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「ある日夜遅くまで残ってて、スタッフもほとんど帰った後で、スタッフルームの前を通ったら、中にその二人だけがいて、私の話をしてたんです。私が上司からパワハラ受けてる話を面白おかしく。それで、ああそうなんだと思ってたら、2人がキスしだして。しかも、私の方を向いた彼氏が、キスをしながら私を面白そうに見たんです。私がいるのに気付いて、そんなことしたみたいで。彼にとっては、私はもう傷つこうと関係ない存在価値のない相手だったんです」
「それは、ひどい。……まだ、消化はできてないのね?」
ミラー越しの視線が、心配そうだ。
「消化できた、と思ったんですけどね」
私は肩をすくめる。
「ずいぶん前のことなの?」
「4か月くらい前ですね」
「それじゃ、まだ消化は難しいわよね」
藤沢さんの声が揺れる。
「それでも、大分高田さんの存在に救われたんです」
「そうだったのね。そんなところを私がかき回した上に、好きな相手のトラウマのシーン見たら、ショックは大きいわね。自分のことだけを考えてしまって、周りの迷惑を考えてなかったわ。本当にごめんなさい」
「藤沢さんのことは関係ありません。トラウマのせいです。高田さんのことも好きなわけではないですから」
「好きって言ってるようにしか聞こえないんだけど」
藤沢さんの声が戸惑っている。
「そんなことありません」
「それなら、さっき高田さんから逃げたのは、なぜ?」
「それは……」
なぜ、なんだろう。
「嫉妬もあるんじゃないかと思うのよ。私はそれで失敗したからそう思うんだけど」
「嫉妬ですか?」
「相手を信じきれてないとね、疑念がわくのよ。もしかしたらとか、ありもしないことを想像して、勝手に相手に不信感を抱くの。存在もしない人に嫉妬したり、過去の相手に嫉妬したり。勿論今関わってる相手だってその対象になるわね」
あの、どろり、とした感情。私はトラウマだと思った。でもトラウマだけではないとしたら? 高田さんから逃げた理由になるのだろうか。
「わかりません」
「わからなくてもいいのよ。私は私の経験談を話しただけだから。これが正解だと言い切れるわけではないしね。みんなが同じような考え方で生きてるとしたら、気持ちが悪いだけでしょう?」
藤沢さんの説明は、とても優しかった。
「そうですね」
「若いころは自分が正義だと思ってたから、自分の考え方が正解だとかたくなに思ってて、生きにくかったのよ。そういう点では私は変われたのかもしれないわね」
藤沢さんは、何かを思い出したように遠い目をした。
*
車が信号待ちになると、藤沢さんは後ろを振り返った。
「そろそろ戻りましょうか?」
今はそんな気分にならなくて、首を横に振った。
「劇団の人に言づけて出てきたから、帰ってこないの、高田さんも心配してるんじゃない?」
「心配してますよね」
確かに藤沢さんの言うとおりだ。
「電話だけでもしたら?」
藤沢さんは信号とともに車を発進させた後、しばらくして路肩に止めた
携帯電話を取り出すと、高田さんからの着信が8件。今、またかかってきた。
今電話に出て、話ができるだろうか?
「どうしたの?」
チラリと私の手元を覗いて、今電話が鳴っているのに気付いた藤沢さんが、通話ボタンを押す。
慌てて、携帯を耳に当てる。
『薫、どこにいる?』
焦っているような、高田さんの声。
「言えません」
言葉がのど元に止まる。かろうじてそれだけ言えた。
私の言葉を聞いて、藤沢さんが車を動かす。
『迎えに行くから、どこにいるか教えて?』
私の硬い声に困ったような声になっている。
「10分もあれば着くわ。時間が経てばたつほど、なんてことない事もこじれるわよ」
藤沢さんが私をチラリと見る。
「あと10分くらいでマンションに着きます」
藤沢さんは、間違いなく私を連れていくだろう。諦めて事務的に返事をした。
*
「ありがとうございます」
マンションの前に到着して、私がそう言ったのと同時に、エントランスで待っていたらしい高田さんが出てきて、藤沢さんの車の運転席の窓をたたく。
「こんばんは」
藤沢さんは窓を下ろすと、のんびりと高田さんに挨拶する。
「薫をどうして連れて行った?」
高田さんの声は怒っている。
「高田さん違います。私が藤沢さんに頼んだんです」
私はドアを開ける。
「高田さん、私に八つ当たりするのやめてもらってもいい?」
「八つ当たり?」
高田さんの表情は険しいままだ。
「そう。こんなことになった原因は、なんとなく分かってるんでしょ?」
藤沢さんの言葉に、高田さんが詰まる。
「藤沢さんは私を助けてくれただけです」
高田さんと藤沢さんの車の間に、私の体を滑り込ませる。
「彼女、顔真っ青だったわよ。話聞いてあげて。じゃね」
藤沢さんは私にだけ会釈をして、窓を閉める。私たちが車から離れると、あっという間に車は見えなくなった。
「薫、あの子は全く関係ない子だから」
高田さんは私をまっすぐに見る。
「ここで話はしたくありません。家に帰りたいです」
私を穏やかにしてくれた、波の音が聞きたかった。
「わかった。車出してくるから待ってて」