眷属 ~前編~
ザザザザザザ――――
再び何かが辺りを動き周る音が響き、船が小さく震えた。いや、船だけではない。周囲の海そのものが、沸騰でもしたかの様に蠢いている。
「イクラ、オナス!」
クルトの呼びかけに、オナスが手を上げるのが見えた。その先では小舟がすでに水面へとおろされている。アイシャはその様子をじっと見つめた。
何の取り柄もない自分のために、ガトーを始め多くの人の命が失われてきた。そしてあの夜の騎士たちと同様、オナスまでもが自ら命を落とそうとしている。
『忌み子!』
子供の時に血を流しながら聞いた声が、頭の中に響いてきた。まさにその通り、自分は忌み子そのものだ。ならば、贄として命をささげるのは、オナスではなく自分だ。
それに自分もガトーと共に、毎日欠かさず神へ祈りをささげてきた。贄になる資格ぐらいはあるはずだ。アイシャはそう決心すると、腰に巻かれていたロープへ手をかけた。
ロープはきつく結ばれていて、すぐにほどけそうにはなかったが、アイシャは護身用に渡された短剣でそれを切り裂いた。そして肩にのっていたポラムを両手で抱くと、帆柱の横にある箱を開ける。
そこには色とりどりの旗が詰まっており、アイシャはその中へポラムをそっと入れた。
「ポラム、お友達になってくれてありがとう」
ポラムは箱から出てアイシャへ飛びつこうとするが、アイシャは断腸の思いでそのふたを閉めた。中からはポラムが箱をたたく音と、キィーキィーと悲し気に鳴く声が聞こえてくる。
アイシャはポラムに心の中で謝ると、船べりの方へ視線を戻した。そこでは上半身裸になったオナスの背中に、オズワルが西方語でも教国語でもない文字を書き込んでいる。
アイシャは破片の陰に隠れながら、そっと船べりへ近づいた。下を見ると、一隻の小舟がロープで繋がれ、波間を漂っているのが見える。アイシャはロープを手繰り寄せると、ラムサスの布を替えるつもりで引き裂いた肌着の切れ端をロープへ掛けた。
「イシス!」
アイシャの姿に気付いたらしい誰かの声が聞こえる。その声に押されるように、アイシャは甲板を思いっきり足で蹴った。飛び出したアイシャの体は、思ったよりはるかに速く小舟へと落ちていく。
『ぶつかる!』
アイシャは小舟の直前で手から布を外した。
バシャン!
大きな水音とともに、アイシャの体は海中へ沈む。それでもアイシャは必死にもがくと、ロープを頼りになんとか小舟へたどり着いた。
「アム、アイシャ!」
背後からクルトの自分を呼ぶ声が聞こえる。アイシャはその呼び声に答える代わりに、腰から短剣を抜くと、小舟をつないでいたロープを切り離した。だが切り離したロープの先から、何かがアイシャの頭へ飛び乗ってくる。
「ポラム!」
アイシャは思わず、「どうして!」と叫びたくなったが、ポラムが溺れないよう、船べりへ手をかけて体を持ち上げようとした。しかし小舟が傾くだけで、アイシャの体は一向に持ち上がろうとしない。
先に小舟へ飛び乗ったポラムが、それを見て心配そうに「キッキッ」と鳴く。だがどんなに力を込めても、船には上がれそうになかった。船べりに捕まるのが精いっぱいだ。
キッキッキィ――!
アイシャの顔を覗き込んでいたポラムが、急に怯えた声を上げる。その声にアイシャは我に返った。そうだ。あいつはどこへ行ったのだろう。
気付けば小舟は潮の流れにのって、船からかなり離れている。あの化け物を引き寄せるには十分だ。それにポラムを巻き込む訳にはいかない。
「ポラム、無事に助けてもらってね」
アイシャはポラムへそう告げると、船べりから手を離した。体が再び水底へと沈むのを感じながら、アイシャはポラムへ手を振る。その手が何かに掴まれた。慌てて振り返ると、怒りに燃えた漆黒の目がアイシャを見つめている。
「ラムサス王子!」
アイシャは教国語で叫んだ。どうして一国の王子が、何の役にも立たない自分なんかのために、化け物のいる海へ飛び込んでくるのだろう。だがラムサスは何も答えることなく、アイシャの手を小舟の船べりへ置くと、足を持って一気に中へ押し上げた。
ポラムがアイシャの胸の中へ飛び込んでくる。ラムサスも小舟へ飛び乗ると、腰にさした剣を素早く抜いた。
ズズズズズズ!
