3 西澤月の非日常
「ただいまー。茜、癒して」
月が帰って来た。
扉を開けてすぐにこっちまできて抱き着いて来る。
「おかえりさない」
もちろん跳ね除けたりなんかせずに迎え入れる。
交渉だか会議だかは能力的にも立場的にも助けられないからせめてこのくらいはと頭を撫でる。
背中をポンポンと叩いて宥める。
「(ジト―……)」
後輩の視線を感じる。
なかなか痛い。
月と一緒に帰って来た他の生徒会役員は去年から続投のため私達を生暖かい目で見ている。
何なら親目線かもしれない。
「新婚三択とかしないんですか?」
だからこんな空気の読めないことを言うのは新しく入った後輩くらいだ。
「茜で」
「新婚三択って何?」
月の反応でなんとなく分かってしまった。
「ご飯にするかお風呂にするかってあれです」
それともわ・た・し?
なんてね。
「(わくわく)」
そもそもご飯もお風呂もないこの場でやることじゃなくない?
選択肢が実質一択。
「そもそもこれ以上どうやって私を選ぶの?」
「あ、私外出てましょうか?」
「助かる」
「馬鹿言わないの」
少々暴走気味の月をどうにかしよう。
こうなったのは星那ちゃんの所為だからね。
左耳に顔を近づけて、
(またこんど、ね?)
月の耳元でささやく。
「~~~~~」
流石にみんなのいる前で私を選ばせる訳にもいかない。
私には月にだけ通じる技がある。
どうしても月が落ち着かなくなったらこうやって黙らせたらいい。
実はこれも付き合う前に知った。
今まで一回しかやったことはなかったけど、ちゃんと効果はあってよかった。
「新婚三択回避するためにもっとすごいことしてないですか?」
……。
知らないっ。
あの後放心状態の月をなんとか立ち直らせることに成功。
少し休憩していくため他の役員達は先に帰ってもらい、しばらく二人きりの時間を過ごすことにした。
もちろん冷やかされもしたけど、付き合いたてのカップルに気を使えと言って退散させた。
だからもう少しだけ、月と二人っきりだ。
「ねぇ」
二人っきりになった途端、月の雰囲気があやしくなる。
落ち着かせたと思ったけどそうでもなかったかもしれない。
――カチャッ
他の生徒会役員を見送った後、鍵を閉めて私のとこまで来る。
座ったままの私とこっちに歩いて来る月の距離は必然縮まった。
月の右手が私の左頬に触れる。
最初は人差し指。続いて中指、薬指、小指。
親指と手のひらの感触が冷たく心地いい。
「ちょっとそっち寄って」
椅子を退いてスペースを作る。
できた空間に、月が自分の身体を入れて、足を開いて私の膝に座る。
月の小さなお尻がのっかり、そのまま体重がかかる。
はしたないよ、なんて言おうかどうか迷ったけど、この雰囲気を壊すのもあれだ。
このままキスとかするのかな。
付き合い始めた瞬間からこの時が来ることは分かってた。
確かに経験はないけど、キャベツ畑を信じてるほど初心じゃない。
私達にコウノトリが来ることなんて二重の意味でないけど、デートしたり仲良くするだけなら友達でも良かった。
でも、月は私と恋人の関係を求めた。
私の膝に座っている分、いつもの目線じゃなくて少しだけ視線が高い。
普段から私達の距離は近いけど、今日は普段の比じゃない。
いつになく淫靡な空気が漂う生徒会室で、お互いを見つめ合う。
少し顔を近づけるだけでキスができる。
目が潤んでいるのが分かる。
まつ毛、意外と長い。
肌の肌理が細かいのが簡単に分かる。
私はついサボっちゃうんだけど、月は欠かさずスキンケアをしているらしい。納得だ。
月の顔が近づいて、お互いの鼻先が私達に先駆けてその距離をゼロにする。
こういう時、目を閉じた方が良いよね。
閉じた視界で月に身を任せる。
一端鼻が離れて、月に抱きしめられた。
あれ?
