深い夢から目覚めるように
紅茶の良い香りが、部屋に漂っている。
朝の澄んだ空気と柔らかい光の中で、私はふかふかのベッドに寝転んでいる。
さらりとしていて着心地の良いシルクの寝衣は私のお気に入りだ。
柔らかいベッドと私を包む掛け物が暖かくて、ずっとここにいたいと思う。
「エルフィ、おはよう」
「……おはよう、ヴァールハイト」
掛け物にくるまって丸まっている私の体を、ヴァールハイトの大きな手のひらが撫でる。
閉じていた瞼を開くと、秀麗な顔が至近距離にあって、優しく微笑んでくれている。
ここは──どこだったかしら。
私たちは、無事に旅を終えて、ロングラードのお屋敷に帰ってきたんだっけ。
ぼんやりしていた世界が、形を成してくる。
ここは私の部屋。私のベッド。
ぬいぐるみのジョゼちゃんがベッドに寝かされていて、私はジョゼちゃんを抱えて眠っていたみたいだ。
「エルフィ、今日も可愛いな」
「あ、朝から、どうしたの……?」
「いや。そう思ったから、そう言った。エルフィ、俺のエルフィ。愛しているよ、エルフィ」
「……ヴァ、る……」
何度も愛していると言って、熱を帯びた黒い瞳で私の顔を覗き込む。
ベッドがギシっと鳴った。
ヴァールハイトは私に覆い被さるようにしながら、私の顔の横に腕をつく。
ゆるく癖のある長い黒髪が、私の顔にかかった。
──嬉しい。
嬉しい。
愛してくれて、嬉しい。
ここは、とても安心できる場所だ。私の部屋。私の好きな人たち。好きなものに囲まれていて、私を愛してくれる人がいる。
「エルフィ……紅茶を淹れて、食事を運んできた。だが、あんたの可愛い顔を見たら、朝食よりも前に食いたくなった」
「ヴァールハイト、今、何時……?」
「時間なんてどうでも良い。俺とゆっくり愛し合う時間の方が、仕事よりも大切だろ?」
甘えたようにそう言って、ヴァールハイトの唇が私の首筋に落ちる。
甘くて。淫らで。安心できて。
私は、この部屋にずっと、いたい。
「エルフィ、好きだ。俺のエルフィ。俺のことだけ考えていてくれ。今日は一日中、ここにいよう」
「……ん」
それができたら、どれほど幸せだろう。
でも、私は何か、大切なことを忘れているのではないかしら。
私は王都に向かって、アレク様の結婚式に顔を出して。
それから。
それから。
何か、とても怖いことが──。
「ヴァールハイト、怖いことが、起こった気がするの。助けてと、叫んだような気がするのよ、私」
「気のせいだろ。何事もなくあんたは大神殿から戻ってきた。ロングラード領に帰ってきたじゃねぇか。約束通り、結婚してくれるんだろ、俺と」
「ええ。それは、もちろん……」
何か、違和感がある。
記憶が抜け落ちているような、違和感がある。
何かが、どこかが、間違っているような気がする。
ここはこんなに幸せな場所なのに、間違っていると思うことがおかしいようにも思える。
「ヴァールハイト……アレク様は……」
「ベッドで他の男の名前を出すのはマナー違反だと思わねぇか、エルフィ。妬ける」
「……ごめんなさい」
「謝らなくて良い。可愛いエルフィ。あんたは俺のものだ。他の男の名を呼ぶな。他の男のことも考える必要はない。エルフィ……ここに、ずっと。俺と一緒にいてくれ、エルフィ」
エルフィ。エルフィ。
名前を何度も呼ばれると、考えなくてはいけないことが薄れて消えていってしまう。
唇から甘い毒を注がれているように、頭が霞みがかるようにぼんやりしてしまう。
私はここにいていい。
何も考える必要もない。
ここは安心できて、安全で、何の悩みも憂いもない場所で。
ヴァールハイトに、愛していてもらえる。
「永遠に、あんたを愛している。エルフィ。一緒にいると言ってくれ。どうかあんたのその可憐な声で、俺を愛していると、言ってくれ」
「……私は、あなたを愛している。……でも、……私は」
本当に、何も起こらなかったのだろうか。
何事もなく領地に帰ってこられたのだろうか。
頭が痛い。考えようとするとずきずきと痛む。
暗がりの中で落としてしまった宝箱の小さな鍵を、手探りで探しているみたいだ。
「ここは……ここはどこなの、ヴァールハイト。ここは、本当にロングラードの屋敷なの……? それに、あなたは……」
ヴァールハイトはジョゼちゃんを私が抱きしめて眠ることを嫌がった。
邪魔だと言って、投げ捨てた。酷いと怒る私に、酷いのはあんただと拗ねたように言って、詰った。
それはいつものことで。
だから私は、ジョゼちゃんを最近ではソファや椅子に寝かせるようにしていた。
どうして今日は──違うのだろう。
「ここはロングラードの屋敷だよ、エルフィ。俺はヴァールハイトで、あんたを愛している」
エルフィ、愛している、好きだ、エルフィ。
先ほどから、そればかりだ。
何かが、違う。
やはり、違う。
ヴァールハイトは、軽々しい言動をする人だけれど。
私の質問をはぐらかしたりはしない。真っ直ぐに向き合って、自分の意思を伝えてくれる。
大切なことは何度でも、話し合ってくれる人だ。
──ここは私の居場所じゃない。
どこかで、ヴァールハイトが。
私に、手を伸ばしてくれている気がする。
エルフィ、起きろと。
名前を呼んでいる気がする。
「……ヴァールハイト。ごめんね。……私は行かなきゃ」
「俺を置いて行くのか、エルフィ」
「ごめんなさい。……私は、眠っているわけにはいかない。辛くて、苦しくても。私は、私の本当の世界に、戻らないと」
私は、ベッドから立ち上がる。
ベッドの上に、ジョゼちゃんと、ヴァールハイトを置いて。
行かなきゃ。ここから、出ないと。
私にはやるべきことがある。
──甘い夢の中で微睡んでいるわけにはいかない。
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