疑心 ~前編~
キッキィキ――!
船室の寝台へうつぶせになっているアイシャの耳元で、子ザルが嬉しそうに声を上げた。どういう訳か子ザルはアイシャの髪が気にいったらしく、その赤毛を手に巻き付けては、飽きることなく遊んでいる。
アイシャはその姿を横目で見ながら、ラムサス王子とのやり取りを思い出していた。女神なのかと聞いてきた、王子の黒い瞳が頭から消えない。オナスからは休むように言われてはいたが、とても眠ることなど出来なかった。
「食事です」
不意に船室の入口から声が響く。顔を上げると、食事の盆を持ったオナスが中へ入ってくるのが見えた。その背後から水差しを持ったクルトも入ってくる。アイシャは慌てて寝台から起き上がった。
「せっかく忠告してあげたのですけどね」
盆をテーブルへ置いたオナスが、アイシャの顔を見ながら嘆息して見せる。
「すいません」
アイシャはオナスの顔をまともに見れずに頭を下げた。だがいくら考えても、自分が間違っていたとは思えない。女神のフリなど自分には無理だ。それに王子を裏切ることにもなる。
「自分の立場がまだよく分かっていないですね。あなたは自分の意志が持てると思っていませんか?」
オナスの言葉にアイシャは当惑した。
「あなたはラムサス王子のものです。その意に反する発言や行動は一切許されません」
「分かりました」
アイシャは素直にオナスにうなずいた。確かにオナスの言う通りだ。女神のふりをするのが無理だとしても、王子に逆らうことは許されない。
でもここに来る前の自分に、自分の意思などというものはあったのだろうか? アイシャは考えた。朽ちかけた教会で掃除や洗濯をして食事を作る。それを毎日繰り返していただけだ。アイシャの顔色を見たクルトが、隣に立つオナスをにらみつけた。
「アフラ、アム、イシス、マリカ?」
そう声を上げると、腰に差した剣の柄へ手をやる。それを見たオナスが、慌てて両の手を上げた。
「ウント、アム、イシス、アフラ!」
オナスはそう答えつつ、助けを求めてアイシャの方へ視線を向ける。
「クルトさん、オナスさんが悪いわけではありません!」
アイシャは慌ててクルトへ声をかけた。
「カタリーヌ、アム、イシス」
クルトが膝を床につけてアイシャへ頭を下げる。どうやら叱責されたと思っているらしい。そうではないと告げようとして、アイシャは口を閉じた。教国語で何を言っても、きっと分かってもらえないだろう。
「オナスさん!」
「なんでしょう?」
部屋を出ていこうとしていたオナスへ、アイシャは声をかけた。
「お願いします。私に西方語を教えてください」
アイシャはオナスに再び頭を下げた。その拍子に床へ飛び降りた子ザルが、不思議そうな顔をしてアイシャを見ている。自分がガトーと暮らしたあの教会へ戻れるとは思えない。戻ったところでもう何もない。
ならば自分がここで生きていくために、先ずは言葉を覚えるべきだ。それを覚えられれば、自分が単なる村の娘であることも、女神の生まれ変わりでないことも、もっと上手に説明できるはず。
「分かりました」
「アム、クルト。ダクラス、ポール、アド、ノマル?」
オナスがクルトへ声をかけた。
「ポール、アド、ノマル、マリカ?」
オナスの言葉にクルトが驚いた顔をして見せる。そして腰の帯に挟んだ小さな手帳へ視線を向けた。
「アナ、イシス、ワタム、ガラムート」
オナスがクルトへ答える。
「ダム!」
それを聞いたクルトは身を翻すと、部屋を飛び出していく。その後ろ姿を眺めたオナスが、アイシャへにっこりと微笑んで見せた。
「私があなたと一緒にいられる時間が、あとどれだけあるのか分かりません。善は急げです」
アイシャはオナスの言葉に頷いた。
その通りだ。オナスはこの船に属している。航海がどれだけ続くのかは分からないが、オナスと一緒にいられる時間は、決して長くはないはずだ。
