忌み子
「アイシャ、今日は風が強い。火の始末には充分に気をつけておくれ」
「はい!」
教会の神父を務めるガトーの呼びかけに、下働きのアイシャは若い女性らしく元気よく返事をした。ガトーは長く伸びた白いものが目立つ顎髭を手でしごきながら、アイシャへ小さく頷いて見せる。
「では頼んだよ。私は早めに戸締まりをしてくるとしよう」
そう告げると、ガトーは色褪せた紺色の教団服を引きずりながら、本堂の方へ歩いて行く。アイシャはその後姿を頭を下げて見送った。
教書への信仰が全てを統べるここ教国では、教団の権威は絶対だ。だがガトーにそれを感じさせるところはない。もっとも教都から遠く離れた辺境の地ではそれを振るう相手もいないとも言えた。
ガトーの後ろ姿を見送ったアイシャは、夕飯の支度の薪を取りに教会の勝手口から外へ出る。勝手口の扉を開けた瞬間、アイシャの背中まである赤い髪の毛が、丘を吹き抜ける風に高く舞い上がった。
空を見上げると、真っ黒な雲が海側の西から東へと、何かに追い立てられるように流れていく。そのせいか、まだ陽がある時間のはずなのに辺りはもう暗い。
見下ろすと、丘の麓にある集落の家々から上がる夕飯の煙も、今日は真横へと流れている。そこに灯り始めた赤い光を見ながら、アイシャは小さくため息をついた。
17になるアイシャは、この村はずれの丘の上に立つ腐ちかけた教会で、神父を務めるガトーと二人きりで過ごしている。正しくは物心ついた時からずっとガトーとここにいて、それが世界の全てだった。
丘を下ればすぐそこにある集落すらも、アイシャからはとても遠い存在だ。そこにいる誰もアイシャと話をしようとしない。いや、存在自体を無視されている。
アイシャがまだ幼かった時、教会の敷地のすぐ横から、子供同士で遊ぶ声が聞こえてきたことがあった。
ガトーからは教会の敷地の外へは出るな、誰とも話をするなと厳しく言われていたが、あまりに楽しげな声に、アイシャは鬼ごっこをして遊ぶ子どもたちへ近づいた。
男の子の一人が、木陰からじっと見つめるアイシャに気づく。見慣れない子がいると思ったのだろう。不思議そうな顔をして見せる。しかしアイシャの髪を見て、「赤毛だ!」と叫んだ。
その声に、一緒に遊んでいた子どもたちが一斉に集まった。そしてアイシャの方を眺めながらひそひそ話しを始める。その姿をアイシャは固唾を飲んで見守った。
やがてもっとも年齢が上の男の子が地面から石を拾うと、アイシャへと投げつけてくる。それを合図に他の子供達も足元の石を拾うと、アイシャへ投げつけてきた。
石はアイシャの体だけでなく頭へも当たる。ズキズキした痛みにアイシャが頭へ手をやると、指先に何か暖かい物がべとりとついた。見れば指先は血で真っ赤に染まっている。その傷に驚いたのか、子どもたちが慌てて丘の下へ逃げていく。
「忌み子!」
駆け去っていく子どもたちが、口々にそう叫ぶのが聞こえる。
「アイシャ、どこにいる。午後の祈りの時間はとうに――」
背後から聞こえたガトーの声に、アイシャは慌てて裏庭から教会の中へと入った。だが額から滴り落ちる血が、アイシャの質素な麻の上着を赤く染めている。
アイシャはガトーからそれを隠そうとしたが無駄だった。ガトーの目に憂いの色が浮かぶ。アイシャは痛みよりも、敷地から出てはいけないというガトーとの約束を破った事を恐れた。
しかしガトーはアイシャの手を引くと、井戸で血を洗い流してくれただけで、アイシャを強く叱ったりはしなかった。それ以来、アイシャは村の誰とも交わることなく、ガトーと二人でここにいる。
自分がどうして「忌み子」と呼ばれたのか、アイシャがその真相を知ったのはもっと大きくなってからだ。ガトーは神父であるにも関わらず、アイシャに教書を読ませなかった。読み書きを教えられなかった訳では無い。代わりに植物学や動物学と言った実用書が与えられた。
それでもアイシャは自分が「忌み子」と呼ばれた理由を知ろうと、ガトーに内緒で、この世の全てが記されていると言われる教書を読んだ。そして終末記の一説にその答えを見つける。
「その赤き子は厄災の種にして、人々を惑わす者なり。そして世界に終わりをもたらさんとする者なり」
村人たちはアイシャの赤毛を見て、この厄災の種だと思っているのだ。幼い子供たちが「忌み子」の意味を知っていたとは思えない。しかし親たちがアイシャをその名で呼び、疎ましく思っていることは知っていたのだろう。
『忌み子』
その言葉は今もアイシャの心の奥で響き続けている。この世界で自分を受け入れてくれるのはガトーだけだ。老いたガトーがいなくなってしまったら、自分はどうなってしまうのだろう。丘の麓にある村はもちろん、教国のどこにもアイシャの居場所はない。
アイシャの顔にポツリと冷たい何かがあたった。どうやら嵐はもう始まってしまったらしい。アイシャはその黄色い瞳で空を見上げた。さらに数滴の雫がアイシャの顔を濡らす。
アイシャは手にした薪がしけらないように、エプロンの裾でそれをくるんだ。吹き抜ける風に裾がバタバタとうるさく音を立てる。アイシャはさらに勢いをました風にあがらって前へ進んだ。
視線の先では、東の空に昇った髪と同じ色をした真っ赤な月が、黒い雲に覆われて行くのが見える。ここには昇り始めの月と同じ色の髪も、高く昇った月と同じ色の瞳も、誰一人としてアイシャと同じ色をしたものはいない。
でもここではない別の場所ならどうだろう。そこには同じ色の髪をした人たちが居て、忌み子と呼ばれずに済むのかもしれない。どうせ酷い嵐になるのなら、自分をそこまで吹き飛ばしてくれないだろうか?
