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宿命

 ラムサスは夢を見ていた。目の前にはまだ幼い自分がいて、その先には小さな油明かりに照らされた、母のアルメダの姿がある。


 母はもうこの世にはいない。これが夢でないのなら、世界の全てはまぼろしになる。ラムサスは石で囲まれた凍えるように冷たい部屋で、床に膝まづく過去の自分を、そして決して忘れられぬ母の最期の姿をじっと見つめた。


「どうして母上が罰せられるのです!」


 まだ政治というものが全く分かっていない、幼い自分が抗議の声を上げる。熱でもあるのか、その顔は赤みを帯びて息も荒い。


 それはそうだろう。この時の自分は、背中に刻まれた刺青の痛みにもだえ苦しんでいた。だが母を失う心の痛みに比べれば、背中の痛みなど痛みの内にも入らない。


「あなたを守るためです」


 アルメダは幼いラムサスをじっと見据えたまま答えた。少年は顔を上げられずに、床へ視線を向け続けている。ラムサスはその胸倉をつかんで顔を上げさせようとした。だが体へ触れることが出来ない。この夢の中では、自分は実体のない意識だけの存在らしい。


 ラムサスは床へうずくまる少年の代わりに、母親の顔をじっと見つめた。その姿は間もなく死と向き合う人にはとても思えない。女神のような威厳とやさしさに満ちている。


「教国との戦争も、叔父上たちの件も、母上とは何の関係もありません。それをハザムの一族だからという理由だけで、母上がその罪を負わねばならないのですか!?」


 幼い自分の叫びに、アルメダが首を横に振って見せた。


「私はあなたの母親であると同時に、ハザム族からガラムート王家へ差し出された人質でもあるからです」


「それなら私も同罪です!」


 ラムサスの言葉に、アルメダがかすかに険しい顔をして見せる。そうだった。幼かった自分は己の命を捧げる以外、世の不条理に抗議する手段を思いつかなかったのだ。


 その台詞をラムサスは苦虫を噛み潰す思いで聞いた。自分を助けるために命を差し出す母に対して、何と言う台詞を吐いているのだろう。そんな泣き言を言う前に、母へ感謝の言葉の一つでも告げるべきだったのだ。


「あなたを守るためにそれが必要なのです。ラムサス、この世界のすべての人には、それぞれ果たすべき役割があるのです」


 アルメダは諭すようにラムサスへ語りかけた。


「役割ですか?」


 幼い自分が戸惑いの声を上げる。ラムサスも母親の言葉に当惑した。母が自分へそれを告げた記憶はない。夢が勝手にしゃべらせている? それとも幼かった自分では理解できずに、それを忘れていたのだろうか?


「そうです。身分の高い低いや、男か女かも関係なく、誰にでも役割があるのです」


「母上を救えない私に、一体何の役割があるのです!」


「私はあなたをこの腕に初めて抱いた時、私がなぜこの世界に生まれてきたか、その理由が分かりました。あなたを愛し守ること。故にこれは私が果たすべき役割なのです」


 そう告げると、アルメダはラムサスへ微笑んで見せる。


「王弟殿下のご好意により、こうしてあなたと最後の時を過ごせたことを、私はとても感謝しています」


「母上!」


 その台詞に少年は思わず顔を上げた。その頬は流れる涙に濡れている。


「あなたの命を救えたのも、ルリアを通じて王弟殿下の力添えがあったからです。王弟殿下が血の濃さで言えば自分も同じだ、と言ってくださらなければ、あなたの命もありませんでした。王弟殿下とルリアへの感謝の念を忘れないでください」


「アルメダ様、お時間です」


 石に囲まれた部屋の唯一の出口、鉄の扉の向こうから声が響く。アルメダは簡素な椅子から立ち上がると、幼いラムサスの肩へそっと手を添えた。


「時が来れば、あなたも自分が何を成すためにこの世界へ生まれてきたのか、分かる時が来ます」


「母上なき世界に、私の役割などありません!」


「あるのです。いつかあなたの心があなた自身に告げてくれます」


 そう声をかけると、アルメダは真っ白なドレスの裾をひるがえし、扉の前へと向かう。少年はその後姿を追うことなく、床をじっと見つめ続けた。


 ギィギィイィ――!


