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「パワハラって、どんなの?」
高田さんが私を心配そうに見た。
「人前で怒鳴り散らされるのは当たり前で、患者様の目の前で、やってることを否定されたりとかも良くありましたね。それは私の技量不足と言われれば、仕方のない事なんですけど」
勿論、それだけではなかったようには感じていたし、同僚たちからもかなり同情されていた。
「それでも、患者との信頼関係作ってるところでケチつけられたら、仕事もやりにくかったでしょ?」
私は頷く。
「そうですね。結構大変でした。あとは、休みが思い通りに取れなくなりました。公演を見に来れなくなったのは、そのせいです。それまでは、公演の日と日程を合わせて地元に戻っていたんですけど、そんな予定を組んで有給申請や長期休みの申請をしても、上司命令で変更させられたり、更に細切れな休みしかもらえませんでした」
「何、それ。訴えたりした?」
低くなった声に、高田さんが怒ってくれているのだと分かる。
私は頷く。
「さらに上の人に訴えたりしましたけど、上司が絶大な信頼を得ているみたいで、全く相手にされませんでした。むしろ私の被害妄想という結論で、私の能力が足りないせいで起こったことだとされました。それに、それがパワハラをする上司に伝わるので、更にひどい罵りをされたりとかありましたね」
その時の辛かった気持ちを思い出して、声が震える。
「他に訴えたりとかは?」
私は首を振る。
「さすがにそれは。私の職場に問題があると公にすることになりますから、考えもしませんでした」
「それでも……」
高田さんは、もどかしそうだ。今の私なら、高田さんの言いたいことも分かる。
「それでも、訴えなかったんです」
「……それで、それが、どれくらい続いたの?」
「私が、職場をやめると決めるまでですから、3年くらいですね」
今更数える必要もない年数だ。私が私を失っていった時間の長さ。
「3年も? それまで、辞めようと思わなかったの?」
「上司が嫌だからやめるって、何だか負けたような気がしません? それに、もう長く務めている職場で愛着もあったことと、他はほとんど私の味方をしてくれて、仕事のフォローとかしてくれていたので、上司以外とは人間関係良かったんです。他の部署とも問題なかったですし。あと、同じ職場に彼氏がいたので」
私の言葉に高田さんが、彼氏……と呟く。
「その彼氏は、何て?」
「その上司にすごく怒っていて、できる限りのフォローはしてくれていました」
「そっか。でも3年も頑張ったのに、どうしてやめることにしたの?」
「その彼氏に、裏切られたんです」
声が震えるのは止められなかった。
「え?」
高田さんが私をちらりと見る。その表情は本当に私を心配してくれているんだと分かる。
「パワハラを年単位で受けてれば、さすがに精神的には疲弊してきます。それも原因のひとつだと思うんですけど、彼との関係にひびが入ってきて、丁度そこに別の同僚の女の子がするりと入って、私が知らないうちに二人が付き合うことになっていたみたいです」
私は声が震えるのを止めることは出来なかったけど、ハハ、と笑う。
「ケイちゃん、それ笑うところじゃないから。その彼氏、最悪だから」
高田さんの声は私を諭すようだった。
「そうですよね。……私が、一番心が折れたのは、彼氏がパワハラの上司に媚を売るようになったことなんです。その新しい彼女が、先にパワハラの上司に媚を売って信頼を得ていたんですけど、それに追随するように彼氏が媚を売り始めて」
「周りも二人が付き合ってるの、気付いてなかったの?」
「気付いていて、私に別れろって言ってくれてました。でも、上司に媚を売り出すまで彼氏は、私と付き合っている風を装っていたので、私は彼と付き合った6年の中での信頼から、周囲の言葉が信じられなくて」
「その男、人でなしだな」
高田さんの声が、恐ろしく冷たい。
「そうですね。彼に何があって、その心境の変化があったのかは知りませんけど、私からすれば人でなしです。よく考えれば、二人で会うことも、体を重ねることもなくなってたので、もう私たちの関係は破たんしてたんですけどね。それでも、私の一つのよりどころだったから」
私は窓の外を見た。
「そんな状態なら、誰だって、すがるところは欲しいよ」
忌々しそうに声を出す高田さんだけど、運転が荒くなるようなことはなかった。
「その後、私の感情が動かなくなっちゃって。心配した友人が、気分転換にって、伊野島への旅行を組んでくれて」
「それで、島に来たの?」
「そうですね。最初は、旅行も面倒だなくらいでしたけど、来て正解でした。やめる決心がついたから」
「どうして?」
「島に来て海を覗いたときに、海の底が見えて、すごくきれいで。そしたら、どんどん周りの世界が色づいていることに気付いて」
「それまで、色がついてなかった?」
コクリと頷いた。
「自分では気づいてなかったんですけど、たぶん。海の底が見えた時、新しい発見したみたいに嬉しくなりました。それで、こんなにきれいな色彩を見失うような今の職場に、こだわる必要があるのかと思って、やめることを決めました」
「でも、それだけで島に移住するって決める?」
「自分が取り戻せる気がして」
「島には実家からでも来れるでしょう? 実家に戻っても、良かったんじゃない?」
「それは、無理だったんです」
私は首を振る。
「どうして?」
「人に会うのがしんどくて。実家に帰ったら、家族とか、友達とか、ずっと戻ってないの知ってるから、きっとみんな心配して来ちゃうし。だから家族には、島には来ないように言ってあります。地元の友達には、まだ戻ってきたの教えてません。きっと怒られますね」
本当に誰にも会っていなかったのだ。時折高田さんに会うのを除いては。
私の言葉に、高田さんはため息をつく。
「良く、頑張ったね」
高田さんの優しい声が、心に染みた。




