かがゆっくりと解けていくのを感じていた。
確かに、十五分。
それだけで、こんなにも楽になれるなんて。
そう思った瞬間、カップから立ちのぼる香りが、もう一度深く呼吸を促してくれた。
「……どうやら少し眠れたらしいな。ちょいとスッキリした顔してる」
ノアはそう言って、小瓶をひとつ手渡した。淡い青の液体が揺れている。
「特製の一本。今の状態に合わせたやつだ。寝る前に半分だけ飲め。残りは朝な。間違っても一気飲みするなよ、前提が違う薬だからな」
ぼうっとしながら、それを受け取る。
「……なんで、こんなに楽に……?」
「診たからさ。語らずとも、君の身体が全部教えてくれた。俺の仕事は、それを読み取って、ちょいと手を加えるだけだ」
「……ああ。助かった。……ありがとう」
自分でも驚くほど素直な言葉が口をついた。
「礼は元気になった顔で返してくれりゃ充分だ」
外に出ると、太陽の光がやけにまぶしく感じた。
この街に来て、最初に出会ったのがあの男だったことは――
長い人生で1番、運が良かったのかもしれない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
少しでも楽しんでもらえていたら、とても嬉しいです。
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