「サンズの死体を確認しました。娘は逃げたようです」
天幕の中で教書を前に座っていたアランは、伝令のもたらした報告に、その端麗な顔を僅かにゆがめて見せた。
「私が老害どもの相手をしている間に、小娘一人の始末もできなかったと言うことか?」
その問いかけに、教団服を着た男たちの顔に緊張が走る。
「あの背信者が、死ぬ前に何かしかけていたのか?」
「神父の死体も確認しましたが、術をしかけた形跡はありません。娘については、傭兵どもが襲撃してきた者たちに奪い取られたと言っています」
「襲撃?」
伝令の報告にアランが首を傾げて見せる。
「何人かは仕留めたそうです。こちらがその者たちの得物になります」
アラン卿の前へ湾曲した幅広の剣が差し出された。その剣にはまだ赤黒く乾いた血がびっしりとついていたが、その隙間から柄に彫られた薔薇の紋章が見える。
「ガラムートの異教徒どもか……」
「襲撃者たちは海岸へ向かったとのことですので、その可能性は高そうです」
その言葉に、アランは細く長い指を顎に当てながら、少し考え込んだ表情をする。
「この時期にガラムートからアラム海を渡ってきたのか……」
「さすがにそれは不可能かと思います。おそらく夏の間にこちらの哨戒網をくぐって――」
「間違いない。やつらは渡ってきたのだ」
アランの台詞に教団の者たちは口をつぐんだ。
「裏切者が異教徒へこの件を売り渡したのだろう。異教徒との戦いからいきなり手を引いて引退などした時点で、処分しておくべきだったのだ」
アランはそう告げると、ペンを手に便せんへ何かを書き込んだ。
「これをマーカスの港へ送って、すぐに船を出すように命令しろ」
伝書を受け取った男が驚いた顔をする。
「この時期に船を出すのですか?」
「向こうはわざわざこの季節にアラム海を渡ってきたのだ。こちらもそれなりの礼が必要だろう。もし命令に躊躇したり、出航を遅らせるものがいたら、私の権限で移動裁判にかけると伝えろ。それに関してはお前たちも例外ではない」
そう言うと、アランは天幕にいた男たちへ、早くいけと手を振って見せた。
「すぐに伝えます!」
男たちが教団服の裾を翻し、慌てた様子で天幕から外へ飛び出していく。
「面倒なことになったな」
アランの背後から、真っ黒なローブを羽織った巨漢の男が進み出た。目深にかぶったフードにその顔は見えない。
「その通りだな。たかがおいぼれの後始末だと思っていたら、この体たらくだ」
アランは手にした羽ペンをテーブルへ放り投げると、巨漢の方を振り向いた。
「赤きほうき星が天に現れてから17年。教団の総力を挙げて厄災の種の排除に勤めてきたというのに、内部のものが、それも枢機卿の位にある者たちがそれを隠匿するなど、一体何の冗談だ?」
「それに誰も口を割らなかった」
巨漢がアランに肩をすくめて見せる。
「ムスタフ、術の準備をしろ」
「船も含めて必要か? この季節にアラム海へ出たのだ。放っておいてもいずれは海の藻屑になる。それにお前が見ても何も感じなかったのだろう?」
そう告げた巨漢に、アランは首を横に振って見せた。
「少なくともガラムートの異教徒どもはそう思っていない。やつらがこちらが知らない情報を得ていた可能性もある。ムスタフ、やはり後始末は大事だな。今回はそれを怠ったために失敗した」
「本気か?」
巨漢が首を傾げて見せる。
「本気だよ。己の失敗は己で償うべきではないのか? 教書にもそう書いてあるぞ」
「だが贄はどうする?」
巨漢の問いかけに、アランが口端を上げて見せる。
「贄ならば、それしか使い道のなさそうなやつらが、そこに山ほどいるではないか?」
アランが巨漢に天幕の外を指さす。そこからは野営をする傭兵たちの下卑た笑い声が響いていた。
タイトルを「女神」から「疑心」に代えさせていただきました。m(__)m