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海戦 ~前編~

挿絵(By みてみん)


 アイシャの耳に(オール)が水面をたたく音と共に、甲板下で櫂をこぐ男たちの「セイ・オー」という掛け声が響いてきた。甲板の上では船乗りたち、いや、剣を抜いた男たちがせわしなく動き回っている。


 先ほどまでは帆がはためく音と、船が時折立てる軋み音だけだったのが信じられない。それに進路を変えたらしく、船が左へと大きく傾く。その動きに、アイシャは思わず足を滑らしそうになった。


「ウマル、イシス!」


 バランスを崩したアイシャの手を、クルトが掴む。


「アカリム、クルト」


「マカリーム、アム、アイシャ」


 ありがとうと西方語で答えたアイシャに、クルトが少し驚いた顔をしながら答えた。西方語を使ったせいだろうか? アイシャはクルトが初めて自分を名前で呼んでくれたことに気づいた。


「まだここにいたのですか?」


 背後からオナスの声がする。どうやら船長のところから戻ってきたらしい。


「相手の船足が異常なほどの速さです。この距離はすでにあの船が備えているバリスタ(投槍機)の射程範囲になります。すぐに船室へ避難してください」


 そう言うと、オナスは午後の日差しに輝く海を指さした。黒く塗装された四本の帆柱を持つ巨大な船が、同航しつつこちらへ近づいてくる。


 アイシャはその主帆に描かれた金色の十字を、ガトーと共に欠かさず祈りを捧げた印を、複雑な思いで見つめた。


「アム、アイシャ、イスラ!」


 クルトにうながされて、アイシャは自分が使っていた船室へ入った。中に入るや否や、クルトが寝台横の引き出しから服を引き出し始める。


「アム、アイシャ、トロア、クアルト!」


「服を目立たないものへ変えます」


 クルトの言葉をオナスがアイシャへ伝える。


「オナス、ウント、イミルマ!」


 クルトの呼びかけにオナスが慌てて背後を振り向くと、アイシャの服はクルトによって手際よく脱がされた。アイシャは慌てて胸元を手で隠す。いくら奴隷の身とはいえ、男性に下着姿を見られるのは恥ずかしい。


 だがクルトは何も表情を変えることなく、船乗りらしい無地の麻の上着と、ゆったりとしたズボンをアイシャへ着せていく。最後にアイシャのまとまりの悪い髪をまとめると、頭に巻いた布でそれを隠した。


「マカリカ?」


 クルトがオナスへ声をかける。オナスは振り返ってアイシャの姿を眺めた。


「アマリ、ウルワース」


 そう答えると、僅かに首を傾げて見せる。


「ダム!」


 クルトはオナスに頷くと、今度は背後の引き出しから小さな壺を持ってきた。


「アナ、アイシャ、ツラウ、エマンド」


 そう告げると、壺の中を指ですくった。その指先には何か黒いものがついている。


「えっ!」


 その得体のしれない物体に、アイシャは思わず後ずさった。


「船乗りたちが使う日焼け止めです。服を変えても素顔のままだとばれるので、それを塗ります」


 クルトはオナスの説明が終わる前に、アイシャの顔へそれを塗り始めた。ひんやりとはしているが、薬草みたいな匂いが鼻につく。


「ダム!」


 クルトは満足そうにうなずくと、寝台の横にあった手鏡をアイシャへ向けた。そこには船乗り? いや、違う。


「まるで海賊にでもなったみたいです!」


 そう声を上げたアイシャに、オナスが思わず笑い声をあげる。


「アイシャ、ラム、アス、パダリア」


 オナスの言葉に、クルトも口元へ手を当てて含み笑いを漏らした。このまま船で世界中を旅できれば、どんなに素晴らしいことだろう。手鏡の中の自分を見ながら、アイシャは思わずそんなことを考えた。


 ドン、ドン、ドン!


 いきなり何かが船室の外を激しく叩く。その音がアイシャのつかの間の幻想を打ち砕いた。卸窓を貫通して何かが突き出しているのも見える。それは真っ黒な金属で出来た矢だった。


 ドカン!


 さらにこれまでの音が鈴の音に思えるほどの大きな音が鳴り響いた。オナスがアイシャの体を寝台の向こうへ弾き飛ばす。アイシャの体は寝台の先にいたクルトによって、そのまま床へ伏せさせられた。


 次の瞬間、何かが破片を撒き散らしつつ船室の中へ飛び込んでくる。それはアイシャの頭上を超えて壁へと突きささった。見上げると、太い丸太のようなものが壁へめり込んでいる。


「ううっ」


 木くずだらけになった寝台の向こうからうめき声が聞こえてきた。オナスが倒れた扉と言うか、入り口側の壁全体の下敷になっている。


 アイシャは床から飛び起きて、クルトと一緒にそれを持ち上げようとした。だがピクリとも動かない。クルトが天井から落ちてきた梁を壁と寝台の間へ差し入れた。アイシャは僅かに出来た隙間から、オナスの体を引っ張り出す。


「大丈夫ですか!」


 アイシャの呼びかけに、顔をほこりで真っ白にしたオナスが頷いた。


「背中の打ち身はさておき、寝台のお陰でつぶれずにすみましたよ」


 そう言うと、オナスは壁へめり込んだ丸太のようなものへ視線を向けた。


「バリスタで上甲板を、それもこんなものを打ち込んでくると言う事は、沈めるのではなく、乗船攻撃で制圧するつもりですね」


 ギギギギィ――!


