悪寒
「この子ザルの名前はポラムです。トア、イルアス、ムア、ポラム」
アイシャの発音練習に子ザルが顔を上げた。最後のポラムという言葉に反応したのか、アイシャが机代わりにしている箱の上へ飛び上がってくると、手にしたバナナを差し出す。
「ポラム、今はお勉強中なの!」
「キキィキイ!」
アイシャの呼びかけに、名前がポラムと分かった子ザルが首を横に振って見せる。どうやらアイシャがオナスと西方語の勉強ばかりしていて暇らしい。相手にしてもらえないと分かると、今度はアイシャの頭の上へ飛び上がった。
「もう!」
「ポラム、ウント、アナ、イシス、ワタム」
クルトがアイシャの頭からポラムを持ち上げると、そっと床へおろす。子ザルは不満の鳴き声を上げたが、自分で器用にバナナの皮を剥くと、それを口へ放り込んだ。それを見たオナスが口元に笑みを浮かべて見せる。
船長のオズワルからは、人になつかないから気をつけなさいと言われていたが、アイシャから見る限り、ポラムはオナスやクルトにもなついているように思えた。きっと人見知りなだけなのだろう。
「疑問文は最後にマリカを付ける。ただし語尾で分かる場合は省略されることもあるので、気を付けるように」
そんなことをぼんやりと考えていたアイシャに、オナスが声をかけてきた。アイシャは慌てて前を見る。今はともかく集中して西方語を学ばないといけない。
だが何日もずっと朝からオナスと西方語の勉強を続けてきたせいか、肩がこって仕方がなかった。それにどういう訳か、今日は肩だけでなく頭も重く感じられる。まるで覚えた西方語が、頭のなかで重りにでもなってしまったみたいだ。
アイシャは頭を上げて肩を回した。頭上では白い帆が風を受けてはためき、その先では白い薄布を広げたような雲が、日の光を僅かに遮っているのが見える。それを見上げながら、アイシャは大きく深呼吸をした。
「マカリーム、アム、イシス!」
どこかから声が聞こえてくる。帆柱の上にある見張り台の船乗りが、アイシャへ小さく手を振っているのが見えた。
「マカリーム!」
アイシャはそれに手を振って答える。船乗りたちからイシスと呼ばれるのには抵抗があったが、幾日かするうちに船酔いと同じく、それほど気にならなくなっていた。
今では自分のあだ名なのだと思い込むようにしている。今まで村人から呼ばれていた、「忌み子」と言う呼び名に比べたらはるかにましだ。
それにあの夜以来、ラムサス王子が船室を訪ねてくることもなかった。よく考えれば単なる村娘にすぎない自分を、王子が女性として興味を持つはずもない。そう思うと王子を意識していた自分が、あまりにも恥ずかしく思える。
「マカリーム、アム、イシス」
横を通るひげ面の船員からも声がかかった。その腕はアイシャの太ももよりも太く、その体はまるで岩のようにすら思える。
「マカリーム」
アイシャはそう答えつつ船員へ小さく会釈をすると、前に座るオナスの方を向いた。
「皆さん、やさしい方たちですね」
『見かけは怖いですけど』と心の中で付け加えつつ、アイシャはオナスへ声をかけた。アイシャの書いた文法の採点をしていたオナスが顔を上げる。
「ただの船乗りをしているときはそうですね」
「どういうことでしょうか?」
「彼らが本職の仕事をしているときは、相手が女子供だろうが一切の容赦はしません。彼らにとってはそれも積み荷の一部です。船員たちがあなたを丁重に扱うのは、ラムサス王子が彼らの客で、あなたの所有者だからですよ」
アイシャの問いかけに、オナスが感情を感じさせない声で答える。アイシャはこの中年男性が、わざと自分に冷たい言葉を使っている気がしていた。
そうすることで、アイシャが自分の立場を勘違いしないように、余計なことを考えないようにしてくれているのだろう。
「ですがこの船は少し変わっていますね。私とあなたを除けば奴隷がいない。この手の船の漕ぎ手には奴隷を使うものです。それについては教国の船も、ガラムートの船にも違いはありません」
オナスが採点しながらつぶやく。
「教国で奴隷ですか!?」
その言葉にアイシャは思わず声を上げた。
「神の元の平等は、教国内かつ信者に対してのみ成立するものですよ。それはさておき、なかなかいい進捗です。あなたは記憶力がとてもいい。それに船酔いの方も何とかなったみたいですね」
オナスはそう告げると、解答用紙をアイシャへ戻した。そのほとんどは〇だが、ひとつだけ×がついている。どうやら複数の男性を表す「グルカ」のつづりを間違えたらしい。
「はい。おかげさまで」
オナスの言う通りで、最初の数日は船酔いがひどくて、勉強どころではなかった。それでも簡単な日常のあいさつや、基本的な文法は覚えられた気がする。問題は書く方だ。
西方の文字は教国の文字とは全く違う。それはアイシャから見ると、子供が棒で地面へ引いたみたいに曲がった線に、点を上や下につけ加えたもので、微妙な点の位置で音が変わるという厄介な代物だ。
「文字の方もだいぶ覚えてきました。ですが点の位置がまだあやふやですね。これを正確に覚えないと、意味が通じなくなります」
「はい、オナスさん」
「では、一度休憩を取ることにしましょう。休憩の後に名詞と動詞の学習の続きをします。今はともかく語彙を増やすことです」
「はい。よろしくお願いします」
立ち上がったオナスを見て、遊んでもらえると思ったのか、ポラムが箱の上へ飛び乗ると、アイシャへ両手を広げて見せる。アイシャもその小さな手を握ってやった。
だが子ザルは急にその手を引っ込めると、船べりの方へ視線を向ける。そして慌ててアイシャへ抱き着いてきた。その体はまるで瘧でも起こしたかのように震えている。
「ポラム、どうしたの?」
アイシャはポラムの震える体を抱きしめながら、頭をそっと撫でてやる。だがすぐにその手を止めた。アイシャもポラムが何を怖がっているのかが分かった。いきなり体の奥から悪寒のような震えが湧き上がってくる。
アイシャはポラムを抱えたまま立ち上がると、船べりへ駆け寄った。一見すると、そこには日の光に輝く海と、その先で湧き上がる雲しか見えない。
だけど間違いなく水平線の彼方から、何かがこちらへ向かってきている。アイシャにはそれが分かった。ポラムもそれが分かっている。
「アム、イシス、ウマル、ミカシタ?」
アイシャのただならぬ様子に、クルトとオナスも船べりへ飛び出してくる。
「どうしました?」
「何かがこちらへ来ます!」
アイシャはオナスに、悪寒の元がいる方角を指さした。
「イシス、ミカシタ、ウマルマ」
「イラス!」
クルトが帆柱の一番上にいる見張り員へ声を張り上げた。見張り員たちが手にした遠眼鏡で、クルトが指し示した方を眺める。アイシャはその姿を固唾をのんで見守った。自分の目には何も見えない。単なる勘違いだろうか? だけど何かが這い寄ってくる感じは、刻一刻と強くなっている。
「イラース!」
見張員の声に、船乗りたちが一斉に動き始める。その姿を見ながら、アイシャは地平線の彼方から迫りくる何かがもたらす恐怖に、体だけでなく心も震わせていた。