 金属同士のこすれ合う耳障りな音と共に、鉄の分厚い扉が開いていく。


『行ってはいけない!』


 たとえ意識だけだろうとも、ラムサスは母のアルメダへ手を差し出そうとした。だが扉の向こうから差し込む真っ白な光に目がくらむ。同時にアルメダの後姿も、白い光の中へと消えていった。


 ギィギィイィ――


 再び何かがこすれ合う音がラムサスの耳に響く。今度のそれは金属の立てる甲高い音ではなく、もっと低く鈍い音だ。


「母上!」


 ラムサスはアルメダへ叫んだ。光の向こうで何かが動く。手をかざして光を遮ると、木で組まれたシミだらけの天井が見えた。それに体が前後左右に揺れてもいる。


 ここは船室で、体は寝台の上へ横たわっているらしい。ラムサスは自分が夢から覚めたのに気づいた。目に染みる光は窓から差し込んでくる日差しだ。それに寝台の横から誰かが自分の顔を覗き込んでいる。


「クルトか?」


「ラムサス様!」


 ラムサスの問いかけに、クルトが嬉しそうな声を上げた。その顔は少し涙ぐんで見える。


「お体の調子は――」


 心配そうに声をかけてきたクルトに対し、ラムサスは片手を上げて答えた。確かに体は鉛のように重いが、自分の意志で動く。それにあの氷の中へ閉じ込められたかと思ったほどの寒さはもう感じない。


「大丈夫だ。それよりも、俺はどれだけ寝ていたのだ?」


「三日ほど眠っておいででした」


 三日という長さにラムサスは驚いた。どうやら自分は生死の境を彷徨ったらしい。


「お前が温めてくれたのか?」


 クルトがわずかに頬を赤らめながら頷く。ラムサスはクルトがいつも着ている体を縛り付けるような服ではなく、もっとゆったりとした服を着ているのに気づく。


 それだけではない。クルトの態度が以前とは違い、女性らしい仕草を見せていることにも驚いた。


「殿方の冷えた体を温めるのは、私たち女の仕事です」


「私たち?」


「アイシャ様と二人で、お体を温めさせていただきました」


「あの娘もか……」


 ラムサスは寝台の敷布の上へ手をやった。確かに寝台の上には人のぬくもりが感じられる。その手に何かがからみついた。そこにはクルトのものらしい長く黒い髪に交じって、赤い髪の毛も落ちている。


「アイシャ様はつきっきりで、昼夜ラムサス様の体を温め続けられました。ラムサス様の熱が下がって容体が安定したので、ちょうど添い寝を交代したところです」


 クルトがうつむき加減に答える。ラムサスは小さくため息をついた。幼い時から家を継ぐ騎士として育てられてきたクルトにとって、裸で男の体を温めるなどというのは恥辱のようなものだろう。


「クルト、名誉ある騎士のお前に――」


 そう口にしかけたラムサスへ、クルトが慌てた様に首を横に振って見せた。


「とんでもございません。今まで自分が男であればよかったと思っていましたが、女であるのも悪くはないと思いました」


「なぜだ?」


「女であればこそ、アイシャ様のお側でお仕えすることができます」


 クルトが騎士らしい表情に戻って答える。それを見たラムサスはクルトへ腕を差し出した。


「肩を貸せ」


「ラムサス様、まだ熱も完全に引いたわけではありませんし、それよりも何か口に入れられた方が……」


「先ずは船がどうなっているのかを確かめたい」


「はい。ラムサス様。了解しました」


 ラムサスはクルトの肩へ掴まって体を起こした。立ち上がると、体中から鈍い痛みが伝わってくる。特に脇腹は思ったより傷が深かったらしく、何かがそこでうごめいているようにすら思えるほどだ。しかしその全てを無視して、ラムサスは船室の扉へと向かった。


 クルトの開けた扉の向こうから、朝の気配を含んだ風が吹き込む。まだ船の修理は続いているらしく、甲板や帆げたの上で船乗りたちが忙しそうに動いているのも見える。


 その先で青く澄んだ空を背景に、一人の少女が赤い髪を海風になびかせながら、肩に乗せた小ザルと共に大きく手を振った。その先では白い羽を大きく広げた海鳥が、少女を見守るように旋回している。


「海鳥が現れました。あと数日の航海で、陸地も見えてくると思われます」


 そう告げたクルトへ、ラムサスは顔を向けた。


「クルト、お前はあれが本物だと思うか?」


「はい。ラムサス様。あの方は間違いなく女神イシスです」


 クルトは迷うことなく断言する。


「そしてラムサス様の女神です」


 クルトはラムサスへ、女性らしい優しい笑みを浮かべて見せた。

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