 オナスは続けて何かを告げようとしたが、半壊した天井が不気味な音を立てた。どうやら壁が失われて支えきれなくなったらしい。


「ワライ!」


 クルトがアイシャの手を引いて外へ向かう。オナスもその後に続いた。アイシャたちが船室を出るや否や、部屋の梁と天井が大きな音を立てて崩れ落ちる。辺りを見回すと、甲板上のあちらこちらへは矢が突き刺さっており、船縁のところどころには大きな穴も開いている。


「頭を下げて!」


 オナスが叫んだ。そしてアイシャの背中へ覆いかぶさるようにして頭を下げさせる。

 

 トン、トン、トン!


 金づちで釘を打つような音が辺りから響いてきた。目の前では黒い金属でできた矢じりが、次々と甲板へ突き刺さっていく。


「こんな遠くから――」


 アイシャは思わずつぶやいた。それに頭の上から落ちてくるだなんて信じられない。


「聖教騎士団の長弓隊です。あれの弓ならこの距離でも届きます」


 オナスがアイシャの肩を抱くようにしながら、甲板の中央へ向かって走る。アイシャは視線の先に、浅黒く日焼けした肌の船乗りが横たわっているのに気が付いた。


「プリモス!」


 アイシャが覚えたての西方語で、男性に「大丈夫」と声をかけると、男性は力なく手を上げた。だがその背には黒い矢が深々と突き刺さっているのが見える。男性の手を握ろうとしたアイシャの体を、オナスが引っ張った。


「構うな。もう助からない!」


 だがうつろな目をしながら、必死に手を伸ばす男性の姿に、アイシャはオナスの手を振りほどくと、船乗りの元へ駆け寄ろうとした。


 ドカン!


 その時だ。アイシャの横の船べりが、爆発でもしたかのように吹き飛んだ。その衝撃に、男性の手を掴もうと前かがみになっていたアイシャの体も、甲板の上を転がる。そして破片と一緒に、海に向かって滑り落ちていった。


 キィキキィイイィ――!


 アイシャに抱かれたポラムが悲鳴を上げる。その鳴き声に我へ返ったアイシャは、何か掴むものがないかと辺りを見回した。だが掴まれそうなものは何もない。不意に足が宙に浮くのを感じる。どうやら体半分ほど、船べりから外へ飛び出したらしい。櫂の上げる波しぶきがアイシャの体を濡らす。


『ポラムだけでも助けないと!』


 そう思って前へ差し出したアイシャの腕が、誰かの手によって掴まれた。髪を顔に張り付かせたオナスが、必死の形相でアイシャの腕を掴んでいる。だがアイシャの濡れた腕は、ずるずるとオナスの手から滑り落ちていった。


「もう片手を出しなさい!」

 

 アイシャは片手を伸ばすと、その手でオナスの手首を握った。オナスはアイシャの体を持ち上げようとするが、船が傾いている上に足が滑り、持ち上げることができない。


「ポラム、あなただけでも逃げて!」


 アイシャは自分の肩にのる子ザルへ叫んだ。だが子ザルはキィキィと声を上げるだけで、アイシャの肩から離れようとしない。


『いけない!』


 このままだとオナスも一緒に海へ落ちてしまう。アイシャはオナスの手首から片手を離すと、肩に乗るポラムを掴んで前へ放り投げた。その反動でアイシャの腕はオナスの手からほとんど外れそうになる。


 だがもう片方の手が誰かの手によってしっかりと握り締められた。見ると腰にロープを巻いたクルトが、オナスの横でアイシャの手をしっかりと握っている。クルトの肩の上で、ポラムがキィキィと声を上げた。


「ポゼース!」


 クルトの声と共に、アイシャの体は一気に船べりへと持ち上げられた。


「イシス、ラフマール、グズラ!」


 クルトの言葉に、背後で縄を引いていた男たちが、一斉に持ち場へと戻っていく。


「私はもういい年なのですよ。あまり心臓に負担をかけさせないでください」


 オナスが荒い息をしながらアイシャへ告げる。


「助けていただいて、ありがとうございました」

 

 アイシャは二人に深々と頭を下げた。同時に自分の役立たずさにも腹が立ってくる。いや、役立たずどころではない。単なる足手まといだ。


「マカリーム、アム、イシス」


 クルトはアイシャにそう声をかけると、足元に横たわる男の腰に手を伸ばした。その目はもう何も見てはいない。クルトは開いていた目を閉じると、男の腰から剣を抜く。


「クロウン、アナ、アイシャ」


 クルトはそう一言告げると、その剣をオナスへ渡した。


「クルトはあなたの護衛役であると同時に、私の監視役でもあるのですが、私にもあなたを守って戦えとのお達しです」


 オナスがアイシャに肩をすくめて見せる。だがすぐにガキンという大きな音と共に、船体が激しく左右に揺れた。再び体勢を崩しそうになったアイシャの体を、オナスとクルトが左右から支える。


 アイシャの耳に、メキメキという何かが割れる音が響いた。船べりを見ると、長い棒が折れ、はじけ飛んでいくのが見える。それは二つの船の間に挟まれた櫂がへし折れていく姿だった。


「ウラ――――!」


 鬨の声が上がり、歪曲した刀や斧などで武装した屈強な男たちが、甲板へと駆けあがってくる。どうやら今まで下で櫂を漕いでいた船員たちも、すべて甲板へ出てきたらしい。


「少し狭いですが、我慢してください」


 そう告げたオナスによって、アイシャの体が持ち上げられた。下ではクルトが帆をしまうための大きな箱を開けて待っている。


「戦はここからが本番です。ここで帆の下に隠れていてください」


 アイシャの体が箱の中へ入れられると、クルトの肩にのっていたポラムも中へと飛び込んでくる。


「それとこれは護身のために持っておいてください」


 オナスは湾曲した細身の短剣を鞘ごとアイシャに渡すと、口元に指を当てて見せる。


 バタン!


 箱のフタが閉められ、アイシャの周りは漆黒の闇に閉ざされた。

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