16
「薫って、呼んでもいい?」
高田さんの自宅に戻るエレベーターの中で、髪を触られながら聞かれる。
「いいですよ。嫌悪感はわかないので」
エレベーターを出るとすぐに高田さんの部屋があった。
「それ、今言う言葉?」
カギを開けながら高田さんが私をチラリと見る。
「付き合ってはないですから」
ドアが開いて先に入るよう促される。
「そうだね」
そう言って、高田さんが唇を貪る。高田さんの気持ちを知っていても私は抵抗しなかった。
「今日、稽古なければいいのに」
高田さんは唇を離すと、大きくため息をつく。
「そんなこと言うなら、私帰ります」
「冗談! 稽古は行きます」
「公演楽しみにしてるんですから」
「稽古頑張ってきます」
高田さんが苦笑している。
部屋の中へ入るとちょっと雑然とした感じは受けるものの、割ときれいな部屋だ。
「材料、ここに置いとくから。冷蔵庫の中のものとかも好きに使って」
ワンルームにしては、キッチンがしっかりしている印象。これなら自炊もしやすいかも。
「あと、これ見ていいから。」
高田さんは、本棚から一本のビデオテープを取り出して、リモコンと一緒にローテーブルの上に置く。
「なんですか、これ?」
「劇団の2作目の公演」
私は耳を疑った。
「え?! 高田さんが出演したやつですか? ないって言ってなかったですっけ?」
「恥ずかしかったのと、いつか餌にしようと思ってたやつだから」
「これなら私は確実に釣れますね。もう出しちゃっていいんですか?」
「もう、いい。恥ずかしいから帰ってくる前に見てほしいけど」
「すごく嬉しいです! 早くご飯作って見ます!」
「じゃあ、稽古行ってくる」
「行ってらっしゃい」
キッチンから高田さんを見送ると、早速食事の準備に取り掛かる。今日の夜ご飯は、ご飯とお味噌汁と煮物とだし巻き卵と冷奴。食べるのが遅くになるので、あまり重い内容にはしなかった。そのせいもあって、特に時間がかかりそうなものもない。
*
ビデオを見ていると、玄関からガチャガチャ、とカギを開ける音がした。
時計を見る。まだ早くないかな? とは思ったけど、まだビデオを見ている最中なので、お迎えは出ない。ごめんなさい。
「あれ、電気ついてる。航いるの?」
聞こえたのは女性の声で、玄関を見るとバッチリ目が合った。
……誰?
「誰?」
質問されて、立ち上がる。
「えーっと、あなたこそ誰でしょうか?」
間違いなく、私より年上だと分かる。きれいな大人の女性だ。たぶん高田さんの年に近いと思う。
「質問に質問で返すのは失礼だって、習わなかった? 私は航の彼女だけど」
あまり動揺はしていない様子で、私に返事してくれる。“彼女”の言葉になんとなく事情は理解した。
「不法侵入って知ってます?」
「私は航に貰った鍵で入ってきたから、それには当たらないわ。貴方、誰?」
「高田さんの友達です」
私の言葉は予想していたのとは違うようで、“彼女”は一瞬表情を変えたけど、気を取り直したように、冷静な声で話し出す。
「彼女が来たんだから、遠慮してもらえないかしら?」
“彼女”は、とても余裕のある様子で私を見る。
ずっと見ていると、この女性をどこかで見たような気がしてきた。どこで見たんだろう?
「あれ? これ、航が出てる。これ昔のやつでしょう? 何であなたが見てるの!」
まだ流れたままのビデオの映像を見て、それまで冷静だった“彼女”の声が怒った。
「高田さんが、見せてくれたんです」
「そんなわけないわよ。航、絶対見せてくれないんだから。……勝手に見たんでしょう?」
最後の言葉を言う頃には、“彼女”は冷静さを取り戻していた。
“彼女”の怒った声が、記憶を刺激する。どこかで聞いたような話し方。……舞台で見たかも。
「化粧が違っててわからなかったんですけど、劇団に前いらっしゃいましたよね?」
「私のこと知ってるって、あなた劇団のファンか何かなの?」
「そうですけど」
「航がファンに手を出すことはないわ。本人がそう言ってたんだから。それに、私航にプロボーズされてるのよ」
私の言葉に完全に余裕を取り戻したようで、笑みさえ浮かべて私を見る。
頭が痛い。誰かこの人を連れて行ってほしい。
「それこそ過去のことでしょう? 私は、高田さんがいま彼女がいないことを聞いてます。それに、高田さんがそのことで嘘をつくことがない事は信じています。突然来たあなたの言うことは信じられない。それで判断するとあなたは嘘をついてるとしか言えないですよね」
ひどく冷静に返事を返している自分に気付く。
「航はあなたに部屋のカギを渡してくれてる? ほら、あのベッドだって私が一緒に買いに行ったのよ」
私がそんな風に返すとは思わなかったようで、“彼女”は動揺したようだった。声に焦りが見える。そんなこと友達に言ってどうするんだろう?
「カギは単に、あなたが返してなかっただけでしょう? ベッドは、そんなに頻繁に買い替えるものじゃないですよね? 一緒に買いに行った、だからどうしたんです?」
私がことごとく言い返すことに、苛立ちも見えてきた。
「あなた出ていきなさいよ」
“彼女”の声から、冷静さが消えた。
「私の方が、部屋の主と一緒にきて正当に部屋に入っているので、あなたのことは不法侵入者として警察に電話しますが、良いでしょうか?」
私の返しに勝ち目がないと悟ったのか、“彼女”は怒りながら出て行った。部屋のカギは持ったまま。
……嵐が、去った。




