贄 ~後編~
「どうやらお別れの時が来たみたいです」
オナスはそう告げると、アイシャに向かってにっこりと微笑んだ。アイシャはオナスの言葉に動揺する。
「どういう事ですか!?」
「最初に説明した通り、私のこの船における立場は通訳兼、この船の保険です。その最後の役割を果たす時が来ました」
そう言うと、オナスは船をおろす準備をしている方へ視線を向けた。
「なぜ、オナスさんが犠牲にならないといけないのですか!?」
「単純な算術ですよ。私一人の犠牲で、もっと多くの命が助かるかもしれないからです」
「奴隷だからですか? それなら私も同じです!」
そう叫んだアイシャへ、オナスが苦笑いをして見せる。
「世俗的な立場は同じですが、あなたと私はその身の価値が全く違います」
「私はたんなる村娘です。周りが勝手に――」
オナスは片手を上げると、アイシャの言葉を遮った。
「価値とは己が決めるものではなく、周りが決めるものですよ。アイシャさん、あなたのことはあなたが思っている以上に、周りがその価値を認めています」
「でも、どうしてオナスさんなのですか?」
「私はこれでも教団で聖職者をやっていましてね。あなたが生きてきた時間よりはるかに長く、そこで祈りとやらを捧げてきました。なので、あれの口にあう可能性があるのです」
「どういう意味です?」
「アイシャさん、あなたはなぜ教国において、教書や教団が存在するのか知っていますか?」
「えっ!?」
「なぜ、あなたは教会で日々祈りを捧げていたのです?」
「それは神への感謝を……」
「違います。もともと祈りは人があの地で生きるために必要な行為だったのです」
アイシャは神への祈りを、オナスが「行為」という言葉で表したのに驚いた。
「あなたが知っている教書は、後世のものが自分たちに都合の良いよう書き換えたものです。本来は厄災から生き延びるための、ある種の技術書だったのですよ」
「技術書!?」
アイシャはオナスの言葉に面食らった。
「はい。教国の地は厄災が現れる地で、様々なところから追放された者たちが送られる場所でした。どんなに力を合わせようとも、厄災を駆逐することは出来ません。ですがそれを鎮めることはできる。その手段をまとめたのが教書だったのです」
「あれを何とかする方法があるのなら――」
「あります」
アイシャの問いかけに、オナスが間髪入れずに答えた。
「厄災を鎮めるのにもっとも有効な方法は、人の命を捧げることです」
「それなら十分に犠牲を払いました!」
アイシャは空から真っ逆さまに落ちて沈んだ船を思い出した。あの船と共に、一体どれほどの命が失われた事だろう。
「ただ命を差し出せばいいわけではありません。その犠牲者の他の者を救いたいという強い思いがあって、はじめて厄災はその魂を受け入れ、しばしのねむりにつくのです。教団はその贄を選び、準備するための組織だったのです」
「贄!?」
そう叫んだアイシャへ、オナスが意味深げに頷いて見せる。
「そうです。祈りとは厄災の贄となる者たちの心の支えであり、生き残った人々による贄になった者たちへの哀悼だったのです。その先人たちの犠牲により、教国内の厄災はその大部分が眠りについています」
「ならば、祈りには意味があるのではないでしょうか?」
「そうでしょうか?」
贄となった人々の犠牲はあったにせよ、祈りは人々を救ってきた。そのはずだ。アイシャはそう考えた。だがオナスはアイシャへ首を横に振って見せる。
「厄災が眠りについた後も、教団はその過程で得た権力を離すつもりはありませんでした。そこで手段であった祈りを目的へ変え、教書を自分たちの権力維持の道具になるよう、都合よく書き換えたのです」
「そんな……」
アイシャの嘆きにオナスが頷いて見せる。
「あなたの祈り自体が無駄だったとは言いません。ですがこれが歴史的真実なのです」
「でも!」
ヴウウァ――アアアアァ――――
謎の歌がひときわ高く鳴り響く。それを聞いたオナスは再びアイシャへ微笑んで見せた。
「やつの歌も終わりに近づきました。残念ながら、もうあなたとお話しをする時間はなさそうです」
オナスは背後を振り返った。その先では男たちが大きな揺れに苦労しながらも、小舟を下す準備を続けている。
「短い間でしたが、あなたの教師になれてよかったです。私などよりはるかに才能に恵まれていますよ。何より発音がいい。オズワルに私が西方語を覚えた時に使った手帳を預けてあります。参考にしてみてください」
オナスがアイシャへ、貴婦人に対する騎士の礼をして見せる。
「では、アイシャ殿。あなたに神のご加護が、そして女神のご加護がありますように」
オナスは顔を上げると、そのままオズワルたちのいる船縁の方へと戻っていく。アイシャは隣に立つクルトをすがる思いで見つめた。だがクルトは首を横に振るだけだ。その顔はアイシャへ諦めろと言っている。
アイシャは首の後ろへ手を回すと、胸元から数珠の先についた小さな金色の十字を取り出した。血だらけになってしまった皮と麻でできた靴を除けば、あの朽ちかけた教会から身につけている唯一のものだ。そして物心ついてからずっと一緒にいる物でもあった。
アイシャはそれをクルトへ差し出す。クルトは一瞬驚いた顔をしたが、アイシャへ深く頷いて見せた。そしてアイシャのロザリオを手に、オナスの方へと駆けて行く。
その時だった。あの不気味なうなり声がいきなり止まった。




