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 到着したのは、高速で2時間ほど走ったところにある有名な高原だった。一面に草原が広がるこの場所は、観光地としても有名だ。でも、どうやら平日であることもあって、人はまばらにしかいなかった。

外に出ると、伊野島の気温とは違って寒い。標高が高いせいだ。高田さんの上着がなかったら、確かに凍えていただろう。

 高田さんと並んで、草原を見渡せる展望台に立つ。

 大きく息を吐く。草の匂いが、鼻孔をくすぐる。

 目の前に広がる緑が迫ってくる。素直に美しいと思える。

 自然の色が、私の感情を大きく動かす。


「ケイちゃん、どうしたの?」

 私の顔を見た高田さんが、ぎょっとする。

「きれいだな、と思っただけです」

 私の目からは、涙があふれ出していた。

「純粋に感動してるだけだから、心配しないでください。自分でも泣きたいわけではないんですけど」

 ようやく、見ているものを自分の感情に素直に受け取れるようになった気がする。


 地元も緑に囲まれているのが当たり前の生活だった。東京に出たのは8年前で、最初は緑が少ないことに、息苦しさを覚えていた。でも数年もするとその感覚は鈍くなり、東京の緑の少ない環境が当たり前になった。

 それでも地元に戻って緑を見ると、心が息を吹き返しているような気分になったし、公演も見て元気をもらって、そこでリフレッシュして東京に戻ることができていた。

 丁度、緑が恋しくなるころには、劇団Airの公演があっていた。社会人になってからも、公演を逃さず見ることができていたのは、公演が4か月から6カ月に1回の割合だったから、休みが取りやすかったからというのもある。


 そのサイクルが崩れたのは、3年前に萩原さんが上司になってからだ。目の敵にされて、有給はもとより、長期休みでさえ、思い通りに取ることを邪魔された。

 劇団Airの公演に合わせて帰ることなど困難だった。実家に帰るにも長期の休みをもらえず、移動時間と滞在時間を考えると、実家に帰るよりも家でのんびり過ごすことを選択する方が建設的な気すらした。

 それから、地元には戻らなかった。家族は心配して連絡をくれたけど、忙しくて帰れないとだけ言い続けていた。パワハラで追い詰められた上に、気分転換もできない状況だった。


 今となっては、なぜあの職場に固執してしまったんだろう、と思う。もっと早くあの環境から抜け出せれば、私の感情も麻痺するまでならなかったんだろうと思う。

 それでも、5年も働いた職場で、萩原さん以外との人間関係には問題がなく、同じ職場に彼氏がいて、やめようという気持ちは起こらなかった。上司が嫌だからやめるという理由が、単なる逃げの理由でしかなかったからかもしれない。

 ここに立って、ここの緑が目に入った時、昔地元に戻ってきて感じていた心の動きと同じものを感じた。

 この3年間私が失ったものを、ようやく取り戻せた気がした。


 自分だけだったら、きっと、もっと長く時間がかかったのかもしれない。でも、私を大切に扱ってくれる高田さんがそばにいてくれたから、この短い期間で自分の感情を取り戻せたんだと思う。

「ケイちゃん、ほんとに大丈夫?」

 私の目からは涙が止まらない。高田さんは涙をぬぐってくれてるけど、無駄な作業にすら思える。必死な高田さんの様子に、つい笑いが漏れる。

「ケイちゃん、僕必死なんだけど、笑わないでくれる?」

 高田さんがムッとしている。

「高田さん、ありがとう」

 高田さんは、涙を拭くのを諦めたようで手を止めた。


「ケイちゃん、何があったの?」

 心配そうな顔で高田さんが私の顔を覗き込む。

「まだ、話せない?」

 『まだ』。高田さんは、この涙が最初の日の涙と関係してるって、分かってるんだと思う。

 私は目を閉じて、小さく息を吐く。状況を知っていた職場の同僚以外には、話したことがなかった。……ううん。職場の同僚にも話したことはなかった。ただ、状況に気付いた同僚たちが、心配して声を掛けてくれていただけだった。私からは、話したくなかったから。


 目を開けて高田さんを見た。

「楽しい話じゃないんですけど、聞いてもらっても良いですか?」

 高田さんは、いつになく真面目な顔で頷いてくれた。


 *


 話が長くなるので、帰りの車の中で話すことにした。その前に、お昼ご飯を美味しいお店に連れて行ってもらった。そう言えば、二人きりで食事に行ったのは初めてかも。違う。デートらしいデートも、初めてだったんだって気付く。

 高田さんは先に話を聞きたがっていたけど、楽しい話ではないし、折角の初めての2人の食事では遠慮させてもらった。それでも、私が気持ちが穏やかなことが表情に出ていたようで、高田さんも無理強いはしなかった。

 

「それじゃ、帰ろうか?」

「はい。お願いします」

 車が動き出した。ハンドルを握る手を見て、ドキッとする。確か最初の日もドキッとしたことを思い出す。

 ちらりと高田さんを見ると、横目で私を見て、話を促すように頷いた。

「私が島に移住したのは、前の職場でパワハラにあっていて、色々積み重なって心が折れちゃったときに、同郷の友人が島に連れて行ってくれたことがきっかけなんです」

 丁度仲の良かった同僚は、同郷だった。

 

「パワハラ?」

 高田さんの声が、いつもより低くなる。

「そうです。ほら私、昔はもっと生意気だったでしょう? それが、3年前に上司になった人に目の敵にされちゃってパワハラされてました」

 少しだけ声が震える。

 それでも、ようやく誰かに自分の口から言うことが出来るまでになったのだ。

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