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「しばらくゆっくりしてみようと思ったんです」
まだ2月下旬の室温は低い。私は航さんの体にくっつきながら呟く。
「いつの話?」
「この部屋に初めて来たときの話です」
「ああ、去年の……一昨年の7月ね」
「ここに引っ越してきて。引っ越しの荷物片づけたらものが少なくて、今以上にがらんとした部屋に見えて」
「まあ荷物の少ない部屋だったよね」
「すごく寂しかったんです」
あの時のことを思い出す。
「物が少なくて?」
「人の気配がないからだと思います。私ずっと寮生活だとか実家での生活で、どこかしら人の気配のある生活をしてたから、人の気配のない生活って初めてだったし」
「そっか」
航さんが私の髪をなでる。
「でも人に会うのはまだ怖くて。最初は散歩だけして過ごしてました」
私の話を促すように、航さんが私の手を握ってくる。
「そのうち昼間は暑いし夕方も気温が下がらないしで、散歩の時間が朝に定まってきて、そしたら、いつもすれ違う人たちがいて。最初は挨拶だけしてたんだけど、すこしずつ世間話とかするようになって」
「世間話って?」
すごく不思議そうに航さんが聞いてくる。
「私が外から引っ越してきてるのは、みんな知ってて。島の景色がいいところとか、美味しい定食屋さんとか、直売所みたいな店じゃなくて買い物できるところとか教えてくれて」
あの時の話はとっても役に立って、本格的に向うの部屋に住むようになるまで活用していた。
「確かに世間話だね」
「毎朝会って話してるうちに、人と会うのも大丈夫かなと思うようになって。あの日引っ越してきて初めて島を出てみて」
あの日のことを思い出す。本当に、偶然に劇団Airの公演を見に行くことになった。
「あの日って、公演があった日?」
「そうです。」
「外に出たら、オオカミに食べられちゃったね」
いたずらっ子のように、航さんが私を見る。
「いえ。狩人に助けてもらいましたよ?」
「僕が狩人?」
「そうですよ。真っ暗なオオカミのお腹の中から出して助けてくれたから」
そこまで言ったところで、くしゃみが出た。電気を止めるの今日にしとけばよかった。
「服着ようか?」
起き上がった航さんの言葉に頷いて、私も体を起こす。
*
「窓開けてください」
流石にこのままこの家を離れるのは気分的に嫌だ。
コートを手に持った航さんが窓を開ける。まだ日は高くて外は明るい。風は冷たさを含んでいて、潮の匂いがかすかに混じる。波の音が耳に届く。
「しばらくゆっくりしようと思っただけだったんだけど」
私のつぶやきは窓辺に立っていた航さんには聞こえなかったようで、航さんが首をかしげる。
「航さんと結婚することになるなんて、人生って不思議だなと思って」
「人生は不思議なものでしょ。何が起こるかわからないから、人生って楽しいんだよ」
航さんがニコリと笑う。
「航さんは人生楽しいですか?」
「今は特にね。自分をもっと大事にしたくなった」
「私も自分を大事にしたいです」
私の言葉に航さんがにっこりと笑う。
「じゃあ、とりあえず我が家に帰りますか?」
航さんは、さっさと窓を閉める。
「まだ換気しときましょうよ」
私の言葉はやや非難めいた。でも、航さんはそれを無視してそのまま玄関に行ってしまう。
「コート着なくていいんですか?」
「今着れる状態にないからね。何でか説明してほしい?」
航さんの答えはわかってたけど、ちょっと意地悪くらい言わせてほしい。なのに航さんの答えは更に意地悪だ。
「説明してくれなくていいです」
私も渋々玄関に向かう。航さんは先に靴を履いて、ドアを開けて待っている。
私が靴を履いて外に出ると、航さんが静かにドアを閉めた。
「鍵、閉めて」
部屋のカギをかける。もうこれでこの部屋に来ることはない。私の一番つらい時と、幸せになっていく過程を知ってる家。もう来れないのが寂しいくらい。
「じゃあ行きますか?」
それでも航さんの言葉に、私は迷うことなく頷いた。私が居たいのは、航さんの隣であってこの場所ではないから。
「我が家に帰りましょ」
しばらくゆっくりしてみたら結婚することになったって、昔の職場の同僚たちに言ったらびっくりされるだろう。久しぶりに皆に連絡を取ってみようかな、と初めて思った。
昔の職場の同僚たちの驚く顔が想像できて、笑えてしまう。昔の職場のことを思い出して笑えたのは初めてだ。
「どうした?」
不思議そうな顔の航さんに笑みを向ける。
「航さんのこと好きだなと思って」
私の言葉に航さんは照れている。あんまり言わないから。
「僕も、薫のこと好きだよ」
照れたまま私の手を航さんが握る。重なり合った体温が心地いい。私も私の気持ちを伝えたくて、航さんの手を強く握り返した。




