海賊船
ビュ――!
開いた扉の先から湿気を含む風が吹き込み、アイシャの赤毛を巻き上げた。この匂いはどこかで嗅いだ記憶がある。そうだ。足の傷で気を失う前に嗅いだ匂いと似ている。アイシャは足の痛みも忘れて扉の外へ飛び出した。
「これは?」
扉を出た瞬間、アイシャの口から思わず言葉が漏れた。目の前には空よりも濃い青をたたえた水が広がり、それがどこまでも続いている。海だ。これが海なんだ。アイシャは心の中で感嘆した。だけど本当にこれは全て水なのだろうか?
アイシャは船縁にある手すりへ手をついて下を見た。そこでは大きなうねりと共に、白い波が後ろへと流れていく。波しぶきから上がった飛沫が、アイシャの顔を濡らした。
「しょっぱい!」
アイシャの台詞に背後で小さな笑い声が上がる。振り返ると、オナスが口元に笑みを浮かべながらアイシャを眺めていた。
「海を見るのは初めてかな?」
オナスの言葉にアイシャは素直に頷いた。本の中で海の存在は知っている。だが本の中で学ぶのと、本物を見るのは全く違う。本物はあまりにも雄大で、説明を元に頭の中で描くことなどとても出来ない。
海に感動する一方で、アイシャはどこにも陸地が見えない事に不安を感じた。一体自分はどこに居て、どこへ向かおうとしているのだろう。
「ここはどこなんですか?」
アイシャはオナスへ問いかけた。
「先ほど言った通り、教国と西方の大国ガラムートを隔てるアラム海です」
『アラム海!』
オナスの答えにアイシャは驚いた。つまり陸沿いではなく、外海に出ている事になる。この季節のアラム海は波が高く、大きな船でもそれを渡るのは無理なはず。
今も波はあって、それにぶつかるたびに船が揺れはするが、本で読んだ荒れる海とはとても思えない。それに頭の上にあるのは雲一つない快晴だ。
「陸地からずいぶんと離れているみたいですが、まだアラム海の入り口なのでしょうか?」
「そうですね。今のところ陸地からそれほど離れてはいません。彼らが一緒です」
心配そうな顔をしたアイシャに、オナスは背後を指さした。そこでは高い帆柱に張られた白い帆が、風をはらんではためいている。
ミャ――、ミャ――
その上から猫みたいな声が聞こえてきた。白い翼を広げた二匹のウミネコだ。それが鳴きながらアイシャの頭上を旋回していく。アイシャが教会にいた時にも、風が強く吹いた後に空を飛んでいる姿を見たことがあった。
海辺に住むと言うその白い姿を見ながら、一緒にどこか遠くへ行きたいと願ったのを思い出す。
「航海は始まったばかりです。これからしばらくは陸地を拝むことはありません」
そう言うと、オナスは水平線へ視線を戻した。アイシャは大きな傷のある横顔を見ながら、その表情が決して景色を楽しんでいるようには見えないのに気が付いた。それはむしろ何かを覚悟した顔に思える。
アイシャは手すりにつかまりながら辺りを見回した。船の上では真っ黒に日焼けした半裸の男たちが忙しそうに動いている。アイシャは自分が乗っている船の大きさに、乗っている船乗りたちの多さに驚いた。
船には前後に大きな帆柱が二本立っていて、その先端付近は籠みたいになっている。そこには見張り役の男たちがおり、それぞれ遠眼鏡を持って周囲を見回していた。快晴にも関わらず、その姿からは張り詰めた緊張感を感じる。やはりここはとても危険な場所なのだ。
「この船は……」
「アラム海からさらに西のムース海までをまたにかける商船です。時には私掠船となり、時には海の傭兵にもなる存在ですよ」
よく分からないと言う顔をしたアイシャに、オナスが苦笑いをして見せる。
「一般的な言葉で言えば、海賊船というやつです」
