疑心 ~後編~
「我らが偉大なる友人たちに!」
オズワルはそう告げると、透明な液体が満たされたグラスを前へ掲げた。
「偉大なる友人たちに!」
反対側の席に座るラムサスも、透明な液体が満たされたグラスを掲げる。二人の掲げたグラスを、窓から差し込む満月に近い月明かりが照らした。
オズワルはグラスの中身を一気に空けると、同じく強い蒸留酒を飲むラムサスを眺める。その姿は若者らしく活気に満ちているが、オズワルを見る黒い瞳には、年不相応な冷静さと意志の強さを感じさせた。
「クバルトのことは残念でした」
オズワルの言葉にラムサスが頷く。
「その通りだ。そのクバルトの死が無駄になるかもしれないと思うと、さらに残念だ」
そう告げたラムサスのグラスに、オズワルは手元の瓶から再び透明な液体を注いだ。そして自分のグラスにも注ぐ。
「最後はあなたの盾となって死ぬ。それがあの男の口癖でした。なので本望だと思います」
「船長はいつからクバルトと?」
ラムサスの問いかけに、オズワルは少し遠い目をして見せた。
「今のラムサス様よりも若い時からの付き合いです。その時はお互いにどうしようもない悪ガキでした。今でも私の方は大して変わってはいませんが……」
その台詞に、ラムサスが口元へ運ぼうとしていたグラスを止めて、オズワルを眺めた。
「あのクバルトがか?」
「ええ。あなたの守役になってからは、かなり猫をかぶっていたみたいですが、ムアル家の跡目をつぐ予定もそのつもりもなかったようで、私たちと一緒にやりたい放題でした」
オズワルは苦笑いを浮かべながら、手にしたグラスをラムサスへ掲げて見せた。
「あの口うるさい爺がやりたい放題とは、とても信じられないな」
そう告げると、ラムサスは再度グラスの中身を一気に空けた。そして瓶を手にしようとしたオズワルを制すると、自分で瓶からグラスへ液体を注ぐ。
「この季節にアラム海を渡りたいという、私のわがままを聞いてくれたことについては心から感謝している」
「お気になさらないでください。クバルトには何度か命を救ってもらっていますし、報酬も十分にいただいております」
「だがあの娘がイシスでないとすれば、クバルトの死も、こうして危険をおかしてアラム海を渡ってきたことも、すべて無駄になる」
忌々し気につぶやいたラムサスに対し、オズワルが首を傾げて見せた。
「そうでしょうか?」
「本人が違うと言うのに、本物だというのか? それに特別な力があるようにはとても思えない」
「僭越ながら私の見る限り、あの子は決して普通の娘などではありません」
「どういう事だ?」
オズワルの台詞を聞いたラムサスの黒い瞳が鋭く光る。
「私が飼っていたあの子ザルですが、あれはただのサルではありません。頭の上の毛が白く、額の中央に赤い印がある。本来ならユーカリアの神殿に神獣として納められるはずのものを、私の同業者が襲って手に入れたものです」
「それをさらに……」
「はい。私の方で上前を撥ねさせていただきました。ですがあの子ザルは全くなつかなかったようで、私が手に入れたときには食事もとらずに、ほとんど死にかけていました」
「本当か?」
ラムサスが怪訝そうな顔をした。
「毎日無理やりにでも餌を食べさせてやった私になつくまでも、相当に時間がかかりました。それに他の者には一切なつきません」
「あの娘には喜んで飛び跳ねていったぞ」
「だからです。私もとても驚きました。なついているというか、離れる気がまったくないようです。それにまるで昇ったばかりの月のようなあの髪」
「確かに髪について言えば伝承通りだ。だが目は赤ではない」
「その点については何とも言えません。ですがやはり只者ではないと思います」
「根拠は?」
「クバルトから話を聞いていませんでしたか? あの娘をかくまっていた神父ですが、クバルトはもちろん、私も名前だけならよく知っている男です」
「死体を見た限りでは、ただの異教のおいぼれ神父にしか見えなかったが?」
「本名よりあだ名の方が有名な男です。『教国の黒い殲滅者』の名前を聞いたことは?」
「もちろんある。先の大戦で我が国の街をいくつも総なでにした、悪魔のようなやつだな」
「本名はガストナと言います。前の聖教騎士団の団長にして、教国の枢機卿だった男です。それが突然に枢機卿を辞して、辺境の村であの娘と隠れ住んでいた。それを教団がラーシャたちまで使って襲っています」
「その娘がただの娘であるわけがない……」
「そうです。亡きクバルトも同じ意見でした」
