眷属 ~中編~
『ここはどこだろう?』
アイシャは自分がどちらが上か下かも分からぬ場所に、まるで雲みたいに浮かんでいるのに気付いた。
『そうだ。海に落ちて……』
もしかして、ここはあの化け物の腹の中なのだろうか?
ゆらゆらとした不思議な感覚に包まれたまま、アイシャの体は漂い続けている。その視線の先に、黄色い灯りがぽつんと見えた。何かの力に引き寄せられるように、体がそちらへと向かって行く。
灯の先には簡素なテーブルをはさんで、黒の教団服を着た二人の男性が座っているのが見えた。アイシャから見える位置にいる男性は、聖職者らしからぬがっしりとした体格だ。その反対側に座る男性はもっと小柄だが、明かりの影になって顔はよく見えない。
「毒を持って毒を制するという考え方自体が、そもそも間違いではないのか?」
アイシャの耳に、がっしりした男性の落ち着いた声が響いた。
「兆しが起きる度に、災害を装って街を一つ消すなど、とても続けることなど出来ない。いくらかん口令を引いたところで、いずれはどこかから漏れる。そうなれば――」
「秩序なき世界へ逆戻りか……」
影となっている男性の答えに、黒い教団服を着た男性がため息を漏らして見せる。
「グラハム、私はあれこそがこの世界の真の主人であり、人の存在はあれの家畜としか思えないのだ」
「ガトー、異端審問長官のお前が、『異端の書』の内容に同意するつもりか?」
『ガトー?』
アイシャはその言葉に驚いた。確かに言われてみればガトーの声だ。だがアイシャが知っているしわがれたガトーの声とは違い、遥かに張りのある声をしている。
それにガトーはあの晩、蛮族たちの剣に貫かれて死んだはずだ。その時にガトーが上げた断末魔の叫びは、未だアイシャの耳に鮮明に残っている。
「同意? グラハム、あれは何かの意見書ではないよ。後世の我々に事実を伝えてくれる歴史書だ」
「だとすれば、人は神に弓を引いた反逆者と言うことになる」
その台詞に、ガトーは首を横に振って見せる。
「違うな。家畜の方が自分達で効率よく餌を差し出すことで、飼い主たちを篭絡したとでも言うべきだろう。それを維持するための教書であり教団だ。だが今のままでは我々に未来はない」
アイシャは二人の聖職者、それも黒の教団服をまとう枢機卿の会話に驚いた。どう考えても、二人は厄災のことを神として語っているとしか思えない。
「教書の告げる活動期がくれば、いくら贄を差し出しても抑えることなど無理だ」
ガトーがアイシャの見知らぬ男性へ断言する。
「だからと言って、我々人が厄災へ近づくと言うやり方は、本当に許されるのだろうか?」
「グラハム、生命の本質は存続だよ。故に生き物は姿や形を変え、種を残す努力を重ねてきた。それが許されないのであれば、生命そのものの存在が許されない。それに私は肉体が変容しようとも、人の魂の尊厳は不変だと信じている」
「魂は不変。それこそがお前の信仰の根源だな」
「人の魂すらも信じられない様では、異端審問官などやれぬよ」
アイシャへ背中を向けているガトーの口から、くぐもった笑いが漏れた。そして立ち上がると部屋の奥へ向かう。ガトーへ引き寄せられるかの様に、アイシャの体も部屋の奥へと向かっていった。
そこには簡素な寝台が一つ置かれており、誰かが横たわっているのが見える。その人物はガトーよりもさらに小柄だ。
子供だろうか? アイシャは一瞬そう思った。だが長い髪を見て、それが女性なのだと知る。女性が寝返りを打ち、その顔を微かな油灯りが照らした。
『わたし!?』
それを見てアイシャは心から驚く。その顔はどう見ても自分としか思えなかった。しかしよく見ると、自分より少し年が上の様に思える。何より髪の色が違う。薄明りではっきりとはしないが、茶色か鳶色で赤ではない。
