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高田さんの自宅は、劇団が良く使っている会場のそばのマンションだった。だからあの日も、すぐに車を持ってくることができたんだと分かる。
高田さんはすぐに上着を持ってくると、助手席の私に渡してくれる。
「ありがとうございます」
上着からは、かすかにタバコのにおいがする。
そう、高田さんの服とかからは、時折タバコの匂いがする。キスするときには、初日以外感じたことはないけど。
「高田さん、タバコ吸いますよね?」
私はずっと疑問に思っていたことを口にした。
「ごめん。その上着去年よく着てたから、匂いが染みついてるかも。もう一つの方がましかな?」
「ああ、いいですよ。高田さん、タバコの匂いが時々してたから吸ってるみたいなのに、私の前では吸ったの見たことないんで、不思議だっただけです」
「だって、ケイちゃん、女の子だから。副流煙っていうの、良くないんでしょう? だから、ケイちゃんの前では吸わないようにしてた」
学生時代、ちょっとの間だけ付き合っていた彼氏が、イライラするとタバコ吸いたくなるんだよ、と、私の前で平気で吸うような人だったから、高田さんの言葉は新鮮だった。あの彼は、なかった。
「ありがとうございます。でも、女の子って、30になって言われるの、ちょっと複雑です」
「え? ケイちゃんは、女の子でしょう?」
「……そうですね。時々、私、保育園の園児に間違われている気がします」
「園児には、欲情なんてしません」
そう言うと、高田さんが助手席に体を寄せて、私の唇を食む。
優しく、口の中を舌が這う。ん、と声が漏れる。
高田さんが体を離した。
「行くのやめる?」
その目には、欲情が宿っている。
「嫌です。連れって行ってくれるって言ったじゃないですか」
私は目を伏せて、自分の欲望を隠した。
「お願いします。草原を見に連れて行ってください」
私が頭を下げると、高田さんがクスリと笑う。
「いいよ。最初から、そのつもりだったしね」
あっさりと、高田さんは怪しい視線を引っ込めてハンドルを握る。
「今日も、夜稽古があって。ただ、こっちに戻ってきてケイちゃんを島まで送る余裕はないと思うから、うちで待っといてね」
でも、また違うトラップを仕掛けられた気分。
「ここまで送ってくれれば、自分で帰れるから、大丈夫です」
だけど、帰れないわけではないことは、よくわかっている。
「だって、女の子を一人で帰すなんて、できないよ」
クスリ、と高田さんが笑う。
「一人で帰れますよ、もういい大人です」
「いい大人が、日付がわかんないとか言うかなぁ?」
「さっき、園児には欲情しないって言ったじゃないですか」
ムッとして私は言い返す。
「そりゃ、そうでしょう。僕が心配してるのは、女の子であって園児じゃないから」
「女の子でも、一人で帰れますって」
「女の子を一人で帰すのは、僕が嫌だから、嫌」
高田さんの目は楽しそうに輝いている。
ああ言えばこう言う。切りがない。7月に初めて会話した時にも、こんな感じだったような気がする。
「高田さん、たち悪いです」
「今更、でしょう?」
どうやら、高田さんの家で帰宅を待つのは決定の様子。私はため息をついてみせた。
「夜ご飯は、どうするんですか? 作っていいんですか?」
「え、ケイちゃん、作ってくれるの?」
高田さんがおどろいたように目を見開く。
「いいですよ。どうせ、私暇なので」
「食材は、あんまりストックなかったんだよね。スーパーとか、後で教えるから」
とたんにご機嫌になった高田さんは、鼻歌を歌いだした。
「いつも、ご飯とかどうしてるんですか?」
素朴な疑問だった。
「公演前で忙しくないとき以外は、基本、自炊だね。保育士って給料良いわけじゃないから」
「仕事も忙しいんじゃないんですか? 行事があると遅くまで残るって聞いたことがあります」
友達にも、保育士になった子はいて、その子が言っていたのを思い出した。
「その時期はね。だから、行事の時期には、基本的に公演は入れないようにしてもらってる。みんな、それぞれに仕事あって、それぞれの忙しい時期があるから、それは避けるようにしてるよね。3月4月公演がうちにないのは、僕がいるせいだと思う」
「大学生の時には、春休みで基本暇だったので、この時期、公演何でないんだろうって思ったりしてました。そんな理由なんですね」
私は長年の疑問が解けて頷いた。
「ケイちゃんは、どこの大学行ったの?」
「県立大です」
「へぇ。何学科?」
「理学療法学科です」
「ああ、リハビリやる人?」
即答されたことに、私は驚く。
「ご存知ですか?」
理学療法学科、と言っても、首を傾げられることが多かった。
「祖母が、リハビリしてた時期があって。時々、見学させてもらったことがあったから」
私は納得する。
「なるほど。それだったら、知ってますよね」
実際に仕事を見たことがあるのならば、知っていておかしくはない。それに、リハビリをすると言えば、みんなすぐわかってくれる。
「それで、ケイちゃんが僕の体を見る目がエロくないんだね。何だか、標本見てるみたいな目で見られてるな、とは思ってたんだけど」
「そんなつもりではなかったんですけど。確かに、この筋肉はどうやってつけたんだろう、とか思って見てたことはあります」
私の言葉に、やっぱり、と高田さんは苦笑する。職業病みたいなものだ。人が歩いているのを見ているだけでも、実は歩き方をチェックしたりしてしまう。
それで言えば、高田さんは綺麗な歩き方をする人だな、とは思っていた。
そんな話をしているうちに、車は高速に乗った。
「どこまで、行くんでしたっけ?」
「それは、秘密。着いてからのお楽しみ」
高田さんはにっこりと笑うと、場所についての質問には答えてくれなかった。