異邦人 ~前篇~
ゴォオオォオォオ――!
アイシャの周りでは嵐が吹き荒れている。それは小さな教会の尖塔のみならず、本堂をも全て吹き飛ばして、アイシャの体を木の葉のように空へ舞い上げた。
「神父様!」
アイシャはガトーに助けを求めた。だがそれに答える声は聞こえない。辺りを懸命に見回すと、紺色の色褪せた教団服を着たガトーが、自分の前を独楽みたいに回りながら飛んでいるのが見えた。その先にぽっかりと黒い穴が広がっているのも見える。アイシャはその真っ黒な穴に、そこに広がる闇に恐怖した。
「ガトー様!」
穴へ落ちようとするガトーに向かって、アイシャは必死に手を伸ばす。もうちょっとで届く。アイシャがそう思った時だ。ガトーの体がくるりと回ってアイシャの方を向いた。
「キャ――――!」
ガトーの顔を見たアイシャの口から悲鳴が上がる。その瞳があるべき所には真っ黒な穴が、ただ黒い穴が空いているだけだ。その闇がガトーの背後に広がる闇と同様に、アイシャの方をじっと見つめている。ガトーの口がゆっくりと動いた。
「お前のせいだ……」
ガトーの沈んだ声が響く。
「お前が呪われた忌み子のせいだ……」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
アイシャはガトーに叫んだ。だがガトーは何も答えない。その体はアイシャの伸ばした指先から離れると、くるくると回りながら真っ黒な穴へと落ちていく。
「ガトー様!」
アイシャは叫んだ。だがガトーの姿はもうどこにも見えない。今度はアイシャの体が、その真っ黒な穴へ向かって落ちて行こうとする。アイシャは何もない宙へ必死に手を伸ばした。もちろんその手を握るものなど誰もいない。
足元で闇が広がっていく。その闇の中で何かがうごめいた。闇の中に一筋の線が入り、その先から赤黒い光が漏れだす。茫然と見つめるアイシャの視線の先、それは大きく広がり目の形となった。そこに現れた赤い瞳がアイシャをじっと見つめる。
『そうか、これが地獄なのか……』
自分を見つめる赤黒い瞳を見ながら、アイシャはこの闇の向こうこそが、自分のいるべき居場所なのだと悟った。
ドドドドド!
アイシャの耳に何かが地面を蹴る音が響いてきた。気が付けば目の前には暗い地面があり、それが大きく揺れながらものすごい速さで飛び去っていく。
いや、地面が揺れているのではない。アイシャの体が上下左右に激しく揺れている。一体何が起きているのだろう。アイシャは体をひねって辺りを見回そうとした。その拍子に体が滑り、地面が目の前へ迫ってくる。
誰かの腕がアイシャの体を上へと持ち上げた。アイシャの視線の先では、真っ黒な馬が首を振りながら走っている。どうやら馬に乗せられて、夜道を走り続けているらしい。アイシャが背後を振り返ると、背の高い男性がアイシャの体を支えながら馬を駆っていた。
『あの人だ!』
アイシャは心の中で声を上げた。暗闇で顔はよく見えなかったが、アイシャは馬を駆るその男性が、蛮族から自分を助け出してくれた人だと確信した。どうやらあれは夢ではなかったらしい。だが未だに異教徒に捕まっていることに変わりはない。その事実にアイシャは身を固くした。
「アムト!」
そう声を上げた男性が馬の手綱を引く。馬が急に止まり、アイシャの体は鞍からずれ落ちそうになった。男性がすぐに腕を差し出してアイシャの体を支える。抱きかかえられたアイシャの目の前に男性の顔がきた。
木々の間から差し込む月明かりがその顔を照らし出す。切れ長の目に黒い瞳がじっとアイシャの顔を見つめていた。
『きれい……』
