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骸竜ヴァルト・ハイゼン




 粘つく泥の中から無理やり体を起こすように、深く閉じていた瞼を開いた。

 楽園の中で微睡んでいた意識が次第に鮮明になってくる。

 私の体は、石造りの神殿のような場所に倒れていて、天井にはぽっかりと大きな穴が空いている。


 穴というよりは、天井が全て吹き飛んだように見える。

 そこここに瓦礫の山ができており、柱だけが残って吹き飛ばされた天井部分を見上げると、夕闇に染まる空が見える。


 橙色の紫色の交わる空には星が輝いている。

 とても、綺麗だった。


 私の体は、黒い水の中に横たわっている。とても浅い湖がどこまでも広がっているように感じられた。

 神殿は黒い水でできた浅い湖に覆われている。

 私は這いずるようにして体を起こした。


 ──そこには、黒い炎を纏った竜の姿がある。


 竜というものを、私は見たことがない。

 骸竜の姿というのは、歴史書や吟遊詩人の歌や、絵画の中に残っているだけだ。


 曰く。

 コウモリの翼に似た、二枚の巨大な翼。

 蛇や爬虫類に似た顔や体は鱗に覆われている。長い尻尾に、鋭い爪のはえた足。鋭い牙。

 

 骸竜の体は爛れていて、肉が崩れては再生することを繰り返している。


 けれど、目の前の骸竜は私が知っているものとは違う。

 その体は炎に覆われている。何もかもを焼き尽くすような、黒い炎だ。


 骸竜の前に、ラミア様が両手を広げて立っている。

 まるで骸竜を崇拝するように。


「あぁ、なんと荘厳な姿なのでしょう! ソファラ様の予言はやはり真実となった! ヴァルト・ハイゼンこそが骸竜だったのです!」


「……ヴァールハイト……」


 私は呆然としながら、愛しい名前を呼んだ。


「骸竜よ、全てを食い尽くしなさい! 愛するものを失った憎しみを、怒りを、大地にぶつけなさい! この国を滅ぼすのです! これでソファラ様は長きにわたる虜囚の身から、自由になることができる!」


 この国を、滅ぼす。

 骸竜──ヴァールハイトが。

 私ははっとして、黒い水をかき分けながら狂ったように笑っているラミア様の元まで駆ける。


「ヴァールハイト……!」


 濡れたドレスが、浅い水が、足に纏わりついて思うように進むことができない。

 体に鉛をくくりつけられたような重たい倦怠感が纏わりついている。

 一歩進むごとに息がきれ、節々が悲鳴をあげて、骨が軋んだ。

 それでもざばざばと飛沫をあげながら進んでいく私に、ラミア様ははじめて気付いたようにして視線を向けた。


「あなたは目覚めたのですか。ソファラ様の見せてくださる楽園の中で微睡んでいれば、安寧と幸福が約束されていたというのに。おかえりなさい、エルフィ」


「ラミア様、どうして骸竜が……! このままでは、王都の人々の命が危険に晒されてしまう!」


「それが、何か?」


 ラミア様は本当に不思議そうに、首を傾げる。

 その美しい顔には、何の不安も憂いもないように見えた。


「ソファラ様は、ラミア様は、王国民を守ってくださるのではないのですか……?」


「あなたは、この国に守るべき命があると考えますか?」


「それは、どういう意味……?」


「この国の人々の憎しや怒りや嫉妬や傲慢で流れた血を、ソファラ様は全て受け入れて石像へと姿を変えました」


 悲しげに瞳を伏せるラミア様の歌うような声は、怒りで満ちているように感じられる。


「それでも黒々とした感情は、ソファラ様の体では受け止めきれないぐらいに溢れ続けて──人柱をつくるしかなかった。人柱は骸竜となり、聖痕の英雄が生み出されて、そして英雄は骸竜となる。繰り返し、繰り返し」


 それは私も知っている。骸竜と英雄の真実は知らなかったけれど、この国には何度も骸竜が現れては、英雄に討伐されている。

 それが、ラミア様のいう繰り返しなのだろう。


「何度繰り返しても、血は流され、苦しみの感情は溢れていく一方でした。ソファラ様の教えは、隣人を愛し、許し、思いやりなさい。ただそれだけ。ただそれだけなのに、礼拝堂や神殿は日々ソファラ教徒で溢れているというのに、誰もその教えを守ることができないのです!」


 私は唇を噛む。

 何も言うことができない。私も、そうだからだ。

 私も良く怒るし、誰かを恨んだり、悲しくてどうにもならなくなったり、嫉妬することだってある。


「エルフィ、あなたは敬虔なるソファラの徒でなくてはならない王家の血筋に生まれたアレクに、騙され、殺されそうになりました。人は愚かです。それでも、あなたはこの国の人々の命に価値があると思うのですか?」


「……ええ。思うわ」


 私は人を怒るし、恨むし、悪口だって言うし、完璧な人間とは程遠い。

 けれどそれを、悪いことだとは思わない。


「ラミア様が言ったのでしょう、光があれば闇があると。誰かを恨んだり、羨んだり、憎んだりするのは……良くないことかもしれない。けれど、その気持ちと同じように、誰かを愛したり、大切にしたり、思いやることだってできる。残酷な人ばかりが、この国の全てではないでしょう!」


「私も昔はそう自分に言い聞かせていました。忠実なるソファラ様の従僕として、ソファラ様の望みを叶えるために。十年。百年。千年。永劫とも思える時間を、ソファラ様のそばでこの国を見てきました。……もう十分です。人は変わることができない。争いは、終わらない」