その言葉にアイシャは慌てた。確かにもう一度あたりにいる船乗りたちを見てみると、腰には歪曲した幅広の剣をさし、オナスの顔と同様に、刀傷と思しき傷を持つ者もいる。
「イム、ラムサス」
海を眺めながら話をしていた二人に、クルトが声をかけた。そして船の進行方向の反対側、船尾の方を指さす。そこでは若い男性と、腹回りがかなりでっぷりした中年の男性が立ち話をしているのが見える。
中年の男性は鮮やかな鳥の羽が付けられた皮の三角帽子を頭に乗せ、装飾品が一杯ついた派手な服を着ていた。若い男性は少し癖のある黒髪を風になびかせながら、上半身は裸のまま、下半身には足首をしぼったゆったりとした服を着ている。
アイシャの視線は若い男性の背中に引き寄せられた。そこには背中一杯に、巨大な目と思しき入れ墨がほられている。アイシャは自分がその目にじっと見つめられている気がした。
「ちょっと変わった帽子を被っているのが船長のオズワルです。船長と話をしているのがクルトの主人、そしてあなたの主人でもあるラムサス王子です」
『王子!』
オナスの言葉にアイシャは息を飲んだ。位の高い人だとは思っていたが、まさか王子だとは想像も出来なかった。
船長の背後で船の舵を握っていた男が、アイシャに気がついたらしく、前に居る船長の肩を叩くと、アイシャ達の方を指さした。船長が帽子のつばに手をあててアイシャの方へ視線を向ける。それを見た男性がゆっくりと背後を振り返った。
風になびく黒髪。切れ長の目に黒い瞳。どこにも無駄な肉のついていない鍛えられた体。そのどれもが、まさに彫像が動き出したという言葉が相応しいように思える。間違いなく、あの夜に自分を助けてくれた男性、その人だ。
それにアイシャは男性が思っていたよりも若く、もしかしたら自分とそう年が離れていない事に気が付いた。だがその眼光は鋭く、意思の強さを感じさせる。
「アム、イシス、クラウム、ディア、イム、ラムサス」
クルトはそう告げると、アイシャに対し頭を下げつつ、腕をラムサスの方へ差し出す。
「ラムサス王子の前へお進みください」
オナスがアイシャへ教国語で告げた。今さら船室に逃げ帰るわけにもいかない。アイシャは右手と右足が同時に出そうになりながらも足を進めた。
緊張のためか、傷の痛みすら感じない。周囲にいる船乗りたちもアイシャに気が付いたらしく、全員が手を止めてアイシャの方をじっと眺めている。
アイシャは漆黒の瞳で自分を見つめる王子の前へと進んだ。足が小刻みに震えてくる。アイシャは膝を折って王子へ挨拶しようとしたが、忘れていた傷の痛みに足が止まり、そのまま前へ倒れそうになった。
アイシャの前に腕が差し出される。そしてあの晩と同じく、アイシャの体はラムサス王子の力強い腕に抱き抱えられた。
『この匂いだ』
王子の胸に顔を埋めながら、アイシャはそれが夢で嗅いだ匂いであることに気がついた。
「ウラム、アン、イシス、ラクス、オズワル」
派手な羽飾りの帽子を被った船長が前へ進み出ると、帽子を手にアイシャへ丁寧にあいさつをして見せる。その表情はまるで子供を眺めるかのようににこやかだ。
「ダム。ハトリ、イア、ローズ」
そう告げると、オズワルはアイシャの赤毛を指さした。その背後から何かがいきなりアイシャの方へ飛び出してくる。
「キャ!」
アイシャは手を上げてそれを避けようとしたが、茶色い毛玉が素早くアイシャの胸へ飛び込んできた。
キッキィ――!
アイシャの胸からかん高い鳴き声が響く。慌てて胸元を見ると、とても長い尻尾を持った一匹の子ザルが、アイシャの顔を眺めながら首をかしげている。
「イルアス、ダム、ポラム!」
船長はアイシャから子ザルを退けようと手を伸ばしたが、子ザルは素早く身を翻すと、アイシャの肩へ飛び移った。
キィキキキ、キィキィ――!
