贄 ~前編~
「黒鳥?」
甲板に放り投げられた鳥の亡骸を見たオナスが首を傾げて見せた。そして険しい顔で辺りを見回す。
「まさか……」
オナスがそう呟いた時だ。さっきまでキッキッと誇らしげに声を上げていたポラムが、いきなりアイシャへ抱きついてくる。次の瞬間、アイシャの体の奥から、おぞましいとしか言えない何かが湧き上がってきた。
教国の船が近づいてきた時に感じたものと同じだ。だが最初の時とは比べ物にならない激しい悪寒に、アイシャは思わず近くの手すりにしがみつく。
「アム、アイシャ、イマルカ!」
それを見たクルトがアイシャの体を支える。同時に黄昏の光を映した海が、コブの様にいきなり盛り上がるのが見えた。それが引き起こす波に、船が小さな木の葉のように翻弄される。
そのあおりを受けて、教国の船とこの船をつないでいた架橋がはじけ飛んだ。それだけではない。船同士の帆柱がぶつかるほどの激しい揺れに、甲板に横たわっていた人々が、積荷と一緒に次々と海へ落ちていく。
アイシャの体も、足元に海が見えるほどの傾斜に、手すりから振り落とされそうになった。クルトが腕を伸ばしてアイシャを支えようとするが、クルトの足も甲板から離れて宙をさまよっている。
『もう持たない……』
そう思ったアイシャの目の前に、引き締まった胸元が現れた。
「クズラ!」
その声に顔を上げると、漆黒の瞳がアイシャを見つめている。気づけばアイシャの体は、ロープを腰に巻いたラムサスによって抱えられていた。そしてラムサスと一緒に、甲板の上をまるで振り子の様に動き続ける。
ザザザザザ――――!
アイシャの耳に今度は大きな水音が響いてきた。慌てて海へ視線を向けると、真っ黒な巨体が隣り合う二隻の船の間を動いている。それは自分たちの船より大きく、教国の黒い巨大な船に迫ろうかという大きさだ。
「くじら?」
アイシャの口から言葉が漏れた。ガトーの蔵書で読んだ、海を棲家にするという巨大な生き物だろうか?
「ウント!」
アイシャが何を口にしたか分かったらしい。ラムサスが否定の言葉を告げた。確かに船と同じぐらいの大きさがあると書いてはあったが、放たれる気配は生き物のそれではない。はるかに邪悪なものだ。
アイシャにはそれが分かった。肩で震えるポラムもそれを分かっている。
「ウマル!」
「ウマル、ラクシャーシャ!」
船乗りたちの叫び声がアイシャの耳へ聞こえてきた。黒い巨大な何かはいったん船から離れると、海の底へ姿を消す。しかし誰も安堵の声を上げようとしない。固唾を飲んで海を見守っている。
ズドン!
一瞬の静寂の後に、巨人が太鼓を打ち鳴らしたのかと思うほどの振動が響いた。揺れるのではなく、下から突き上げてくる衝撃に、アイシャの足が甲板から離れて宙に浮く。次の瞬間、アイシャの目に現実とは思えない不思議な光景が映った。
水平線へ沈んだ太陽に代わって登ってきた真っ赤な月を背景に、黒い巨大な船が宙を飛んでいる。その姿は神話にある神々が乗る船のようだ。だが何本もある帆柱を横にすると、船尾から海の上へと落ちていく。
耳を圧する騒音と共に、アイシャの目の前に真っ白な巨大な壁が現れた。続いて滝壺の中に落ちたみたいに、大量の水がアイシャの頭へ落ちてくる。アイシャはラムサスにしがみつきながら、ポラムを必死に抱きかかえた。
ザザザザ――――!
大きな音を立てながら、濁流が甲板の上を流れ落ちていく。同時にどこかから無数の赤子の泣き声がした。それは竜骨が折れ、周囲にあるあらゆるものを巻き込みながら、巨大な船が海へ没しようとしている音だ。
「イシュル、タクリマ……」
どこかから誰かの祈るような声が聞こえてくる。生き残った者たちは呆然と海を見つめていた。そこにあるのは僅かな船の残骸だけだ。
「ラベル、ウタル!」
不意に船長のオズワルの怒声が響き渡る。その声に生き残った船乗りたちが、我に返って一斉に動き始めた。オズワルは剣を片手に、船乗りたちへ次々と指示を出し続ける。
「アム、ラムサス。イム、アイシャ!」
それに混じって背後から声がした。振り返ると、ロープを手にしたクルトが、上手にバランスを取りながらアイシャの元へと走ってくる。クルトは手にしたロープを素早くアイシャの腰へ巻くと、その一端を帆柱へと括り付けた。
「イマルカ?」
それを見たラムサスがアイシャに声をかけてくる。どうやら大丈夫かと聞いているらしい。アイシャはラムサスに頷いた。その視線の先に、赤く染まった布が見える。それは海水で洗い流されてもまだ血がにじんでいた。
「イム、ラムサス、イマルカ?」
アイシャはその布を指さしながらラムサスに問かけた。ラムサスはアイシャへ首を横に振って見せると、周囲へ視線を向ける。甲板の上では船乗りたちが、流れ込んだ海水の排水作業をしているのが見えた。
気づけば船の喫水線は相当に下がっている。たとえあの怪物に襲われなくても、このままでは海へ沈んでいきそうな気配だ。そう言えばさっきの化け物はどこへ行ったのだろう?
水面には教国の船の残骸が漂っているだけで、怪物の姿はない。しかしどこかへ行ったとも思えなかった。その証拠にアイシャだけでなく、ポラムの体の震えも一層激しさを増している。
ブアァアア――ウウァ――アアアアァ――――
不意に耳に唸り声、いや歌声の様にも思える不思議な響きが聞こえてきた。アイシャの耳にはそれは子守唄のようにも、神を讃える讃美歌のようにも聞こえる。
『幻聴?』
アイシャは自分の耳を抑えた。それは耳をふさいでも、変わることなく響き続ける。それにアイシャの耳にだけ聞こえている訳ではないらしい。ラムサスやクルトをはじめ、目につくすべての人々が辺りを見回している。
「ラクーシャ!」
再びオズワルの怒声が辺りに響いた。ラムサスはアイシャの腰にロープがしっかりと結ばれていることを確認すると、アイシャの身をクルトへ預けて、オズワルのところへと走り去っていく。オズワルの横には聖騎士のマントを脱いだオナスの姿もあった。
そこでは船員たちが甲板に固定されていた小舟のロープを外し、海へおろす準備をしている。この船を捨てて、小舟で逃げようというのだろうか?
小舟の大きさは数名しか乗れない程度の大きさだ。とてもそんなことができるとは思えない。それを不思議そうに眺めていたアイシャの元へ、オナスがゆっくりと歩いてくるのが見えた。