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『もしもし? 薫、今いい?』
「もしもし? なおさん お久しぶりです!」
電話を掛けて来た相手に、声が跳ねる。私を伊野島に連れてきてくれた元同僚であり、先輩でもある友人だ。
『で、来月の学会、行くんだよね?』
この間話したばかりの内容に、私は首を傾げる。
「だって、地元であるのに、行かないなんてもったいなくないですか?」
今年の学会は地元である。幸い土日なこともあって、土曜日の午前出勤した後、午後から学会に顔を出すつもりでいた。
『えーっとね、うちの病院から、4人行くことになってて』
言いにくそうななおさんに、どうやらあの3人が関係しそうだと思う。
「3人のうち誰が来るんですか?」
『萩原さんと、あいつが。あの子は、演題とか出さないから却下されてた。ざまーみろよ』
なおさんは、元カレのことをとうとう“あいつ”と呼ぶようになってしまっていた。
「そうなんですね」
『薫、大丈夫?』
心配そうななおさんに、本当に支えてもらってたな、と思う。
「もう、大丈夫ですよ。だって、もう無関係な人たちじゃないですか」
私の人生には、もう二度と関わることがない人たち。その人たちにおびえて暮らしたくはないし、私の心は航さんに支えられて、本当に安定した。
『なら、良かった』
ホッとしたなおさんに、本当にありがたいと思う。
「なおさんも来るんですよね? あと一人は、誰ですか?」
『本宮よ』
あ、と声が漏れる。
「そう言えば、今年病院に戻って来るって言ってましたね」
本宮さんは、なおさんの彼氏。そして、私の元職場である本宮病院の次期医院長。とりあえず今は修行から戻ってきて、整形外科の部長になると、なおさんからも聞いていた。
「4人でごはん行きましょう!」
『うん。それは勿論なんだけど』
けど? 私は首を傾げる。
「けど、何ですか?」
『仕返ししない?』
「仕返し?」
『倍返し的な?』
疑問形で話すなおさんに、私は吹き出す。
「……どうでもいいですけどね、もう」
『えー。私はしてやりたいの!』
「一体、何する気ですか?」
『薫があいつに『結婚しました』って言うだけでも、結構ショック与えると思うんだよね』
私は首を傾げた。
「……そうですか? へー、で終わりそうな気がしますけど?」
『多分、あいつがあの子に靡いたのって、薫が結婚の話に興味を持たなかったせいじゃないかなー、と私は思ってるんだけど』
「……そうですか?」
『あいつは、薫と結婚したがってたんだよ。でも、薫は結婚願望なかったでしょ? そこにあの子がしゃしゃり出てきたんだと、私は思ってた』
「……そうなんだ」
初めて知った。でも、ああなる前に知っていたとしても、結婚しようとは思わなかっただろうと思う。
『そうなの。で、その結婚願望なかったはずの薫が、結婚しました! って言ったら、かなりショックだと思うわけ。だって、結婚したいと思った相手が、他の相手と結婚してるんだよ?』
「もう無関係ですけどね?」
『それでもね。自分が出来なかったのに、薫は他の人とは結婚したって事実は、堪えると思うんだよねー。未だに、薫は自分が他の女と付き合ってたから職場辞めたんだって思ってるみたいだし』
なおさんの呆れた声。
「……それは、勘違いですけどね。まあ、でも、元カレの前で『結婚しました』って言えば、完全に吹っ切れそうな気がしますね」
『でしょ、でしょ?!』
はしゃぐなおさんに、私は笑う。
「でも、見世物じゃないんですけど」
『あ、メインは別だから』
「メイン?」
『そう。萩原さんが、未だに科長代理って役職なんだけど』
え? と声が漏れる。
「だって、私が辞めてから2年以上経ちますよね?」
私が辞める時も、萩原さんは科長代理だったのに。
『どうして、代理が取れないかって? それは、私が本宮に全部話しているから。それが全部院長には行ってるから、でしょうね。萩原さん、部長クラスのドクターは誑し込めたみたいだけど、本家本元の院長は落とせてないんだよねー』
萩原さんは、上の人にいい顔をする人だった。
「それで、メインって?」
『それは、薫の目の前で話してあげるわ。私、本気でまだ怒ってるんだよね』
あー。なおさん、怒らせると怖いんだよね。勿論、あの時も萩原さんたちには怒ってくれていたんだけど、それでも、萩原さんを追い出すことなんてできるわけがなかった。
「あんまり、危険なことしないでくださいねー」
『自分の首絞めるようなことはしないわ。ちょっとした事実を萩原さんにつきつけてあげるだけよ』
私は苦笑する。
「じゃあ、来月。会えるの楽しみにしてます」
『ちょっと、薫。本気で私はやるわよ?』
「ほどほどでお願いします」
クスクスとなおさんが笑う。
『ほーんと、薫ってお人好し。ま、そういうところが好きなんだけどね』
「ありがとうございます」
『じゃ、来月』
「はい!」
通話が切れて、わたしはふ、と笑う。
萩原さんの話を聞いても、元カレの話を聞いても、もう声は震えなくなった。
だから、大丈夫。
「薫、お茶飲む?」
キッチンから顔を出した航さんに、私は頷く。
「飲みたい!」
「畏まりました。お嬢様」
私はプッと吹き出す。
「もう、お嬢様って年じゃないんですけどね?」
「じゃあ……お母さん?」
航さんの目が優しく私のお腹に向く。
「まあ、それは間違ってないですね」
母は強し、って言うけど、きっとそれだけじゃないと思う。私は、きちんとあのことを乗り越えたんだと思うから。
私の大切な人たちのおかげで。




