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「……薫」
もう忘れてしまったと思っていた声を、聴いただけで思い出すのは、やっぱり6年の月日があったせいだろうか。
私は振り向く。戸惑った顔の元カレがいた。
「お久しぶりです、南さん」
私はもう関係がないのだと、他人行儀に名前を呼んだ。
「……来てたんだな。俺……」
一体何の話がしたいんだろう? 私には何もする話などないのに。
「薫!」
呼ばれた声に、私はすぐに振り向く。なおさんが走って来た。
「おまたせ! あれ、南くん、いたんだ? 萩原さんは?」
「萩原さんは、そこに」
元カレが指さしたのは、そんなに離れていない場所で、私を睨む萩原さんがいた。
もうその表情も、私には怖くない。
「弘威!」
なおさんが後ろを振り向く。本宮先生が歩いてきていた。
「え?」
元カレが、声を漏らす。なおさんの口から、本宮先生の下の名前が呼ばれたからだろう。
なおさんの彼氏が本宮先生だと知っているのは、一握りだ。そもそも本宮先生は実家である本宮病院以外の病院で修行してきていたから、関わりがなかったから、ということもあるだろう。
「本宮先生!」
媚を含んだ声で、萩原さんがにこやかに近づいてきた。
「本宮先生、お久しぶりです」
私がぺこりと頭を下げているのを、萩原さんと元カレが怪訝そうに見ている。
「ああ、久しぶりだね、薫ちゃん」
「……本宮先生、北見さんのこと、知ってるんですか?」
萩原さんの声が固い。まさか、私と本宮先生に繋がりがあるとは思わなかったんだろう。
「萩原さん、私結婚して北見じゃなくなったんです。高田になりました」
なおさんの目配せに、私は元カレではなくて、萩原さんに伝えた。え、と元カレが声を漏らす。
「へー。結婚したんだ?」
萩原さんの声は、祝う気なんてない。でも、萩原さんに祝ってもらう必要を感じないから、どうでもいい。
「そうなんです」
私はにっこりと笑って、元カレを見た。元カレが、明らかにショックを受けた表情をしていた。……どうして、自分がフッた相手が結婚したことにショックを受けるのかはわからない。だけど、ようやく元カレのことを、完全に終わりにできた気がした。
「あ、そう言えばお二人にはまだ言ってませんでしたね。私も、結婚するんです。彼と」
なおさんが、本宮先生の腕を取る。
私は既に聞いていた話だったけど、萩原さんたちは初めて聞いたみたいだった。
萩原さんが、ギクリとした顔をした。
「え?! そうなの? 本宮先生、ついこの間、病院に来たばかりだよね?」
「そうですね。でも、付き合い出したのは10年前くらいからなので」
「え……そうなの……。し、知らなかったな。本宮先生、おめでとうございます」
萩原さんが、気を取り直したように本宮先生に満面の笑みを向けた。
「ありがとう。萩原さんの話は、なおから時々聞いていたよ」
萩原さんが笑顔のまま、首を傾げる。
「ど……んな話ですかね?」
「あまり口にしたくない話だったね。今後は気を付けてもらわないと」
萩原さんと元カレの顔が真っ青になる。
「いや、あれは……」
「次の科長は、そのあたりが厳しい人だから、もう大丈夫だと思うけどね」
本宮先生が続けた言葉に、萩原さんが、呆然となる。
なおさんが私に顔を向けた。なるほど、その話なのか。
「次の……科長……ですか?」
「ああ。来月から来ることになってるから」
本宮先生がニコリと笑う。萩原さんはあまりの衝撃に口をパクパクと動かして、がっくりと肩を落とした。
新しくリハビリテーション科に来る人なのに、トップである萩原さんが面接から弾かれることなんて、普通はない。
でも、もっと上の人たちは、萩原さん抜きで、この人事を決めた。
それは、萩原さんが、上からもう目を掛けてもらえることはない、という通告だ。
「薫、この後、なに聞きに行くの?」
なおさんは、スッキリした顔をして私に尋ねてくる。本当にスッキリしたんだろうな。
私はと言えば、もっと早くにその決定をして欲しかった、という気持ちはある。でも、もっと早くにその決定があったとしたら、きっと私は航さんと再会することもなかったんだと思うから、これで良かったんだと思っている。
たった一つ、運命が違っていたら、私は今ここに立っていないから。
どんなに辛くて悲しくても、それが永遠には続かないし、私の未来には必要なことだったんだと、今なら思える。
それは、今私が、自分で自分の人生を歩いていると思えるから、言えることなんだと思う。
「じゃ、失礼します」
私はぺこりと萩原さんと元カレにお辞儀をした。
私の過去の嫌な気持ちとは、完全にさよならをしたと思えたから。
萩原さんと元カレは無言で私をじっと見ていた。でも、もう怖くもないし、哀しくもなかった。