海中から地響きのような音が響いてくる。アイシャは自分の乗る小舟のすぐ下に、黒い影があるのに気付いた。それがゆっくりと水面へ浮かび上がってくる。
キィ――!
ポラムもアイシャの胸の中で毛を逆立たせながら、下から浮かんでくる何かを威嚇した。
「イム、ラムサス……」
アイシャは剣を手に、水面の様子を伺うラムサスへそっと話しかけた。だがラムサスは口元に指を当てると、微動だにすることなく水面を見つめ続ける。
誰かの犠牲が必要なら、「忌み子」の自分だけでいいはず。アイシャはたとえ言葉が通じなくても、それをラムサスへ伝えなければと焦った。
「私が贄になります。すぐにここから逃げて――」
ザブン!
アイシャが言葉を続ける前に小舟が大きく揺れる。そして目の前の海が割れていくのが見えた。いや、割れたのではない。真っ黒な巨体が水面へ上がってくる。
ウォオオオォオオン――!
まるで調子はずれのラッパのような音が響き渡った。同時に汚水みたいに饐えた匂いも漂ってくる。気づけばアイシャの目の前にはぬめりをもつ真っ黒な壁があり、その中心には赤い何かが見えた。目だ。それがアイシャを見つめている。
アイシャは魂をむしばまれる恐怖に、体だけでなく心までもが震えるのを感じた。
それだけではない。海との境目に巨大な穴が開くのも見える。怪物の口だ。海水が濁流となってその中へ落ちていく。小舟はその真っ黒な穴の中へ吸い込まれようとしていた。
「グズラ!」
ラムサスはそう叫ぶと、小舟についていた櫂を手にする。そしてそれを必死に漕ぎ始めた。だが相手がこちらを吸い込む速度の方が圧倒的に早い。船は少しづつ加速しながら、化け物の口へ向かっていく。
「マルカ!」
不意に遠くから声が聞こえた。振り返ると、帆を張りなおした船がこちらへ向かっており、船の先端でクルトがアイシャたちへ声を張り上げているのが見える。そこから化け物へ向かって矢が放たれた。
矢は鋭い風切り音を上げながら化け物の体へ次々と当たるが、化け物の黒くぬめった体にすべて弾かれる。
「マルカ!」
再び矢が放たれた。だが怪物に対して何の効果もない。そしてラムサスの必死の努力にもかかわらず、小舟は怪物の口へ近づいている。
アイシャは自分のとった行動が、結果としてこの場にいる全員をより危険にさらしていることに気づいた。アイシャは自分の愚かさを呪ったが、もう後の祭りだ。
『助けて!』
アイシャの魂が叫ぶ。自分はどうなってもいい。ここにいる皆を救って欲しい。
『眷属の願い、我は聞き届けたり……』
アイシャの心の中に誰かの声が響く。それは年老いた男性の声、いや、人のものとは思えない重々しい声だ。アイシャはその声に戸惑った。自分は恐怖のあまり幻聴を聞いているのだろうか?
『我らは個にして全、全にして個……』
再び声が響く。次の瞬間、アイシャは目の前の化け物とは別の何かが、海の底からこちらへ向かってくるのを感じた。ポラムもキッキッと鳴きながら、小舟の船底を指さす。
ズドン!
化け物が教国の船を吹き飛ばした以上の大きな振動と、鼓膜が破れそうなほどの音が響く。その衝撃に、小舟がアイシャたちごと宙を舞った。アイシャの周りで星が瞬き始めた紺色の空と、青から黒へと色を変えつつある海が交互に入れ替わる。
オールを離したラムサスが、こちらへ手を伸ばすのが見えた。その背後で真っ黒な化け物を、下から上ってきた何かが覆いつくそうとしている。
「イシス!」
ラムサスの声が聞こえた。だけど何も答えることが出来ない。アイシャの体は小舟から飛び出すと、真っ黒な海の中へと落ちていた。