8
温かい感覚が、心に染みていく。
こんな風に、自分を大切に扱ってもらったのは、いつ振りだろう。
東京にいる間は、私は自分の存在価値がないもののように感じていた。それは、最後の3年の期間で作り上げられた感覚だ。
3年前、職場でパワハラが始まった。
3年前、直属の上司になった萩原さんは、私が生意気だったのが悪かったのか、私を目の敵にし始めた。それでも、職場への愛着や、そのほかの人間関係に問題がなかったことや、同僚である彼氏の存在から、仕事をやめるという選択は私には出てこなかった。
だけど、最後の最後で、信頼していた彼氏の裏切りを知った。
その時の衝撃は、計り知れなかった。私の彼氏であるはずの人が、既に別に彼女を作っていて、私を貶めている上司に媚を売っている。
心が折れるのは簡単だった。
付き合って6年だ。6年分の信頼が、彼氏に向かっていた。そして、それが折れた。
全ての感覚が麻痺しているようだった。仕事は何とかこなした。表面上の笑顔も作れた。だけど、味覚すら失っていた。
心配した同郷の友人が、気分転換にと伊野島に行く手配をしてくれて、一緒に島に行くことになった。
そのミニ旅行中も、友人は私が何かをやってしまうんじゃないかと心配していて、常に一緒にいたがった。だけど、私はふらっと友人の目を盗んで早朝に一人で散歩に出かけた。
心配させたいとか、窮屈でとか、そういう理由ではなくて、何かに呼ばれたような気がしたのだ。
太陽が上がり始めた時間で、海は光に煌めいていた。そして、ふと海を覗き込んでみたのだ。別に飛び込みたいとか、そういう物騒な気持ちは全くなかった。ただ、何の気なしに海を覗いてみたのだ。
海がすごくきれいで、海の底が見えることに気付いた。空も青いことを思い出した。色のなかった世界が急に色づいたように見えた。ようやく、呼吸ができるようになった。そして、感情が動くようになった。
友人が血相を変えて海辺に来た時には、友人の憂慮が多少解消されるくらいの表情にはなっていたようだった。友人は私の表情が顔に出るのを見て、ほっとしていた。
友人に仕事をやめる話をすると、法律的な話と労働局に訴える話について説明された。私はこれ以上、萩原さんと彼氏とのことで気持ちを乱されたくなかったから、それはしないことを伝えた。ただ、萩原さんに引き留めにあわない効果的な辞め方だけは教えてもらって実行した。萩原さんは、引き留める時にもパワハラをしようとしていたけど、友人の教えてくれた方法で完全に回避することができた。
本来なら引継ぎが必要だったのだけど、事情をよく理解している同僚たちから、引継ぎはいいから、それよりも早く有休を消化して辞めるように言われた。有給もとらせてもらえていなかったから、1か月休むのに十分な日数が残っていた。
萩原さんと彼氏に否定されてしまったけど、周囲の人は守ってくれていた。それでも、私の中には否定され続けた3年間の記憶と、最後に裏切られた彼氏の記憶のせいで、自分の存在が無意味であるような感覚が抜けきらないでいる。
「どうして、泣いてるの?」
目を覚ました高田さんが、私の顔に手が触れて、私のほほが濡れているのに気付いたようだった。
「嫌なこと、思い出しちゃって」
高田さんの腕に力が入る。
「話せるなら、話して?」
「口に出すのも嫌だから」
「そっか。それなら、言いたくなったら、いつでも聞くから」
子どもにするように、私の頭をなでてくれる。
その安心する感覚に、私は眠りに引き込まれた。
*
目が覚めると、まだ私は高田さんに抱きかかえられたままでいた。もう、夜は明けている。
「高田さん、ちょっと寝るだけじゃなかったですっけ?」
顔だけ高田さんの方を向くと、しっかりと目があった。
「起きてるんじゃないですか。帰らなくて大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。今日は日曜だから仕事もないしね。眠くなったから、ちょっと寝るって言っただけだし」
高田さんは飄々としている。私の中では、夜中には帰るのかと思っていた。
「車、大丈夫かな。勝手に前に置いてるけど」
私は敷地の外に、無断で駐車してあるままの高田さんの車を思い出した。
「大丈夫じゃない? 敷地は余裕がありそうだったよ」
まあ、おおらかな島だから、そんなことで目くじらを立てるような人はいないか。
心配するとすれば、独身女性の家から見慣れぬ男性が出てきたことに対する噂だろうか。30歳の女性を捕まえて、どうこう言う人はいないから、大っぴらに応援されるくらいだろう。大っぴらに応援されるって、ダメージ大きいけど。
あ、と肝心なことを思い出す。私は慌てて、回された左手の薬指を見る。
指輪はしてないし、指輪の跡もない。元々指輪してない人もいるけど。高田さんって、独身なんだろうか。
一応、対象外と思っている中には妻帯者が含まれている。昨日は、確認もせずに流されてしまった。それだけは反省。
「結婚はしてないよ」
私が左の薬指に触れているのに気が付いて、高田さんが呟く。
「妻帯者じゃなくて、良かったです。良心の呵責に苛まれるところでした」
「結構潔癖なんだね」
「それは、人としては一応」
妻帯者ではないとはっきりしたので安心した。彼女の有無については問わない。それは、その場限りでいいと思っているからだ。
これで、潔癖だと言えるだろうか?