背信
「総員、ただちに海竜へ退却!」
エリクはそう叫ぶと船尾へ駆けた。どういう訳かカートランドからは撤退するなという指示があったが、海龍が制圧されてしまえば、海賊たち相手に勝利しても意味などない。背後からは海賊たちの反撃に倒れる騎士たちの叫び声も聞こえてくるが、それを気にする余裕もなかった。
『一体どうしてこんなことになったんだ!』
海竜へ繋がる架橋を前にしつつ、エリクは心の中で叫んだ。たかが一隻の海賊船に、教国の誇る浮沈艦である海龍が敗れようとしている。絶対にありえないことだ。
そもそもアラン枢機卿の指示してきたこの作戦自体が、あり得ないことだらけだった。冬を控えたこの季節にアラム海へ乗り出すなど、たとえ海龍だろうとも自殺行為以外の何者でもない。普通なら一昼夜も進まぬうちに厄災に襲われ、海の藻屑になってしまう。
だが船はいかなる厄災に会うこともなく、無事に航海を続けることができた。それだけではない、この大海原で海賊船を補足することにも成功している。それが何らかの禁忌の技によってなされたものであることぐらい、司教に過ぎないエリクにも想像がついた。
『教国の最精鋭である自分たちを、教団は捨て駒にしたのか?』
聖職者としての信仰心はそれを否定しようとするが、エリクの理性はそれが事実であると告げていた。だがまだ負けたわけではない。
奴隷たちは漕ぎ手としての体力はあっても、剣の使い方についてはほとんどが素人だ。それに架橋を落としてしまえば、海賊たちに攻め込まれる心配もない。
だが船尾にたどり着いたエリクの視線の先に映ったのは、奴隷たちに凌辱される海龍の姿だった。どこから手に入れたのか、武器を手にした奴隷たちによって、兵も船乗りたちも圧倒されている。いや、虐殺されていた。
「船を取り戻す。総員突撃!」
エリクはそう叫ぶと、剣を掲げて架橋から海龍へと突撃した。しかし架橋の反対側はすでに奴隷たちによって占拠されており、架橋を渡って、海賊船の方まで押し出そうとしている。
明らかにこちらの機先を制する動きだ。単なる暴徒なはずの奴隷たちに、軍としての統率があるようにしか思えない。相手には指揮官がいる。まずはそれを排除すべきだ。
エリクはそう決意すると、足場の悪い架橋の上で剣を振るいながら、奴隷たちを率いているものを探した。架橋の向こうで西方語で何かを話す声がする。視線を向けると、聖騎士のマントをまとった男が、矢継ぎ早に指示を出しているのが見えた。
その姿に、エリクは警備のものがなぜその男の侵入を許したのかを理解する。血にまみれてはいたが、背が高くすらりとしたその姿は、ここにいるどの者よりも、教国の聖騎士らしい威厳に満ちていた。
エリクはその侵入者を排除すべく、架橋の上で次々と奴隷たちを切り裂く。片腕を失った男が、あっけにとられて自分の腕を見ているのを蹴飛ばし海へ突き落すと、その背後にいた小柄な人影へ剣を突き出した。
その人影は狭い架橋の上で燕のように身をひるがえすと、エリクへ湾曲した短剣を差し出してくる。エリクは鎧で切っ先を受けると、その頭上へ剣を振り下ろした。しかしエリクの一撃は、腰まで届く髪をかすめただけで宙を切る。
「女か?」
よく見れば長い髪だけでなく、その体つきも女性のものだ。もっとも剣を持っている限り、女子供だろうが容赦をするつもりはない。エリクはその脇腹へ向けて剣を突き出した。だが下から振り上げられた長剣によって弾かれる。手に残るしびれが、相手が手練れであることを物語っていた。
エリクは反撃に備えつつ剣を構え直す。その先には全身を返り血に染めた、聖騎士のマントを羽織った男が立っている。エリクはその頬に刻まれた刀傷に見覚えがあった。いや、それを決して忘れたりはしない。
「だ、団長!」
自分が戦場にいるのも忘れて、エリクはその顔を見つめた。
「い、生きていたのですか!?」
エリクの問いかけに、オナスはその顔に苦笑いを浮かべて見せる。
「そうですね。まだ心臓は動いているようです」
「ならば、どうして我々に剣を向けるのですか!」
「エリク君、君は何のためにその剣を振るう?」
オナスからのいきなりの問い掛けに、エリクは面食らった。
「まじめな君のことだ。きっと信仰への忠誠と答えるだろう。だが君は何のために、何を祈っているのだ?」
「もちろん神を、神の偉大さを讃えるためです!」
「本当にそうだろうか? そもそも祈りとは手段であって、目的とは異なるのではないのかね?」
エリクはかつての上官の言葉に当惑した。
「信仰とは弱き人間への道しるべのようなものであり、祈りとは人々の迷いに救いを与えるためのものだ」
「信仰とは神への忠誠です。そして祈りこそが、我々の神への忠誠の証です!」
そう叫んだエリクへ、オナスが首を横へ振って見せる。祈りとは神が人に与えてくださった教書への、服従と忠誠の証に決まっている。自分だけではない。教国の国民全てにとってそうだ。
「私から見る限り、教国における信仰とは、教団が人々を支配するための道具としか思えないのだ。少なくとも人が命を捧げるべきものだとは思えない」
「あなたが裏切者に、背教者になるとは残念です!」
「君と切り合うのは不本意だが仕方がない。それに今の私は教師でね。かつて教官として君を守ったように、生徒を守る義務がある」
そう告げたオナスが、エリクに向けて長剣を構えた。エリクは渾身の力をこめて剣を振り下ろす。オナスはその剣を弾くように受け流すと、エリクと体を入れ替えた。
エリクから見て、オナスの剣に以前ほどの鋭さはない。それに自分も昔の自分ではないはずだ。十分に血の匂いを嗅いできている。エリクはオナスがこちらへ剣を向けるより先に、手にした剣を前へ突き出そうとした。
だがその手が不意に止まる。エリクの剣が血と人の臓物に汚れた架橋の上へと落ちた。歪曲した短剣が鎧の隙間へ突き立てられている。エリクは燃え上がるような痛みに思わず膝をついた。
顔を上げると、先程の若い女がエリクを見下ろしている。全身を赤黒い血に染めているのに、エリクはなぜかその娘をとても美しいと思った。
「後輩へのせめてもの情けだ」
エリクの耳に風切り音が聞こえる。それはかつてエリクがこの男から剣を学んだ時と同様に鋭かった。