「まさか我らの代にてこれが起きるとは……」
女性の寝顔をのぞき込みつつガトーがつぶやいた。どう言う訳か、その顔はひどく疲れて見える。
「すぐに始末すべきだと言う意見もあるが?」
その声に、ガトーは顔を上げると発言者の方を振り返った。
「グラハム。失ってから、それが鍵だったと分かる間違いを犯すつもりか?」
「ならば?」
「我らの手で封じる努力をする他ない」
ガトーの答えに、男性が再び大きなため息をついて見せた。
「どれほどの贄を捧げる必要があるのか、想像もつかないぞ」
「それでも人の未来の為にやらねばならぬ。この子が成長し、真の姿を見せる前にだ」
そう言うと、ガトーは女性が掛けている薄布を僅かにずらした。その隙間から小さな頭が見える。そこには赤い髪の毛がうっすらと生えているのも見えた。布の下からもみじの葉みたいな小さな手が現れ、薄布をにぎるガトーの手をそっと握る。
『これは私? この人が私のお母さん!?』
アイシャは女性へ近づこうと、自由にならぬ体を必死に動かした。だが何の力が働いているのか、アイシャの指先は女性の僅か手前から先へ進もうとしない。
「ホギャ……」
不意に赤子の泣き声があがる。見下ろすと、赤子が大きく伸びをしながら目を覚まそうとしていた。開いたまぶたの下から小さな瞳が現れる。昇りたての月みたいに真っ赤な瞳だ。それが宙に浮かぶアイシャをじっと見つめている。
『誰? あなたは誰?』
アイシャの頭の中に、自分自身の声が響く。
『私はあなた。あなたは私なの?』
アイシャの問いかけに、赤い瞳が大きく大きく広がり、アイシャを飲み込もうとする。アイシャは必死にあがらったが、その力に逆らうことができない。アイシャの視線の先で、女性が寝返りを打つのが見えた。
「お母さん、助けて!」
アイシャは叫んだ。だが女性はアイシャの叫びに答えることなく、赤子の頭をそっとなでる。それを眺めながら、アイシャの意識は赤に染まる瞳の中へと溶けていった。
『御子よ……我らの御子よ……』
アイシャの耳に声ならぬ声が響いた。アイシャは必死に辺りを見回す。あの女性は? ガトーと名を知らぬ聖職者はどこへ行ったのだろう?
「お母さん!」
アイシャは声の限りに叫んだ。
「おかあさん……おかあさん……おかあさん……」
自分の声がこだまとなって帰ってくる。はっきりとは見えないが、アイシャは自分の周囲を何かが取り囲んでいるのを感じた。決して人ではない何かだ。
「たすけて……たすけて……たすけて……」
いくら声を上げて助けを求めてみても、帰ってくるのは自分の声だけだ。どうやらここは大きな聖堂のような場所らしい。その壁に自分の声が反響している。死を前にして、無意味な妄想を見ているのだろうか? アイシャがそんなことを思った時だった。
『我らが眷属にして……我らが御子よ……』
再び声ならぬ声が響く。
『己が何かを思い出すのだ……』
再び闇が、今度は漆黒の闇が広がっていく。どちらが上でどちらが下なのかも分からない。アイシャはこの闇を知っていた。自分の存在すらも感じない闇。こここそが、自分の居場所だと言う気がする。
しかしアイシャの目に赤く光る何かが見えた。あの化け物の目? それとも自分を飲み込んだ赤子の瞳だろうか?
アイシャは迫る恐怖に身を固くした。だがすぐに間違いだと気付く。それは水面を通して見える昇ったばかりの月だ。その前を何かが横切った。
それはアイシャの体を抱きかかえると、その赤い月を目指して登っていく。その月明りを宿す黒い瞳に、アイシャはあがらうことなくその身を預けた。




