眷属 ~後編~
バシャン!
水の跳ねる音と共に、アイシャの体は水面へと浮かび上がった。すぐに肺が空気を求めて大きくあえぐ。空には飛び込む前までには見えた赤みはどこにもなく、黄色い光を帯び始めた月が真っ黒な海を照らしている。
「イム、ラムサス! アム、アイシャ!」
どこかから声が聞こえてきた。必死に水を掻いて辺りを見回すと、船の上からクルトが叫んでいる。その手から浮きのつけられたロープが水面へ投げられた。
ラムサスはアイシャの体を腕に抱えたまま、浮きへ向かって泳いでいく。ラムサスの手で体へロープが巻き付けられると、アイシャの体は水面から浮き上がり、そのまま上へ持ち上げられた。ラムサスにも船からロープが投げられる。それを見たアイシャはほっと胸をなでおろした。
そう言えば、あの化け物はどうしたのだろう? 足元に見える真っ黒な海は、まるで黒曜石のタイルみたいに静かだ。
ラムサスをじっと見つめていたアイシャの体へ、船から手が差し伸べられた。そしてアイシャの体へ布をまくと、そのまましっかりと抱きしめる。
「アム、アイシャ!」
クルトのすすり泣くような声が耳に響いてきた。アイシャもクルトの背中へ腕を回す。その体は柔らかく、間違いなく女性のものだ。その足元から、先に綱を登っていたらしいポラムが、アイシャの肩へ飛びついてきた。
「なんて無茶をしてくれたんです」
同時に呆れたような声も聞こえてくる。顔を上げると、オナスが大きなため息をつくのが見えた。
「化け物はどうなりました!?」
アイシャはオナスへ問いかけた。
「どこかへ消えました」
消えた? 一体どう言う事だろう。そう言えば、海水に濡れたせいでまだ体は震えていたが、あのおぞましいとしか言えない悪寒はどこかへ消えている。
「正しくは何者かが海の底へ連れ去った、とでも言うべきでしょうか? 何かが海の底へと引きずっていったように見えました。それが何かは私には分かりません」
そう告げたオナスの背後で、船乗りたちが甲板へ顔を押し付けんばかりに膝まづいているのが見える。
「イシス……」
「ダム、イシス――」
男たちの口から女神の名を呼ぶつぶやきも聞こえてくる。アイシャはその光景に当惑した。
「あの、一体何を……」
「彼らはあなたに命を救われたと思っているのです」
「救った!? 私が!?」
その台詞にアイシャは心から驚いた。むしろ皆を危険に陥れたのは自分の方だと思う。
戸惑うアイシャの耳に、背後から大きな足音が響いてきた。振り返ると、少し癖がある黒髪から水を垂らしつつ、ラムサスがアイシャへ向かって大股に歩いてくる。
アイシャから離れたクルトが、ラムサスへ乾いた布を差し出すが、ラムサスはそれを押しのけるとアイシャの前へ立った。その目は最初に見た時と同じく、どこか人を寄せ付けない冷たい光を宿している。
パン!
不意にアイシャの頬へ鋭い痛みが走った。それを見た船乗りたちが体を動かしかける。だがオズワルが手を上げると、そのまま固まったように止まった。
「ウント、イム、クマルム。イム、ムラウナ、アム、イスカ!」
ラムサスはそう告げると、立ち尽くすアイシャから離れて、オズワルの方へと歩いていく。アイシャは頬へ手を添えながら、その後ろ姿を呆然と眺めた。
「彼がぶたなかったら、私があなたをぶちました」
アイシャはオナスの顔を見上げた。その横でクルトが心配そうな顔をしている。
「勝手なことをしないでください」
「勝手なこと?」
アイシャのつぶやきにオナスが頷く。
「そうです。人にはそれぞれ果たすべき役割があるのです。私には私の。あなたにはあなたの役割です。あなたの果たすべき役割は、ここで私の身代わりになって死ぬことではありません」
そう告げると、オナスは再びため息をついて見せた。
「そもそも、教師が生徒に助けられるなどと言うのは本末転倒ですよ。ですが、まだしばらくはあなたの教師でいられるという点では、あなたに心から感謝します」
「オナスさん……」
「ダム、アイシャ」
クルトもアイシャに頷いて見せる。
バタン!
