黒鳥
それは突然のことだった。アイシャの周りから、暴力と言う名の嵐が急に去っていく。消えたわけではない。それはアイシャたちの乗る船から、金色の十字の描かれた帆を掲げた、真っ黒な巨大な船へと移っていた。
剣や斧を振るっていた男たちも、その嵐を追いかけ船尾の方へと駆け去っていく。アイシャはその奔流の中に、戦いの混乱の中で見失っていたラムサスの姿を、祈るような気持ちで探した。
アイシャの視線が瞳の文様の描かれた背中を捉える。その入れ墨の持ち主であるラムサスは、剣を片手に船長のオズワルと話をしていた。
『無事だった……』
アイシャはほっと胸をなでおろす。同時にその姿を見つけるまでの間、自分がとても不安に思っていたことにも気付いた。ラムサス王子は命の恩人だ。だからその無事に安堵するのは当たり前のはず。アイシャは自分の心へ告げた。
『本当にそれだけ?』
自分の中の何かがアイシャへ問い返してくる。だけど答えは見つからない。これまでアイシャが感じたことのない複雑な思いが、心の奥底で渦巻いているのを感じるだけだ。
アイシャはラムサスの背中をじっと見つめた。ラムサスは普通にオズワルと話をしているが、よく見ると、体のあちらこちらには小さな切り傷が出来ている。
特にアイシャがとりあえず布を巻いただけの脇腹は真っ赤だ。ちゃんと止血しないと膿んでしまう。アイシャは周りにきれいな布と水がないか探した。すぐ近くで男たちが樽から水を飲む姿がある。水はそれでいい。だが布が見当たらない。
アイシャはドレスを破ったため、露になった肌着へ目を向けた。自分の汗に汚れているかもしれないが、少なくとも血にまみれているわけではない。アイシャは肩からポラムをおろすと、それを手で切り裂いた。
だが顔を上げると、周りには素足をさらしたアイシャを驚いた顔で見る男たちがいるだけで、ラムサスの姿はどこにもない。
『もしかして、向こうの船へ渡ったのだろうか?』
アイシャは手すりすらもなくなった船べりから、隣にいる巨大な船を眺めた。そこでは未だ血の雨が振り続いている。しかし包囲されているのは先ほどとは逆だ。紺に金の十字のマントを羽織った教国の聖騎士たちが、武器を手にした半裸の男たちに追い立てられている。
同じ国の同胞であり、同じ教会に身をおく者たちが次々と倒れていくのを、アイシャは複雑な思いで見つめた。しかしそのどこにもラムサスの姿も、船長のオズワルの姿もない。
その中を、返り血に全身を赤く染めた聖騎士が、誰にも阻まれることなく架橋をこちらへと渡ってくる。それにどういう訳か、半裸の男たちへ指示らしきものまで出していた。騎士の後ろから小柄な人影が続いているのも見える。
よく見ると、腰まで届く長い黒髪からして、どうも女性らしい。だがその手には剣が握られ、前をいく聖騎士同様に、全身を血で真っ赤に染めている。
自分が知らなかっただけで、女性の船乗りもいたのだろうか? アイシャがそんなことを考えた時だった。
「アム、アイシャ、カタルア!」
アイシャの耳に聞き覚えのある声が響く。同時に黒髪の女性が、一目散にアイシャの元へと駆け寄ってきた。
「えっ、クルトさん!」
その姿を間近に見たアイシャの口から驚きの声が漏れた。その声に反応したのか、甲板に倒れていた騎士が突如起き上がると、短剣を手にアイシャへ襲い掛かってくる。迫りくる刃にアイシャは身を固くした。
しかし華麗に身をひるがえしたクルトが、騎士の首元へ手にした剣を突き刺すと、その手から短剣が滑り落ちていく。
「ぐえ!」
再び甲板へ倒れた騎士の口から断末魔のうめき声が聞こえる。その首へクルトの横から差し出された長剣が深々と突き刺さった。騎士は一瞬だけ体を硬直させるとそのまま動きを止める。
血だらけの聖騎士のマントをまとった長身の男性が、騎士の首から剣を抜く。その横顔には長い刀傷が刻まれているのが見えた。
「えっ、オナスさんですか!?」
普段の学者みたいなたたずまいとはあまりにも違う姿に、アイシャは再び驚いた。
「ラブド、クム、アカルマ、オナス」
マントで剣の血糊を拭ったオナスへ、クルトが声をかける。その台詞にオナスが肩をすくめて見せた。どうやらお疲れ様とでも告げられたらしい。
「年なので、こんな重いものはもう勘弁してもらいたいですね」
オナスはそうぼやくと、手にした長剣を杖代わりに、近くに放り投げられていた箱の上へ腰を下ろした。
クルトはどこかから取り出した布を頭に当てると、長い髪を器用に布の中に入れて頭に巻く。その姿はアイシャが知っているクルトそのものだ。
「クルトさんって、女性だったんですか?」
戸惑うアイシャに、オナスが苦笑いをして見せる。
「そうですよ。彼女はガラムートのとある名家の跡継ぎで、騎士見習いです。だから男の格好をしているのです。ですがあなたはさておき、私が女性扱いをしたら、間違いなく殴られますね」
そう告げると、オナスは肩越しに背後を振り返った。そこではまだ戦いは続いているが、多くの騎士たちが既に倒れたらしく、その姿はほとんど見えなくなっている。
「向こうは指揮官を失いました。戦はもう終わりです。ここからは単なる虐殺ですよ」
そこから上がる雄たけびと悲鳴を聞いたポラムが、アイシャの腕の中で体を震わせる。その背中をそっとなでると、ポラムは涙を浮かべながらアイシャの方を見た。しかし突然に険しい顔をすると、鋭い歯をむき出しにする。
シャ――――!