アイシャはそんなことを考えながら、教会の勝手口の扉を体で押した。
ズドーン!
耳というより体へ響いてきた轟音に、アイシャは飛び起きた。小さな油明かりが、手元にある植物学の本をかすかに照らし出している。気づけば部屋着を着たままだ。どうやら本を読んでいるうちに眠ってしまったらしい。
再び何かが倒れる音が聞こえてくる。近くの木に雷でも落ちたのだろうか? アイシャは質素な木の寝台から飛び降りると、麻と皮でできた靴を慌ててはいた。同時に誰かが廊下をこちらへと走ってくる音がする。弾けるように扉が開き、ガトーがいきなり顔を出した。
ガトーが手にする覆いを落としたランタンが照らし出すその顔は、いつもの温和な表情からは想像もつかない、慌てふためいた顔をしている。
「アイシャ、すぐに来るんだ!」
ガトーはそう叫ぶと、アイシャの腕を掴んだ。その力はあまりにも強く強引だ。
「神父様!」
アイシャはガトーに握られた腕の痛みに声を上げたが、ガトーはアイシャの声に反応することなく、アイシャ達が暮らす離れと本堂をつなぐ廊下を、本堂へ向けて走り始める。廊下から外を見ると、教会を囲む林の中で、たくさんの赤い光がチラチラと動くのが見えた。
『火事?』
アイシャは雷で木が燃え上がったのかと思ったが、右に左へ動くそれは松明の明かりらしい。雨でがけ崩れでも起きて、村人が出て来たのだろうか? でもその数は村人が総出で出てきたとしてもあまりに多く、激しく動き回っている。
ズドーン!
再び激しい雷鳴が響いた。立て続けに光る雷光で外が真っ白になる。アイシャはその明滅の中、教会の裏庭に人影があるのに気が付いた。
『誰だろう?』
よく見ると教団服を着た男性だ。今まで来客などいなかったこの教会に、しかもこんな夜中に何をしに来たのだろう。アイシャは首をひねった。だが男性は不意に背後を振り返ると、林の奥へと消えていく。
「神父様、外に誰かいます」
アイシャは前を行くガトーに声をかけた。だがガトーは何も答えることなく、アイシャの体を本堂の祭壇へ引きずっていく。
「アイシャ、この下に隠れるんだ。それと何があっても絶対に声を出さないこと」
ガトーはそう告げると、金色の塗装が剥げかかっている十字架の下へ、アイシャの体を押し込んだ。その目は大きく見開かれ、血走って見える。ガトーはアイシャの返事を待たずにランタンの灯りを消すと、祭壇を覆う幕を下ろした。アイシャの周囲が暗闇に包まれる。
アイシャはその闇の中で必死に耳をすました。嵐の吹きすさぶ音に交じって、ヒヒーンという馬のいななきも聞こえてくる。やはり外に誰か、それも大勢の人間がいるらしい。
続いて本堂の入口をたたく音が聞こえてきた。その音はまるで扉を打ち壊そうとしているみたいに激しい。いや、間違いなく誰かがここに押し入ろうとしている。やがて扉からはドンドンという低い音だけでなく、メリメリと言う扉自体が壊れる音も聞こえてきた。
扉が倒れる大きな音と共に、ビューという風の舞う音が響く。同時に地鳴りのような大きな靴音を立てながら、大勢の人間が本堂の中へなだれ込んできた。
「カザル、グラマール!」
誰かの怒声が聞こえる。その言葉は明らかに教国の言葉ではない。
『異教徒たちだ!』
アイシャは心の中で悲鳴を上げた。彼らは神を信じる心もなく、女子供の血をすするという。そうだ。ガトーは無事だろうか? アイシャは体を動かすと、たれ幕の隙間から本堂の中を覗いた。
たいまつの赤い光に照らし出され、薄汚い皮の鎧をきた男たちが立っているのが見える。その手には三日月形の見慣れない剣を持っていた。間違いなく彼らは異教徒、それも蛮族達だ。その中心で誰かが床に倒れているのも見える。男たちの間からのぞく色褪せた紺色の教団服に、アイシャは息を飲んだ。
「神父様!」
アイシャの口から思わず声が漏れる。その声は本堂の中に吹き込んでくる風の音にかき消された。だがその声に反応するかのように、ガトーの右腕が僅かに動いた。
芋虫の様に床を這うガトーの姿に、蛮族たちの間から嘲笑の声が漏れる。蛮族の一人がガトーの腕を足で踏みつけると、手にした剣をその背中へ向けた。
『助けないと!』
アイシャは自分が飛び出しても無駄だと分かってはいたが、ガトーを守ろうと祭壇のたれ幕に手をかけた。