印
アイシャは男性に抱かれている夢を見ていた。ずっとガトーと二人だけで暮らしていたアイシャはまだ男を知らない。だけど男性の胸に抱かれ、その匂いを嗅いでいるのは分かった。
そして抱かれている相手の下半身が熱く脈打っているのを感じる。だが不思議とそれに嫌悪感を感じることはない。むしろ何かに守られている気がした。
そしてアイシャの体の中で何かが疼き、それを受け入れようとしている。それはアイシャが今まで感じたことがない、とても幸せなまどろみだった。
ギギギィギィ――!
耳に響くきしみ音に、アイシャは目を覚ました。目を開けると、木で出来た染みの目立つ天井が見える。右足はずきずきと傷むが、それが自分のものでなくなった感じはしない。だがアイシャの体はまだゆらゆらと揺れていた。
ギィギギギィイギィ――!
再び木の軋む音が聞こえた。そこでアイシャは自分が揺れているのではなく、自分が横たわっている寝台が、いや部屋自体が揺れているのに気づく。
慌てて飛び起きたアイシャの前で、誰かが椅子に座っているのが見えた。その頭には布で巻かれた帽子を被り、手には小さな手帳のようなものを持っている。
アイシャはその顔に見覚えがあった。あの嵐の夜にアイシャを救い出した男性と一緒に居た少年だ。少年は起き上がったアイシャに小さく頷くと、椅子から立ち上がって部屋の外へ出ていく。部屋の中にはアイシャと木の軋む音だけが残された。
「アム、イシス、グルタ、マリカ?」
「グルタ」
部屋の外で少年が誰かと話す声が聞こえてきた。不意に扉が開くと、茶色い髪と水色の目を持つ、質素な麻の服を着た背の高い男性が部屋へと入ってくる。その姿は異教徒と言うより教国の人に見えた。それに男性の頬には刀傷と思しき、長い傷が刻まれている。
男性はアイシャの横たわる寝台の元へ歩み寄ると、体に掛かっていた薄い布を持ち上げた。アイシャの白い足が男性の前へあらわになる。慌ててそれを隠そうとしたアイシャに向かって、男性は小さく指を振ってみせた。そしてアイシャの足を指差す。
そこには包帯が巻かれていて、傷口には緑色をした植物をすりおろしたものが塗られていた。それに自分が着ていた下働きの服ではなく、見たこともないすべすべした布の薄手の服をまとっている。あまりにもはっきりと体の線が分かる姿にアイシャは困惑した。
「まだ命があることに、右足が付いていることに感謝すべきですね」
男性の口からアイシャの理解可能な言葉が漏れた。その口調はとても丁寧で、その青い目には知性の輝きが感じられる。言葉が通じる相手が居ることにアイシャは安堵した。
それに近くで見ると、肩まで伸した髪と顎髭には所々に白い物が混じっている。それを見て、年齢的にはかなり上なのだとアイシャは思った。
「おなかがすいていませんか? それに飲み物はいかがです?」
男性がアイシャの寝台の傍らのテーブルを指さした。そこには水差しと籠に盛られたアイシャが見たことのない赤い皮のたけのこのような果物や、茶色い小粒のブドウとは違う果物などが乗っている。
「大丈夫です」
アイシャは首を横に振った。今は乾きも空腹も感じない。それよりも自分がどうなっているのかの方が気になる。
「アイシャと申します。教国の方ですか?」
アイシャの言葉に男性が頷いた。
「正しくは元教国の人間ですかね。私の名はオナス。金で買われた奴隷です」
「奴隷ですか!?」
アイシャはその言葉に驚いた。教国では教書に神の元の平等が説かれているため、貴族や大地主はいても、奴隷は存在しないことになっている。
「ええ、その通りです。通訳兼、この船の保険と言うところでしょうか?」
男性はそう答えると、当惑するアイシャに苦笑いをして見せる。
「プリモス?」
頭に布を巻いた少年が再び部屋へ戻って来ると、オナスに話しかけた。
「ダム」
アイシャの足を指さした少年にオナスが頷いて見せる。
「イム、ラムサス、グルカ、イシス」
「起き上がれるのであれば、彼の主人があなたに会いたいそうです」
その言葉に、アイシャは自分の立場を理解した。自分には持ち主がいる。オナスと同じく奴隷なのだ。
「その人物があなたの毒を吸い出して、解毒剤を与えなかったら、その右足、いや命すらもなかったはずです」
「分かりました」
アイシャは素直にオナスに、そして少年に頷いた。ここで抵抗しても意味はない。それに手当をしてもらえていると言う事は、すぐに殺されたりはしないはずだ。もっとも生きている方が、死より楽だという保証はどこにもない。
『痛い!』
アイシャは寝台に手をついて立ち上がろうとしたが、右足から上がる痛みに思わず顔をしかめた。動きはするが、右足に体重をかけると傷が痛む。