「だからか、あの頑固者がアラム海を渡ると言っても止めなかったのは……」
「はい。イム、ラムサス。その通りです。クバルトはあなたが赤き月を手に入れるべきだと信じていました。それに今の我々の状況もそれを示しています」
「この凪いだ海だな」
ラムサスの問いかけに、オズワルが深く頷いて見せた。
「はい。行きでどれだけ苦労したかは……」
「もちろんだ。樽を抱え続けることになるとは思わなかった」
ラムサスのうんざりした顔を見て、オズワルが苦笑いを浮かべて見せる。
「それでもラムサス様が王宮の宝物庫から持ち出した、厄災避けの護符がなかったら、とてもたどり着けませんでした。後で相当に面倒なことになると思いますが、本当によろしかったのですか?」
オズワルの問いかけに、今度はラムサスが頷く。
「道具も金も使ってこそ意味のあるものだ。宝物庫に積んでおいても何の意味もない」
「確かにおっしゃる通りです。ですがそれも尽きました」
その言葉にラムサスが驚いた顔をする。
「あるだけ根こそぎ持ち出したのだぞ」
「正直なところ、大半は見掛け倒しの偽物です。一応は気休めとして使っていますが、効果の方は全く当てになりません」
オズワルが残念そうに、背後の頑丈なチェストを指さして見せる。
「船員たちは凪いだ海も、この船が未だに無事なのも、あの娘のお陰だと思っています。因みに私もその一人です。女神に乾杯ですな」
オズワルはそう告げると、グラスを掲げて透明な液体を飲み干した。
「宝物庫で大げさに保管されていたのは、見掛け倒しのガラクタだったと言う事か……」
「真の価値とは見かけではなく、その内に秘めているものです」
「だが本当にそうなのかはまだ分からない」
ラムサスはオズワルにそう答えると、空になったグラスをテーブルへ置いて、船長室を後にする。そして夜の帳が落ちた空に浮かぶ、黄色く光る月を見上げた。
ギィギギィギ――!
船の木材が立てる大きな軋みを音を聞きながら、アイシャはなかなか寝付けずにいた。頭の中ではオナスが教えてくれた西方言が、ぐるぐると回っている。
『マカリーム、あいさつと謙譲の言葉』
『ダム、はい』
『ウント、いいえ』
『イルアス、子ザル』
勉強した内容を思い返ながら、アイシャは枕元ですやすやと眠る子ザルの頭を撫でた。それに反応して、子ザルが気持ちよさそうに寝返りを打って見せる。アイシャはその寝顔を見ながら、まだ自分が子ザルの名前を知らないことに気が付いた。
せっかく仲良くなれたのだから、名前で呼んであげたい。明日オナスに聞いてみよう。そう思ったアイシャは足元の扉の隙間から月あかりが漏れているのに気が付いた。誰かが扉を開けて、この部屋に入ってこようとしている。
『こんな夜中に誰だろう?』
少なくともクルトの足音ではない。自分の寝台へ近づく足音にアイシャは身を固くした。
アイシャの鼻に強い酒の香りに交じって、昼間もかいだ匂いが漂ってくる。アイシャが恐る恐る薄目を開けると、自分を覗き込む背の高い、上半身が裸の男性の姿が見えた。
『ラムサス王子だ!』
その端正な顔がアイシャの目の前に近づいてくる。アイシャはさらに身を固くしつつその黒い瞳を見つめた。そこには昼間会った時に感じた冷たさとは違う、熱のようなものが感じられる。
ラムサスの手が伸び、アイシャの顔の半分を覆っていた掛布をゆっくりとおろしていく。それはアイシャの顔を、薄い部屋着を着たアイシャの胸元をあらわにした。
『あなたは彼の、ラムサス王子のものですよ』
アイシャの頭にオナスの言葉が響く。ここでは自分は人ではなくものだ。アイシャは男性を受け入れたことはなかったが、男が女に何を望んでいるかぐらいは分かっている。アイシャは体から力を抜くとそっと目をつむった。
「アム、イシス、マリカ?」
聞き覚えのある台詞が耳に響く。今のアイシャはその言葉の意味を知っている。アイシャは自分がその問いかけに頷くべきかを必死に考えた。
だがアイシャが何かを答える前に、足音が部屋の出口へと遠ざかっていく。慌てて目を開けると、月明かりを浴びながら部屋の外へと出ていくラムサスの姿が見えた。そして戸口にいたらしいクルトが、部屋の中を一瞥すると扉を閉める。
「キィキキィ?」
目を覚ましたらしい子ザルが顔を上げた。そしてアイシャの肩にその身を摺り寄せてくる。アイシャはそのやわらかい毛をなでながら、自分の心臓が聞いたことがないぐらいに、高く鳴り響いているのに気が付いた。