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「手、好きなの?」
私はそのまま、高田さんの手を触っていた。
「指が長いから、ピアノとか、上手そうですね」
すっと長い指をなぞる。
「上手かどうかはわからないけど、小さいころから習ってたよ。仕事でも弾くしね」
高田さんの弾くピアノ、1回ぐらい聞いてみたいかも。舞台で弾いてくれるのが一番いいけど。舞台だったら間違いなく見に行けるだろうから。
この関係がこの先も続いていくのだとは、私には想像が出来なかった。だけど、劇団を見に行くことは、簡単に想像できた。
少し切ない気分になって、私は振り払うように首を振る。感傷的な気分になっても仕方がないのに。私たちは、昨日たまたま、関係を結んだだけだ。
「ごめんなさい。先にシャワー浴びてきます」
よいしょ、と、高田さんの腕を外して抜け出す。特に恥じらいもないので、体を隠すことなくそのままお風呂へ向かう。
シャワーで汗を流しながら、冷蔵庫の中のものを思い出す。卵と、パンと、牛乳があったから、フレンチトーストでも作ろう。
浴室から出ると、高田さんがズボンを履いてベッドに座っていた。昨日は何も思わなかったけど、高田さんはきれいに筋肉がついてる。仕事で鍛えられるもんなんだろうか? 40歳の体にしては、若いと思う。
「そんなにじっと見られると、さすがに恥ずかしいんだけど。ケイちゃんは、恥ずかしがったりはしないんだね?」
「今更、じゃないですか?」
体を合わせたのに、上半身の裸を見るくらいで照れるわけがない。ほんと、今更だ。
「じゃあ、シャワーも借りるね」
「バスタオルは、これ使ってください」
頭にバスタオルをかけた状態で、高田さんに向かって新しいバスタオルと一緒に出した手が、高田さんに引っ張られる。
「ちょっと!」
「ケイちゃんが動揺してくれないから、仕返し」
そう言って、高田さんは私の唇を貪る。
流石に今は無理だ。だから、昨日はしなかった抵抗をする。
「私体力ないんで無理です。昨日はごちそうさまでした」
唇が離れた瞬間に早口で話す。
色々あっている間に、私の体力もかなり減ってしまっていて、昔から比べると、筋肉もついていない。
言われた方の高田さんは、私の言った意味を理解するまでに、ちょっと時間がかかっている。
「ごちそうさまって、男のセリフじゃない?」
ようやく意味を理解した高田さんは吹き出す。
「お互い様じゃないですか。私は満足しましたから」
昨日の出来事は、お礼を言うに値する出来事だと思う。……私が心から満たされたから、なんだけど。
「それは良かった。僕もごちそうさまでした」
高田さんがぺこりと頭を下げる。
「じゃあ、シャワー浴びてください」
私はバスタオルを高田さんに放り投げた。
その後シャワーから出てきた高田さんとフレンチトーストを食べて、その日は解散した。特に約束はしなかった。
*
「ケイちゃん。持ってきた」
ドアを開けると、いつものように高田さんがDVDをひらひらとふる。
あれから、高田さんは、時々うちにDVDをもって現れた。
曜日感覚なんてなくなっている私には、その頻度がどうだったかについては、よくわからない。ただ、夜遅くに来るので、ご飯はいつも食べてから来ていて、次の日が休みの日を選んでいるようだった。
部屋に招き入れると、後ろから高田さんが私を抱きしめる。
「何ですか?」
振り返ると、高田さんの顔が近づいてきて、私はそっと目を閉じた。
高田さんとのキスは、好きだ。
最初はふんわりと優しいキス。心が温まる気がする。
そして、私の緩んだ唇から、高田さんの熱が入ってくる。
最初は、そっと。でも、私もおずおずと舌を絡めると、高田さんの舌の動きが大きくなる。それでも動きは丁寧で、雑じゃない。
徐々に欲望を引き出されるような、そんなキス。
唇が離れると、高田さんの瞳には欲望がちらついている。
きっと私の瞳にも。
それでも、高田さんの動きは、ゆっくりと優しい。
来るたびに、高田さんは、私を大切に抱いてくれた。毎回最初の時のように、私の中の女の子を、大切に大切にしてくれているように感じられる行為だった。
一度だけ私が女の子の日で、できない日があった。その日は私を自分の子どもの様に抱きかかえて、頭や体をやさしくなでてくれていた。
高田さんがうちに来るたびに、私の中に巣食っていた虚無感は、薄く、薄く、はがされていくようだった。
*
日課の朝の散歩を終えて家に戻ると、敷地に見覚えのある車が止まっていた。色も、車種も間違いない。
車に近づくと、高田さんが車から出てきた。
「どうしたんですか?」
「ケイちゃんさ、ドライブしない?」
特に断る理由もなくて、私は頷く。
「いいですよ。ちょっと待ってください。荷物取ってきます」
急いで荷物を持ってきて、助手席に座る。
「お願いします」
ちょっと息を切らせてお願いすると、高田さんが笑う。
「おいて行ったりしないから、ゆっくりで良かったのに」
「だって、高田さん先に車を走らせそうなんで」
「僕って信用ないね」
そうは言いながらも、高田さんの顔は笑っている。
体は何度か重ねていたけど、私たちの雰囲気は、最初とそれほど変わり映えしていない。高田さんが、ニヤニヤと笑っているよりは、普通に笑っている方が増えたことぐらいだ。
「高田さん暇なんですか?」
「公演来週に控えて、暇ってわけじゃないけどね」
「あ! ありがとうございます。私が忘れないように言いに来てくれたんですね」
「ケイちゃんポジティブだねぇ。でも、好きな劇団の公演日忘れるって、どうなの?」
「曜日感覚ない生活してるから、今日が何日か実はわかってないんです。うちTVもないし、新聞も取ってないし。それに、高田さんが時々来てくれるから、公演間近になったら教えてくれるだろうって完全に安心してました」
私の言葉に、高田さんは苦笑する。
「ひどい。僕のこと、伝書鳩かなんかだと思ってる?」
「伝書鳩にしては、伝達する内容が、基本薄いですけど」
「それも、ひどい」
そう言いながらも、返事が軽い高田さんは気にした様子はない。
私たちの会話の内容は、大体がくだらないことだ。それでも、今の私にとっては十分なリハビリになっている。
車はまだ止まったままだ。
「どこに行くんですか?」
「いつも海ばっかり見てるから、たまには山もいいかと思って」
「山なら島にもありますよ。小さいですけど」
私は何度か足を運んだ山を思い浮かべる。
「だだっ広い草原とか、どう?」
「草原ですか? まあ、ありかもしれません」
ここは小さな島だから、草原はない。どこにいくんだろう?
「じゃあ、上着取ってきてくれる? 標高高いから、たぶん肌寒いよ」
「私、まだ服の大半が実家にあって、上着とか持ってきてないんです。今度持ってこようかと思ってたんですけど」
困った顔をすると、高田さんが頷いた。
「じゃあ僕の貸すから。ちょっとうちに寄っていくね」
「はい。お願いします」
高田さんが、ハンドルを握る。車は滑らかに出発した。