それを見たアイシャは素直にそう感じた。少し彫の深く日に焼けた顔は、本堂に置かれた像が動き出したみたいだ。瞳と同じ真っ黒な少し癖のある髪が、森を吹き抜ける風に揺れている。
アイシャは自分がまだ夢を見ているのではないかと疑った。だが不意に胃からこみあげてくる不快さに、アイシャは顔をしかめる。必死に抑えつけようとしたが抑えきれない。アイシャは下を向くとそれを地面へ吐き出した。
「クルト!」
それを見た男性が声を上げる。
「イム、ラムサス」
その問いかけに答える声と、馬蹄が地面をたたく音が聞こえてきた。その声は子供の声みたいに少しかん高い。アイシャが口元を拭いながら顔を上げると、頭に布を巻き、美しい草の文様が刻まれた鎧を着た騎手が一人、アイシャの横へ馬を寄せてきた。
その背には剣先が歪曲した、独特の形状の剣を背負っている。しかし男性から比べたらかなり小柄だ。まだ少年らしく、背の高さはアイシャと同じぐらいしかない。辺りを見回すと、彼と同じように背に剣を背負い、つや消しの銀の甲冑をまとった騎士たちが、背後の暗がりに何人か続いている。
「サロゲート、ディア、イシス」
「ダ厶、イム、ラムサス」
男性の言葉に少年は頷くと、腰から布を取り出してそれをアイシャに差し出す。アイシャが少し戸惑っていると、少年はその布をアイシャの口元に当てて、丁寧に汚れ物を拭いた。
「ありがとう」
アイシャの言葉が伝わったらしく、少年は表情を変えることなく頷いて見せた。そして換え馬のものらしい手綱をアイシャに差し出す。
「サロゲート?」
どうやら馬に乗れるかと聞いているらしい。教会の下働きだったアイシャは馬になど乗れない。アイシャは首を横に振った。
「ウント、アム、イシス、サロゲート」
少年の言葉に、男性は馬を回すと背後を振り返える。アイシャの視線の先で、無数の赤い光が木々の間でうごめいているのが見えた。それはかなりこちらへ近づいて来ており、アイシャの耳には馬蹄が地面をたたく低い音も聞こえてくる。
「グルカ、バース」
男性が再び正面を向く。そして騎士たちを見回すと、背中の剣の柄に手をかけた。だが騎士の一人が男性の馬に轡を並べると首を横に振って見せる。
「イム、ラムサス、カタリナ」
騎士はそう告げると、男性に向かって自分を、そして背後を指さした。男性は騎士に何かを告げようとしたが、騎士は背筋を伸ばすと、男性に向かって丁寧に頭を下げる。
「ラムサス、アマリカ」
今度は胸に手を当てると、何故かアイシャにも丁寧に頭を下げた。
「イシス、アマリア」
アイシャはどうしていいか分からず、ただその姿を見つめる。騎士はアイシャに対し笑みを浮かべて見せると、背中に背負った長剣をすらりと抜いた。その曲がった切っ先が、月の明かりに銀色に輝く。
「イヤスーン!」
鬨の声を上げつつ、騎士が背後の森へと駆け去っていく。あの騎士はたった一騎で何をしにいったのだろう?
アイシャはその騎士の後ろ姿を、その先でうごめく無数の赤い光を眺めた。一人の騎士でどうにかなるようにはとても思えない。だが男性は背後を振り返ることなく、再び馬を走らせはじめる。
「ウラ――!」
男たちの上げる雄たけびがかすかに聞こえた。だがその声はすぐに風の中へと消えていく。背後を振り返ると、こちらへ向かっていた赤い火の群れは、左右に揺れながらその場にとどまっている。
アイシャは騎士が何をしようとしたのかを理解した。彼はたった一騎で追手の足止めをしに行ったのだ。それも自分の命と引き換えに……。
「ハッ、ハッ」
アイシャの耳に男性が馬を追う声が響く。だが再び地響きのような馬蹄の音が、背後からアイシャたちへ迫ろうとしていた。