そして船長に向かって抗議の声を上げる。どうやら子ザルはアイシャの肩が気に入ったらしい。そのまま跳ねまくっているアイシャの赤毛に顔を突っ込むと、その匂いを嗅いでいる。
「サーヤム……」
船長はそう嘆息すると、アイシャを腕に抱くラムサス王子に肩をすくめて見せた。そして動きを止めて、アイシャの方をじっと眺めている船員たちに気付くと、大きく手を振り上げて見せる。
「グズラ!」
その声に、時が止まっていたのが解けたかの如く、船員たちが一斉に動き始める。それを見た船長はフンと鼻を鳴らして見せると、ラムサス王子とアイシャへ背後の扉を指さした。そしてオナスへも中へ入れと指示を出す。
アイシャは痛む足元に気を付けながら、王子に続いて船長が開けた扉の中へ入った。そこはアイシャのいた船室より一回り大きな部屋で、テーブルにはアイシャが見たこともない道具や、大小の海図らしきものが所狭しとおかれている。
船長はラムサス王子とアイシャに椅子をすすめると、自分も革張りの椅子へ腰をかけた。日に焼けて赤黒い顔といい、そこに刻まれた深いしわ。後ろで束ねられた白いものが混じった髪。アイシャが読んだ冒険譚に出てくる海賊そのままの姿だ。
「アナ、イシス。マリカ?」
腰に縛っていた黒いシャッツを上に羽織った王子が、アイシャに声をかけた。その声はとても冷静で、感情を抑えて話しているように思える。黙っているアイシャに対し、ラムサス王子が指をくるくると回して見せた。扉の前にいたオナスが一歩前へ進み出る。
「ラムサス王子はあなたに、女神イシスの生まれ変わりかと聞いています」
アイシャの視線の先で、オナスは丁寧に王子の言葉を伝えると、恭しく頭を下げた。その水色の目は何かをアイシャへ伝えようとしている。アイシャはこちらをじっと眺めるラムサス王子を見た。その黒い瞳は全てを見通しているようにしか思えない。
「わ、わたしは――」
ラムサス王子がアイシャの言葉の続きを待っている。周囲から聞こえるのはギギィーという船が軋む音だけだ。オナスの言う通り、自分は女神のフリを、期待されている役を演じるべきなのだろうか? それとも――。
「私は女神ではありません。ただの教会の下働きの娘です」
アイシャは喉の奥につまっていたものを一気に告げた。
「ウント、アナ、イシス。ナム、アイシャ。クルマ――」
オナスがアイシャの言葉を訳す。アイシャの視線の先で、ラムサス王子の頬がピクリと動いた。
「ウント!」
オナスの言葉の途中でラムサス王子が声を上げる。そして椅子から立ち上がると、アイシャの方へ歩み寄った。その迫力に、肩に乗っていた子ザルが、アイシャの髪の中へその身を隠す。
「ウント! アナ、イシス、ダム!」
王子はそう叫ぶと、指を部屋の床へと向けた。
「アナ、カルム、ルイーダ。 マナム、ウミラ、イダ、シズル!」
言葉を続けた王子がアイシャの顔を指さす。そしてその目をじっと見つめた。
「アナ、スマト、イシス、クルメール!」
ラムサス王子の言葉の一つ一つをアイシャは理解できない。だがアイシャは王子が何を言いたいのかはよく分かった。彼はお前は女神だ。女神でなければならないと言っている。そうでなければ、騎士たちの死は単なる無駄死にとなってしまう。
オナスの言うように、女神のフリをすべきなのかもしれない。だがアイシャの心の中の何かが、この人に嘘をついてはいけないと告げていた。
『私はけっして女神なんかじゃない』
アイシャは自分を見つめる黒い瞳に向かって首を横に振った。
「ウント!」
王子が再びそう叫んだ時だ。船長のオズワルが王子とアイシャの間へ割り込む。その灰色の目がアイシャを、そしてラムサス王子を眺めた。
「イム、ラムサス。アナ、イシス、ダクラ、マリカ?」
そう言うと、派手な柄のシャッツに包まれた大きな腹の前で、手を広げて見せる。その言葉に王子は小さくため息をついたが、顔を上げるとオズワルに頷いて見せた。
「アナ、イシス、クルマ、カーラ、イスト。フタル、オペラ」
船長がオナスに向かって声を上げる。
「今はお疲れでしょうから、この件については、また時間をとって話をしましょうと船長は提案しています」
船長がアイシャに頷いて見せる。そしてアイシャの髪の中から顔をだした子ザルに対して手を差し出した。
「ポラム」
オズワルの呼びかけに子ザルはキィキと小さく鳴くと、先ほどのアイシャ同様に、大きく首を横に振って見せた。