その時だ。アイシャの背後で何かが倒れる音がした。
「イム、ラムサス!」
同時にオズワルの慌てた声も聞こえてくる。振り返ると、オズワルの横でラムサスが仰向けに倒れているのが見えた。
「オナス!」
オズワルの呼び声に、オナスとクルトがラムサスのところへ駆け寄る。アイシャもラムサスの元へと走った。船乗りが手にする油灯りに照らされたラムサスの顔は青白く、唇は紫色になっている。アイシャはその手を握り締めた。それはまるで氷のように冷たい。
「彼は大丈夫なんですか!?」
アイシャの呼びかけに、オナスが険しい顔をする。
「失血がひどい。それに体を冷やしすぎました。ともかく血を止めて、体を温めるほかありません」
そう告げると、オナスはクルトの方を振り向いた。
「イグラ、クマル!」
その言葉に、クルトが矢のように駆けていく。彼を死なせるわけにはいかない。アイシャはラムサスの胸に自分の体を合わせた。アイシャの手に熱い何かが落ちる。
『これが涙……』
それはアイシャが物心ついてから初めて流す涙だった。
ウオォオオォ――!
古い聖堂の地下室に絶叫が響き渡る。続けて何かが割れる音も響いた。
「アラン!」
ムスタフはその大きな体を屈めると、割れた壺からこぼれた血の上でのたうち回るアランを抱きかかえた。だがムスタフの力をもってしても、暴れるアランの体を抑えきれない。
「すぐに医者を呼ぶ」
「い、医者などいらぬ! 医者がどうにか出来るものでもない!」
ムスタフの呼びかけに、アランは叫び返した。
「痛みを抑えることぐらいは出来るだろう」
「痛み!? これは痛みなどではない。私の罪、私が背負うべきものだ」
そう告げると、アランはムスタフの手を振りほどいて、床の上へ四つん這いになった。そこに広がるどす黒い血とは違う、真っ赤な鮮血がアランの口から滴り落ちる。アランはそれを教団服の袖で拭うと、ムスタフの方を見上げた。
「それよりも、すぐにグズラの砦へ伝令を送れ」
「伝令? 何を伝えるのだ?」
アランの言葉に、ムスタフが当惑したように問い返す。
「ガラムートへの即時進撃だ」
「休戦協定を破って、ガラムートとの間で戦を始めるつもりか?」
「これではっきりした。今すぐあれを排除しなければならない。あれが教団の背教者どもによって、この世界へもたらされたというのは本当だったのだ!」
「確かにお前の術を破ったからには、あれが本物なのは間違いないだろう。だが我々で戦端を開くのは、流石にやりすぎではないのか?」
「厄災の種だぞ。手段を選んでいる場合ではない!」
「だとすれば、お前の回復こそが最優先だ」
ムスタフの言葉にアランが首を横に振る。
「私のことなど気にするな。たとえ臓器の一つや二つ失おうとも、我が信仰に変わりはない!」
アランはそう叫んだが、再び口から鮮血を吐くと床へ倒れこんだ。
「アラン、まずは我々黒フクロウに任せろ。お前も知っているだろう。真に歴史を動かしてきたのは枢機卿会議ではないぞ。我々黒フクロウだ」
「す、すぐにあれを排除……」
そうつぶやくと、アランは床の上へ力なく横たわった。ムスタフはその意識を失った体を抱き上げる。
ギィギィイィ――
不意に地下室の扉が開く音が響いた。そこにはアランと同じ銀色の髪をした少女が立っている。
「ニアか?」
少女はその呼びかけに答えることなく、ムスタフの前へ進み出ると、腕に抱かれるアランの顔を覗き込んだ。
「お父様……」
少女の口から愁いを帯びた声が漏れる。そして骨のように白い指先で、アランの口についた血をそっと拭った。
「ムスタフ、誰がお父様を傷つけたの?」
「厄災の種だ」
「種? よく分からないけど、お父様の敵は私の敵よ」
「そうだな。だがそれはお前の敵なだけではない。生きとし生けるもの全ての敵なのだ」