「そうかもしれない。でも……!」


「あなたがソファラ様の人柱となり、ソファラ様はその役割を終えて消えました。この地にはソファラ様の祝福はない。聖痕の英雄はもう生まれない。誰も骸竜を討伐できない」


 ラミア様の視線の先で、骸竜は静かに目を閉じている。

 まだ生まれたばかりで、目覚めを待っているように見えた。


「この世界は、骸竜が滅ぼす。全てを浄化し──やり直しましょう。人を慈しみ、思いやり、幸福だけがみちる楽園に」


「そんな世界は間違ってる。……それでは、自分で考えられない人形と同じだわ」


「誰もあなたを傷つけない。それは素晴らしいことでしょう」


「私は傷つけられても良い。辛くても、苦しくても良い! 愛する人が大切な人たちが、みんなが、笑ったり怒ったり、日々を必死に生きている、今が良い……!」


「でももう手遅れです」


 ラミア様は私から興味を失ったように、冷たく言った。

 骸竜の目の前には、黒い水の中に腰を抜かして座り込んでいるグレンの姿がある。

 竜の瞼がゆっくりと開いて、金色に輝く瞳がギロリとグレンを睨みつけた。

 ゆっくりと、竜が起きがある。その鋭い爪のある柱よりも大きな腕が、手が、グレンに向かって振り下ろされようとしている。


「駄目……!」


 その爪は、簡単にグレンの体を貫くだろう。

 その牙は、簡単にグレンの体を引き裂いて噛み砕くだろう。


 ──馬車には、肉片や血がこびりついていました。


 お父様とお母様のように──ヴァールハイトは、グレンを殺してその体を喰らうだろう。


「駄目、ヴァールハイト、駄目!」


 もし誰かを傷つけてしまったら。殺してしまったら。喰らってしまったら。

 ヴァールハイトはきっと戻ってくることができない。

 そんな確証が、胸を過ぎる。

 私はラミア様の横を、グレンの横を通り過ぎて、骸竜ヴァールハイトの元まで駆ける。 


 私は何も持っていない。聖銃もないし、戦う術もない。

 けれど、恐ろしさは感じない。

 私に楽園の夢を見せていたのがソファラ様だとしたら、楽園から目覚めさせてくれたことにもきっと理由がある。


「ヴァールハイト!」


 私には、役割がある。私なら、ヴァールハイトを連れ戻すことができる。

 何か多くのことを望んでいるわけじゃない。

 一緒にロングラードの領地に帰って、穏やかに暮らしたい。それだけだ。

 領地がなくても良い。信頼できる人たちを連れて、どこかの家で。誰もいない場所でも良い。

 そこで暮らしていけたら、それで良い。


「聞いて、ヴァールハイト! あなたはヴァルト・ハイゼンではないでしょう! 聖痕の英雄なんかじゃない! 私の大切な、大好きな、ヴァールハイトでしょう!?」


 過去などいらない。

 今だけがあれば良い。

 骸竜の瞳がグレンではなく私を獲物だと思ったのか、真っ直ぐに見据えた。

 大きな口が開かれる。口には、鋭い牙が並んでいる。


「お願い、戻ってきて……! ごめんね、あなたの言うことを聞かなくて……あなたを悲しませて、ごめんなさい……!」


 ここにヴァールハイトがいるということは、異変に気づいて私を助けにきてくれたのだろう。

 その時、私はもう黒い湖の中に沈んでしまっていたから、ヴァールハイトは私を死んだと思ったのだろう。

 私が死んで、嘆き悲しんでくれた。

 骸竜になってしまうほどに、絶望してくれた。


 それは私を愛してくれているからだ。


「あなたに誰も傷つけてほしくない! お願い、一緒に帰りましょう……?」


 この世界は──ラミア様の言う通り、憎しみや怒りに満ちているかもしれない。

 残酷なことだってたくさんある。

 けれど。

 ソファラ様は国を、人々を守りたいと願った。骸竜を生み出すこと以外に、どうすることもできなかったのだろう。

 ラミア様は、ソファラ様に忠実だった。何度もこれで終わりになるのかと希望を抱いては、また駄目だったと失望して。同じことを繰り返し、疲れ果ててしまったのだろう。 

 グレンやアレク様のことは、私にはわからない。

 わからないけれど、嫌なやつだから、悪い人たちだから、その命に価値がないとは思えない。


 裁くのは私じゃない。

 理性を失った骸竜でもない。


 私たちは、知性をもつ──人だから。


「ヴァールハイト、良い子ね。たくさん頑張ってくれて、ありがとう」


 両手を広げると、私を噛み殺そうとしているのか、骸竜の顔が私に迫ってくる。

 私は微笑んで、竜を見つめる。

 竜の姿の奥に、泣きそうな顔をしているヴァールハイトの姿がある。

 近づいてきた顔が、巨大な虚のような口と、鋭い牙が、私の前でぴたりと動きを止めた。


「大好き」


 私はその口を鼻先を顔を、両腕で抱えるようにして抱きしめる。

 私など一呑みにできそうな口に、唇を合わせた。

 きっとヴァールハイトなら「俺を良い子だと褒めて、キスしてくれエルフィ」と、甘えたように言うだろうから。


「……エルフィ」


 低い声が、私を呼んだ。

 閉じていた瞳を開くと、骸竜の瞳に知性の光が宿っている。

 その体に纏う炎が、するすると消えていく。

 ロングラードの冬に見られるダイヤモンドダストのように輝いて、黒い炎も黒い水も、夕闇の空へと溶けていった。





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