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透明な水の奥の岩場を、小さな魚が横切った。
急に焦点が合ったみたいだった。
あ、と声が漏れる。
海の底が見えた。それだけで、純粋に嬉しかった。
顔を上げると、さっきまで気付かなかった空の色の青さに、気付いた。
潮の匂いが、鼻に届く。
何かが、心にすとんと落ちてきた。
都会から離れた伊野島は、海も空も澄んでいる。
「大丈夫?」
通りがかりの女性が、ハンカチを差し出してくる。
え? と私は首をかしげる。
「涙が出てる。これ、使って?」
話しかけられるまで、自分が泣いているのには気付いていなかった。
「ありがとうございます」
女性は微笑んで、行ってしまった。
呼び止める元気はなくて、ただ涙を押さえた。
本当に久しぶりに泣いていた。
泣き止んだ時には、心は決まっていた。
伊野島に、住もう。
ここには、実家から足を伸ばして遊びに来ただけだった。だけど、ここで暮らしたいと思った。
自分を、取り戻せそうな気がしたから。
決めたら、早かった。躊躇していた退職届を、すぐに出した。
一番大変だったのは、職場の引き留め、ではなく、引っ越し先の部屋を探すことだった。
それなりにお客が来る小さなリゾートで持っている島だけど、新しく住み着く人は多くない。それは、もうこの島が橋でつながっているからで、生活が不便な島の中に住むより、生活が便利な島の外に住んで、仕事や遊びのために島に来る人が、圧倒的に多いからだ。
需要がないので、供給も、ほぼない。あっても、ファミリータイプの大きな部屋で、私には必要ない大きさだった。
ようやく見つかったのは、今時、と思えるような、畳の6畳一間の部屋だった。お風呂とトイレはついてるので、文句はない。幸い、家賃相場は、東京に比べると断然安くて、しばらく働いていなくても、生活は大丈夫そうだった。
しばらくは、海の色と、空の色を楽しんで、過ごすことにした。
*
強い夏の日差しは、アーケードに遮られた。
涼しいとは言えないけど、影があるだけでホッと息をつく。アーケードに覆われた通りは、土曜日だからか、日差しを避ける人が多いからか、そこそこ人通りがあった。
人の少ない島から出たのは久しぶりで、人通りの多い道にまごつく。東京に居たときには、あれだけ人が多くても当たり前のように何も思っていなかったはずなのに、島より人が多いだけで、戸惑ってしまう。
「今日、公演があります。よろしくお願いします」
道の先で、良く通る声が聞こえた。
公演という単語に、耳が反応する。演劇なら見てみようかな、と久しぶりに思える。
まごまごしたまま人とすれ違い、ようやくたどり着くと、ぎこちなくビラを受け取る。
人と関わらない生活をしばらくし過ぎたせいで、自分の体の動きもおかしくなったみたいで、何だか笑えた。
そして、久しぶりに笑ったな、と自分で思う。
受け取ったビラには、劇団Airと書いてあった。あ、と声が漏れる。私の良く知っている劇団だった。
佐原さんまだやってるんだ、と何だか感慨深さまで感じてしまった。キャストの名前を追いながら、知っている名前を確認する。どうやら、舞台監督の高田さんくらいしか、他に見覚えのある名前はない。
丁度、15時からの回が控えている。これなら、帰りを心配する必要もない。本当は、1回通した後の2回目の19時からの回を見たいけど、船で帰るにも、バスで帰るにも、島への便は21時が最終だ。ギリギリの時間にはなりたくない。
そのまま公演場所に向かう。会場は、昔から劇団Airがよく使っている場所で、私もしばらく行ってないとはいえ、10年以上も通った場所だったから、道に迷うことはなかった。
チケットを買って、室内に入ると、結構盛況だった。やっぱり、佐原さんの話は面白いから、と思う。だから私も、10年以上この劇団の公演を見続けていたんだから。
でも、来れなくなった。それは、物理的な時間が取れなくなった、それだけでもなかった。私は嫌な感情に襲われそうになるのを、首を振って振り払う。
丁度、ブザーが鳴った。
その音で、私の気持ちが、昔公演を見ていた時の気持ちを思い出す。心臓が、ドキドキと動き出す。周囲が暗くなり、余計な雑念が消えた。
*
幕が下りて、周囲が明るくなって、ざわめきが広がると、私も我に返る。
面白かった! その一言に尽きた。心が満足しているのが分かる。
久々に興奮して、意気揚々と会場を出る。まだ観客たちは、席で雑談が続いている。
前回に見に来た公演は、非常に不満な出来だったから、興奮して会場を出るのは、3年ぶりになる。
舞台に出ていた団員が何人か会場の入り口で挨拶をしていた。一番端であいさつをしている男の子は、舞台に出ていた子だった。演技が、好みだった。それに顔も。主役ではなかったけど、準主役の立ち位置だった。これから、いい目の保養になりそう。そんなことを思える自分に、何だかホッとする。
会場の入り口で挨拶をしていたのは、次回の公演のビラを配っていたからだった。
迷わずビラを受け取ると、次回の公演の日を見る。再来月だった。しかも新しい演目。佐原さんが張り切っている姿が思い浮かべられて、私はクスリと笑う。
次の公演も見に行こう! と、思って、会場を後にしようとすると、肩を叩かれる。
知り合い来てたのかな? と思う。流石にこの劇団を14年前から見てたら、顔見知りもできるから。
開演前に見た感じだと常連さんは見当たらなかったけど、と、思いながら振り向くと、目の保養のタケル君(役名)から肩を叩かれていた。
私は首をかしげる。
「あの、落し物かなんかでしょうか?」
他に、思い当たる節はない。確かに顔は私の好みではあるが、年齢差がある相手では、本人からすれば、興味の対象にもならないだろう。多分彼は20才そこそこ。私は今年で29才だ。
でも、私の言葉を聞くと、タケル君は、私を睨みつけた。
なぜ睨まれているのかが、私には全く分からなかった。公演の最中に変な行動をした記憶もないし、睨まれるような理由がないと思うのだ。
もしかして昔接点があったのかも? と記憶をたどってみるけど、全く思い出せなかった。
「誰かと、間違えてない?」
流石に理由もわからず睨まれるのは楽しいことではない。つい、声にとげが出る。……島の暮らしで、おおらかになったつもりでいたんだけど。
「間違えてない。あんた、団長に謝れよ」
私より、更にとげとげしい声で、タケル君に言い返される。声が小さかったので、私にしか聞こえてはないようだけど、タケル君の様子がおかしいのは、同じ団員さんには分かったみたいだった。慌てて、女の子がやってくる。もう一人の団員さんは、裏に慌てて引っ込む。
どうやら、大ごとになりそうだと、私はため息をついた。