ポラムが威嚇の唸りを上げた。こんなひどい目に合わせた自分を怒っているのだろうか?
だがアイシャはすぐにポラムが自分ではなく、背後にいる何かをじっと見つめているのに気付いた。空を見上げたアイシャの目に映るのは、帆を下ろされた帆柱と、その途中に設けられた監視所に横たわる船乗りたちの骸だけだ。
ポラムはアイシャの腕から飛び出すと、ロープを伝わって、帆柱めがけて駆け登っていく。
「ポラム!」
アイシャはポラムの名を呼んで必死に手を伸ばした。だけどポラムはアイシャの呼びかけに反応することなく、帆柱のてっぺんへ向けて、矢が飛ぶような速さで登っていく。
ポラムを追うアイシャの目が、夜の気配を漂わせ始めた空を背景に、帆柱の先端に黒い染みみたいな点があるのを見つけた。
『何だろう?』
ポラムは明らかな敵意をもってそこへ向かって行く。下から登ってくるポラムに気付いたのか、それが大きく羽を広げたのが見えた。
『黒鳥!?』
帆柱の先端の黒い染みは一羽の小柄な黒鳥だった。海鳥でもない黒鳥が、どうしてこんなところに居るのだろう? だがアイシャが何かを考える前に、ポラムは大きくジャンプすると、飛んで逃げようとした黒鳥の背中へ牙を立てた。そのまま下へ黒鳥と一緒に落ちてくる。
「あぶない!」
それを見てアイシャは悲鳴を上げたが、ポラムは空中で帆桁から垂れていたロープを掴むと、それを伝わって器用に下りてきた。そして口にとらえた黒鳥の亡骸を甲板へ放り投げる。そして動かぬ黒鳥を指さしながら、さも嬉しそうにアイシャへ飛び跳ねて見せた。
「おのれ!」
アランはそう声を荒げると額へ手を当てた。そこからは赤い血が滴り落ちてくる。そして先ほどまで海賊船の甲板を映していた壺の中は、今ではただの赤黒い血へと戻っていた。
「どうした?」
目深に黒いフードを被った巨体が、床へ片手をついたアランへ声をかける。
「こちらの目をやられた」
グスタフの問いかけにアランは答えると、懐からだした布で額の血を拭きつつ、自分をのぞき込む巨体へ視線を向けた。
「だがこれではっきりした。あの娘こそが本物だ」
「何か証拠はあるのか?」
「間違いない。子猿に化けていたが、眷属を引き連れている」
「ならばどうして気配が……」
そう呟いたムスタフが、フードを被ったまま首をひねって見せた。
「ガストナだ」
「ガストナ卿?」
「そうだ。あの老いぼれが術であの娘を封じた。そう考えればすべてのつじつまが合う」
「そうだとすれば相当に強力な術が必要だ。相手は教書の告げる厄災の種、世界に終わりをもたらす者だぞ。町ひとつを贄にしても到底おいつかない」
ムスタフの台詞にアランが首を横に振って見せる。
「今はそれを議論する時ではない。あれを排除することこそが最優先だ」
そう告げると、アランは壺に溜まった血へ指を浸した。
「おい、アラン。何をするつもりだ? まさかあれを放つもりか? お前の体の一部まで持っていかれるぞ!」
「我らの信仰と未来がかかっている。それに比べれば私の体の一部など、どうでもいい話だ」
「しかし、禁忌の中の禁忌だ!」
声を上げたグスタフを、アランは床に膝まづいたままにらみつけた。
「グスタフ、何を恐れる? 邪魔をするつもりならお前も贄だ」
そう吐き捨てると、アランは血で床に描かれた幾何学的な図形へ、壺の血で複雑な文様を付け加え始める。それが尽きると、天井からぶら下げられた裸の男たちの心臓へ、次々と短刀を刺していった。
「ギャ――――!」
まだ息があった者たちの口から絶叫が漏れる。そこから流れ出た血が、じょうごのようなもので集められ、新たな血となり壺へと注ぎ込まれていく。
悲鳴が消えた聖堂の地下室に、今度はアランの人ならぬものへ語り掛ける詠唱が響き始めた。