「カリタス、アム、イシス」
少年がアイシャの手を取って自分の肩に回す。
「ありがとう」
アイシャが答えると、少年は胸に手を当てて頭を下げた。
「マカリーム、アム、イシス」
どうやら少年はアイシャに、「どういたしまして」と言ってくれたらしい。忌み子と呼ばれ、ガトー以外から存在を無視されてきたアイシャとしては、誰かが自分に答えてくれただけでも、特別なことに思えてしまう。
「オナスさん、皆さん私のことをイシスと呼んでいるみたいなのですが、どういう意味でしょうか?」
アイシャは前から気になっていた事を聞いた。女、あるいは女の子の意味で呼ばれているのかと思っていたが、どうもそうではないらしい。それになぜ丁寧に扱われているのかも気になる。
「イシスは彼らの神話における女神の意味です。正しく言えば、赤き女神イシュルの娘を表す言葉です」
「女神の娘!」
オナスの言葉にアイシャは思わず声を上げた。
「ここにいる皆はあなたがそのイシスだと、女神がこの世界につかわした存在だと思っているのです」
「そんな……」
オナスの言葉にアイシャは面食らった。ガトーに拾ってもらった孤児の自分が女神だなんて、悪い冗談としか思えない。こんなぼさぼさの赤い髪をした自分は、どう考えても女神からは一番遠い存在に思える。だがアイシャを見つめるオナスの目は真剣だ。
「彼らはあなたが教国の辺境の村に隠れ住んでいるという話を聞いて、この季節にわざわざアラム海を渡ってきたのです」
『アラム海!?』
本の中でのみ知るその名前にアイシャは驚いた。ガトーから与えられた地理の本によれば、西方の大国ガラムートと教国の間を隔てる海だ。しかしこの海は春から夏にかけての季節以外は、波が荒く航海に向かない。
それにその季節しか航海が出来ないのは波だけの問題ではなかった。厄災と呼ばれる、人の力の及ばぬ化け物が荒れた海に現れる。厄災に出くわせば、人の船などひとたまりもない。今はもう晩秋の季節であり、アラム海を渡れる季節ではなかった。
「私のため?」
アイシャはオナスに聞き直した。
「そうです。教団がそれに気づいたと言う情報もあり、彼らはそれだけの危険を冒したのです。運の悪いことに教団側に先手を取られ、ラーシャの襲撃に出くわしても、それにひるむことなくあなたを助け出した。そのために立派な男たちが命を落としてもいます」
その言葉に、アイシャは自分を連れ出した騎士たちが、一人また一人と追手の大群へ飛び込んでいったのを思い出す。
「だから彼らに、女神らしく振る舞い給え」
アイシャに対するオナスの口調が変わった。
「そんなの無理です!」
オナスの言葉にアイシャは叫んだ。どうして自分が女神なんてことになるのかすらも、よく分からない。
「グスタ、アム、イスナ!」
アイシャを見て少年が声を上げた。そして腰に差す湾曲した細身の短刀へ手を伸ばすと、オナスを睨みつける。
「ちょっと待ってください!」
アイシャは慌てて少年に声をかけた。オナスは少年へ向けて両手を上げると、アイシャに恭しく礼をして見せる。
「イヌ、コラーシュ、アム、イシス。アルム、クラシーヌ、イシス」
「ダム」
オナスの言葉に、少年が短剣の柄からゆっくりと手を放す。
「どうやら君を怒らせたと思ったようです。もしあなたが止めなければ、私の首はもうその辺りに落ちていました。これで彼らがどれだけ本気なのか、お分かり頂けたでしょう? ちなみに彼の名前はクルトです。まだ若いですが、剣の腕はなかなかですよ」
そう言うと、オナスはアイシャに笑みを浮かべて見せた。
「でも私は違います!」
アイシャは必死に感情を抑えながらオナスに答えた。そんなアイシャを見て、オナスがやれやれと言う顔をする。
「あなたは王子や王女に、生まれた時から王子や王女と言う印がついていると思いますか?」
「いえ」
「もちろん印などついていません。周りが彼ら彼女らを王子や王女と認める。だから彼らは王子であり王女なのです。アイシャさん、あなたも同じですよ」
オナスはその水色の瞳でアイシャをじっと見つめた。その瞳の中にぼさぼさの赤毛で黄色い瞳を持つ、わずかなそばかす以外は何の特徴もない女の顔が映っている。
「誰かがあなたを女神イシスだと思っているのなら、あなたは女神イシスなのです」
オナスは部屋の入り口から体をどけると、膝を折って首を垂れた。
「イカルマ、イシス。アム、イシス。マラウム、ゼダ、ラムサス」
「あなたの主人、ラムサス殿があなたを待っています」
オナスは片手をあげると、部屋の扉を開けた。
一部描写とオスナの挿絵を追加しました。