キスじゃないのか。
左頬は月の右手で埋まっている。
右頬は、たった今月の右頬で埋まった。
月の左手が背中に回されたので、私も自分の両手で抱きしめて月の温もりを感じる。
そのまま十秒、二十秒。
たっぷり一分は経ったと思う。
二人きりの静寂を破ったのは月の方だった。
耳元で月が息を吸い込む音が聞こえる。
息遣いまで伝わるほどの密着した中で、月が口を開いた。
「ねぇ、茜。友達にこんなことされて怖くないの?」
すぐには応えられなかった。
耳から伝わった音を神経が脳まで伝え意味を咀嚼し、私が返す言葉は単なる苦し紛れの時間稼ぎでしかなかった。
「何言ってるの?」
私達は友達じゃなくて恋人だ。
公序良俗に反するつもりはないけど、密室で抱き合ってキスするくらいなら当然の関係だ。
だって、私は、恋人同士ですることを普通にしてきたんだ。
だから、私は月に恋心を抱いてないとおかしい。
「あ、自覚なし?」
「私はちゃんと月のこと好きだよ」
「って。そんな訳ないよね。私の言いたいこと、茜はちゃんと分かってる」
「……」
沈黙は月の圧力に負けたことを意味する。
自分にないものを求めた罰を受ける時がきたんだ。
私だって、自分の感情くらい分かってる。
私は、月に対してこれっぽっちも恋愛感情なんて持っていない。
「これが好きって感情だと思ってた。私、月とキスしても嫌じゃないよ。そうじゃなかったら流石に恋人になってない」
そこまで明確なイメージを持ってないけど、おそらくキスのその先だって怖くない。
背中に感じていた月の手に力が入る。
感情の高ぶりを感じたのは一瞬で、すぐさま脱力した月の身体を支えるために今度は私が抱きしめた。
「あんまり挑発しないで欲しいなぁ。ホントに犯すよ」
恋は素晴らしいものらしい。
その感情に憧れたことは一度や二度じゃない。
月となら、手が届くんじゃないかって期待していた。今もしている。
キスをしたらその感情が分かるかもしれない。
「私は……」
「黙って。これ以上受け入れないで」
聞いたこともない低い声。
ここまで月が怒ったとこを見たことがない。
でも月の言うことは難しい。
一種のパラドックスじゃん。
そして、拒絶することがどうしてもできない私は動くことができない。
間違っていることだけは分かりながら、それでも行動できない私は卑怯者だ。
「無茶言っちゃったね。ごめん。ちょっといっぱいいっぱいなんだ。でもここで自制できないと、きっと二度と手に入らない」
力なく笑う月も見たことがない。
どんな状況でも頑張って皆に笑顔を振りまいて場を温かいものに変えるのが月だった。
「ここで無理やり唇を奪っても、茜は私を好きにならない」
「分かんないよ」
「分かるよ。茜のことなら茜より知ってる。キスしても、茜は無感動にこんなものか、としか思わないよ」
そんなことあるかもしれない。
興味関心はあるけど逆に言えばそれしか無い。
月は目に見えて興奮しているけど、私の方は何処か冷めてしまってる。
ううん。最初から暖まったりしていない。
熱くなれない。
「茜は私のこと、好きじゃない」
悔しそうな月の声を聞くのが辛い。
私が月を好きになれさえすれば解決する問題なのに。
「別に構わないよ。というか自分のことが好きだからって好きになる人いない。少なくとも茜はそんなタイプじゃない」
「それはそうかもだけど」
「あ、茜の好意を疑ってる訳じゃないよ。感情の大きさでいうならいっそ私より重い」
「そう、なの?」
「うん。きっとね。でも、その感情に名前を付けるとしたら、きっと友愛」
「……」
言い返すべきだ。
私と月は恋人で、ならきっとその関係は素敵なものであるはずなんだから。
私だってちゃんと恋愛できるはずなんだから。
「だって茜は、私とキスしても良いとは思っても、キスしたいとは思わないでしょ」
「そう……かもね」
「無償の愛なんて認めない。恋にはやっぱりドロドロしたものが必要なんだよ。茜にはそれがない」
「月にはあるの?」
「もちろん。抱きしめたいし抱きしめられたい。キスしたい。えっちしたい」
今の月の様な感情の揺れを、羨ましいと思うようになったのはいつからだろう。
まるで物語のヒロインがする、身を焦がすような恋心に憧れたのはいつからだろう。
「このくらいなら、茜は応えてくれるよ。分かってる」
たった一度も感じた事がないそれは非常に眩しくて尊くて、だけど諦めた。
それでも、諦めながらでも、目を逸らすことが出来なかった。
月となら手が届くかもしれないと夢見たんだ。
「部屋に縛り付けて拘束したい。頼れる人は私だけの状況を作って精神的にも束縛したい」
「流石にそれは勘弁してほしいな」
「何より、こんな感情を私に向けて欲しい」
月を束縛、ね。
できるわけがない。
「茜を独り占めしたいし、茜に独り占めされたい」
分からない。
月が楽しいならやっても良いけど絶対何処かで破綻する。
「半分くらいは叶わぬ戯言だよ、分かってる。でも、茜には半分どころかゼロだよね」
「私は茜を束縛したくもないし、依存してほしいわけでもない」
「あぁ、共依存とか憧れるね。理想とはちょっと違うけど」
「私は、月には月らしく生きて欲しい」
「だから、私が交際を求めたら付き合うし、唇を求めたらキスするし、体を求められたらえっちするって?」
月は今どんな顔をしているのかな。
私は今どんな顔をしているのかな。
見えないはずなのに、いつも笑っているはずの表情はどこにもないと分かってしまう。
「茜、自分が歪んでること気付いてる?」